コンテンツにスキップ

「水戸学」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎後期水戸学: 江戸開城
Sasame338 (会話 | 投稿記録)
 
(32人の利用者による、間の40版が非表示)
1行目: 1行目:
{{独自研究|date=2016年10月20日 (木) 07:26 (UTC)}}{{脚注の不足|date=2022-07}}
'''水戸学'''(みとがく)は、[[日本]]の[[常陸国]][[水戸藩]](現在の[[茨城県]]北部)で形成された[[学問]]である。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「'''[[愛民]]'''」、「'''[[敬天愛人]]'''」などの思想は[[吉田松陰]]や[[西郷隆盛]]をはじめとした多くの[[幕末]]の[[志士]]等に多大な感化をもたらし、[[明治維新]]の原動力となった。
'''水戸学'''(みとがく)は、[[江戸時代]]の[[日本]]の[[常陸国]][[水戸藩]](現在の[[茨城県]]北部)において形成された学風、[[学問]]である。第2代水戸藩主の[[徳川光圀]]によって始められた歴史書『[[大日本史]]』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主[[徳川斉昭]]のもとで[[尊王攘夷]]思想を発展させ、[[明治維新]]の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を'''前期水戸学'''、斉昭を中心とした時代を'''後期水戸学'''として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは[[天保]]期であり<ref name=":0">{{Cite|和書|ref=harv|title=日本古典文学大辞典第5巻|author=日本古典文学大辞典編集委員会|date=1984-10|publisher=岩波書店|pages=607}}</ref>、「天保学」とも呼ばれる<ref name=":0" />。
[[戦後]]は水戸学に基づく[[尊皇攘夷]]思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持って<!--おり、戦後の誤った歴史観から脱却するためにも、根本的な見直しが迫られて-->いる。

[[儒学]]思想を中心に、[[国学]]・[[史学]]・[[神道]]を折衷した思想に特徴がある。


== 概要 ==
== 概要 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-07}}
一般的に日本古来の[[伝統]]を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の[[徳川光圀]]が始めた歴史書『[[大日本史]]』の編纂を中心としていた'''前期水戸学'''(ぜんきみとがく)と、第9代水戸藩主の[[徳川斉昭]]が設置した[[藩校]]・[[弘道館]]を舞台とした'''後期水戸学'''(こうきみとがく)とに分かれるとされるが、前期と後期に分けることの可否も含め、多くの考え方がある。


=== 前期水戸学 ===
=== 前期水戸学 ===
前期水戸学は、[[徳川光圀]]の修史事業に始まる。光圀は、水戸藩継ぎ時代明暦3年(1657年)に江戸駒込別邸内に史局を開設した。紀伝体の日本通史(のちの[[大日本史]])の編纂が目的であった。当初の史局員は[[林羅山]]学派出身の来仕者が多かった。藩主就任後の[[寛文]]3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、[[彰考館]]とする。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣[[朱舜水]]を招聘する。舜水は、[[陽明学]]を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672)には24人、貞享元年(1684)37人、元禄9年(1696)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の[[彰考館]]の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に[[近畿地方]]出身が多かった。学派やもとの身分様々であり、編集員同士の議論を推奨し、第一の目的である[[大日本史]]の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。また、[[大日本史]]の三大特筆の中でも、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える([[南北朝正閏論]])。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、[[佐々宗淳]]、丸山可澄(活堂)、[[安積澹泊]]、[[栗山潜鋒]]、打越直正(撲斎)、[[森尚謙]]らがいる。
明暦3年([[1657年]]、水戸藩世徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し紀伝体の日本通史(のちの[[大日本史]])の編纂事業を開始し<ref name=":0" />。藩主就任後の[[寛文]]3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、[[彰考館]]とした。
当初の史局員は[[林羅山]]学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣[[朱舜水]]を招聘する。舜水は、[[陽明学]]を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672には24人、貞享元年(1684)37人、元禄9年(1696)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の[[彰考館]]の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に[[近畿地方]]出身が多かった。
編纂過程においては、第一の目的である[[大日本史]]の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。この頃の代表的な学者に、中村顧言篁溪、[[佐々宗淳]]、丸山可澄活堂、[[安積澹泊]]、[[栗山潜鋒]]、打越直正撲斎、[[森尚謙]]、[[三宅観瀾]]らがいる<ref name=":0" />

元文2年(1737年)、[[安積澹泊]]の死後、修史事業は停滞した。
「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える([[南北朝正閏論]])。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを[[大義名分|名分論]]のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。

光圀死後も編纂事業は継続されたが、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。


=== 後期水戸学 ===
=== 後期水戸学 ===
「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主[[徳川治保]]の治世、彰考館総裁[[立原翠軒]]を中心として再開される<ref name=":0" />。
後期水戸学は、第6代藩主[[徳川治保]]の治世、彰考館総裁[[立原翠軒]]を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸が深刻な財政難に陥っていたこと蝦夷地ロシア船出没したことなどがって、修史事業に携わばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見出すようになった。の弟子の幽谷は、[[寛政]]3年([[1791年]])に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、[[享和]]3年([[1803年]])、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]、[[豊田天功]]らが、その後の水戸学派の中心となる。


