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{{Infobox baseball player
{{Infobox baseball player
|選手名 = 木元 邦之
| 選手名 = 木元 邦之
| 画像 = OB-Kuniyuki-Kimoto.jpg
|英語表記 =
| 画像説明 = オリックス・バファローズ時代<br />(2009年8月4日、阪神鳴尾浜球場にて)
|所属球団 =
| 画像サイズ = 240
|背番号 =
| 国籍 = {{JPN}}
|選手写真ファイル名 = OB-Kuniyuki-Kimoto.jpg
| 出身地 = [[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]
|写真のコメント = オリックス・バファローズ時代<br />2009年8月4日、阪神鳴尾浜球場
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1978|10|7}}
|国籍 = {{JPN}}
| 没年月日 =
|出身地 = [[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]
| 身長 = 183
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1978|10|7}}
| 体重 = 85
|没年月日 =
| 利き腕 = 右
|身長 = 183
| 打席 = 左
|体重 = 85
| 守備位置 = [[二塁手]]、[[一塁手]]、[[三塁手]]
|利き腕 = 右
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2000}}
|打席 = 左
| ドラフト順位 = ドラフト2位(逆指名)
|守備位置 = [[二塁手]]、[[一塁手]]、[[三塁手]]
| 初出場 = 2002年3月30日
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2000}}
| 最終出場 = 2008年4月26日
|ドラフト順位 = ドラフト2位
| 経歴 =
|初出場 = 2002年3月30日
* [[京都外大西高等学校]]
|最終出場 = 2008年4月26日
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[京都外大西高等学校|京都西高等学校]]
* [[龍谷大学硬式野球部|龍谷大学]]
* [[龍谷大学硬式野球部|龍谷大学]]
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ<br />北海道日本ハムファイターズ]] (2001 - 2007)
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ<br />北海道日本ハムファイターズ]] (2001 - 2007)
* [[オリックス・バファローズ]] (2007 - 2009)
* [[オリックス・バファローズ]] (2007 - 2009)
}}
}}
'''木元 邦之'''(きもと くにゆき、[[1978年]][[10月7日]] - )は、[[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])。
'''木元 邦之'''(きもと くにゆき、[[1978年]][[10月7日]] - )は、[[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])。右投左打。教員

== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
小学2年から野球を始め、中学3年の時には全日本メンバーに選ばれ中国遠征にも参加した<ref name="人名事典">プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、192ページ</ref>。