この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感強まっていた一方水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まことなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革目指した。翠軒の弟子には[[小宮山楓軒]]、[[青山延于]]らがいる。翠軒弟子の[[藤田幽谷]]は、[[寛政]]3年([[1791年]])に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷対立を深める<ref name=":0" />。翠軒は幽谷を破門にするが、[[享和]]3年([[1803年]])、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])総裁に就任した。幽谷の門下、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]、[[豊田天功]]らが、その後の水戸学派の中心となる<ref name=":0" />
[[文政]]7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、[[会沢正志斎]]が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。


[[文政]]7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる([[大津浜事件]])。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、[[会沢正志斎]]が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。
[[天保]]8年([[1837年]])、第9代藩主の[[徳川斉昭]]は、[[藩校]]としての[[弘道館]]を設立。総裁の[[会沢正志斎]]を教授頭取とした。また、[[藤田東湖]]も、[[古事記]]・[[日本書紀]]などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが弘道館記で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で[[尊皇思想]]を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「[[尊皇攘夷]]」の語がはじめて用いられた


[[天保]]8年([[1837年]])、第9代藩主の[[徳川斉昭]]は、[[藩校]]としての[[弘道館]]を設立。総裁の[[会沢正志斎]]を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが弘道館記あり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・[[藤田東湖]]であり、そこには「[[尊皇攘夷]]」の語がはじめて用いられた
徳川斉昭の改革は、[[弘化]]元年([[1844年]])、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は[[文天祥]]の正気歌に寄せた詩文である。ともに逆境の中で自己の体験や覚悟を語ったものだけに全編悲壮感が漂い、幕末の志士たちを感動させるものであり、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。[[嘉永]]2年([[1849年]])、斉昭の藩政関与が許可される。


徳川斉昭の改革は、[[弘化]]元年([[1844年]])、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。
水戸藩はその後、[[安政]]5年([[1858年]])の[[戊午の密勅]]返納問題、[[安政]]6年([[1859年]])の斉昭永蟄居を含む[[安政の大獄]]、[[元治]]元年([[1864年]])の[[天狗党]]挙兵、これに対する[[諸生党]]の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。


この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが『弘道館記』の解説書である『[[弘道館記述義]]』である。{{要出典範囲|この中で、東湖は[[本居宣長]]の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想|date=2022年3月}}は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。
なお、弘道館は江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜が新政府軍との全面戦争を避け、[[江戸開城]]したのは、幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想がその根底にあったためとされる。

嘉永6年([[1853年]])の[[黒船来航|ペリー来航]]は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、[[安政の大地震]]で東湖は死亡し、[[安政の大獄]]で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。

水戸藩はその後、[[安政]]5年([[1858年]])の[[戊午の密勅]]返納問題、[[安政]]6年([[1859年]])の斉昭永蟄居を含む[[安政の大獄]]、[[元治]]元年[[1864年]]の[[天狗党]]挙兵、これに対する[[諸生党]]の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。


=== 明治維新以後 ===
=== 明治維新以後 ===
明治維新後から[[第二次世界大戦]]の終結までにかけて、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに盛んに称揚された。特に、明治23年([[1890年]])、明治天皇の水戸行幸の直後に発せられた'''[[教育勅語]]'''は、「国体」や「斯道」など水戸学における中心的な用語が使用され、内容も水戸学の影響が顕著である。
幕末水戸藩は、天狗党の筑波山挙兵([[天狗党の乱]])をはじめとして、他藩と比肩出来ないほどの多くの犠牲者を出した。[[徳川御三家]]であるにもかかわらず、尊皇の旗を掲げそのさきがけを担ったことは、藩の分裂ともなり、水戸藩の悲劇でもあった。しかし、水戸の犠牲の上に明治維新が成り、また徳川慶喜の水戸学に基づく恭順により幕府対薩長という西洋列強の傀儡戦争をも避けたことは、日本の歴史上特筆されることである。後に[[乃木希典]]陸軍大将は、[[明治天皇]]崩御後、当時の皇太子[[昭和天皇|裕仁親王]]に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。


明治維新後、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに、多くの人々に讃えられたが、最も心を尽くしたのは明治天皇である。天皇は、光圀・斉昭に[[正一位]]の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して[[常磐神社]]の社号とそれぞれに[[神号]]を下賜し、[[別格官幣社]]に列した。また、[[明治]]39年([[1906年]])に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた[[史書]]保存のための費用を下賜し、それによって[[彰考館文庫]]が建造された。さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。
明治天皇は、光圀・斉昭に[[正一位]]の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して[[常磐神社]]の社号とそれぞれに[[神号]]を下賜し、[[別格官幣社]]に列した。また、[[明治]]39年([[1906年]])に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた[[史書]]保存のための費用を下賜し、それによって[[彰考館文庫]]が建造された。さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。なお、[[乃木希典]]陸軍大将は、[[明治天皇]]崩御後、当時の皇太子[[昭和天皇|裕仁親王]]に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している


第二次世界大戦後、水戸学は[[天皇制]]、日本[[軍国主義]]を支えた思想として否定的に捉えられるようになり、戦前までのように称揚されることはなくなった。現在、水戸学は、茨城県[[水戸市]]にある[[水戸史学会]]によって研究されている。観光活用への取り組みとして、[[水戸市]]は2018年1月、[[水戸城]]跡や弘道館などがある約2.8キロメートルの通りを「水戸学の道」と定めた<ref>尊王攘夷思想、倒幕の原動力/維新150年 水戸学知って/市、周遊コースや城跡整備『[[日本経済新聞]]』夕刊2018年3月24日(社会面)</ref>。
現在、水戸学は、茨城県[[水戸市]]にある[[水戸史学会]]によって研究されている。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2022-07}}
* 『水戸市史』中巻
* 『水戸市史』中巻
*立林宮太郎『水戸学研究』(国史研究会 1917年)
* 瀬谷義彦・今井三郎・[[尾藤正英]]『[[日本思想大系]]53・水戸学』([[岩波書店]] 1973.4)
* [[名越時正]]『水戸学の達成と展開』(水戸学会 1992.7)
*雨谷毅『水戸学の新研究』(水戸学研究会 1928年3月)
* [[瀬谷義彦]][[今井三郎]]・[[尾藤正英]]『[[日本思想大系]]53・水戸学』([[岩波書店]] 1973年4月)
* [[名越時正]]『水戸学の達成と展開』(水戸史学会 1992年7月)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{columns-list|2|
* [[水戸藩]]
* [[水戸藩]]
* [[徳川光圀]]
* [[徳川光圀]]
43行目: 64行目:
* [[南北朝正閏論]]
* [[南北朝正閏論]]
* [[水戸の三ぽい]]
* [[水戸の三ぽい]]
* [[中国学]]
* [[学校法人梅村学園]] - 水戸学の「文武不岐」の精神継承を謳っている愛知県の学校法人。
* [[学校法人安達学園]] - 同じく「文武不岐」の精神継承を謳っている岐阜県の学校法人。
}}


{{DEFAULTSORT:みとかく}}


{{Normdaten}}
[[Category:江戸時代の文化]]
{{Japanese-history-stub}}

{{DEFAULTSORT:みとかく}}
[[Category:水戸学|*]]
[[Category:水戸学|*]]
[[Category:江戸時代の思想]]
[[Category:日本の思想史]]
[[Category:日本の思想史]]
[[Category:茨城県の歴史]]
[[Category:水戸藩]]
[[Category:江戸時代の史学]]
[[Category:江戸時代の史学]]
[[Category:日本の儒学]]
[[Category:日本の儒学]]
[[Category:江戸時代の神道]]

[[Category:徳川光圀]]
{{Japanese-history-stub}}
[[Category:徳川斉昭]]

2023年7月19日 (水) 13:08時点における最新版

水戸学(みとがく)は、江戸時代日本常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは天保期であり[1]、「天保学」とも呼ばれる[1]

儒学思想を中心に、国学史学神道を折衷した思想に特徴がある。

概要

[編集]

前期水戸学

[編集]

明暦3年(1657年)、水戸藩世子の徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業を開始した[1]。藩主就任後の寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とした。

当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。

編纂過程においては、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙三宅観瀾らがいる[1]

「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを名分論のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。

光圀死後も編纂事業は継続されたが、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。

後期水戸学

[編集]

「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される[1]

この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には小宮山楓軒青山延于らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷は対立を深める[1]。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。幽谷の門下、会沢正志斎藤田東湖豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる[1]

文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる(大津浜事件)。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。

徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。

この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが『弘道館記』の解説書である『弘道館記述義』である。この中で、東湖は本居宣長の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想[要出典]は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。

嘉永6年(1853年)のペリー来航は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、安政の大地震で東湖は死亡し、安政の大獄で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。

水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

明治維新以後

[編集]

明治維新後から第二次世界大戦の終結までにかけて、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに盛んに称揚された。特に、明治23年(1890年)、明治天皇の水戸行幸の直後に発せられた教育勅語は、「国体」や「斯道」など水戸学における中心的な用語が使用され、内容も水戸学の影響が顕著である。

明治天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。また、明治39年(1906年)に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された。さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。なお、乃木希典陸軍大将は、明治天皇崩御後、当時の皇太子裕仁親王に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。

第二次世界大戦後、水戸学は天皇制、日本軍国主義を支えた思想として否定的に捉えられるようになり、戦前までのように称揚されることはなくなった。現在、水戸学は、茨城県水戸市にある水戸史学会によって研究されている。観光活用への取り組みとして、水戸市は2018年1月、水戸城跡や弘道館などがある約2.8キロメートルの通りを「水戸学の道」と定めた[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年10月、607頁。 
  2. ^ 尊王攘夷思想、倒幕の原動力/維新150年 水戸学知って/市、周遊コースや城跡整備『日本経済新聞』夕刊2018年3月24日(社会面)

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]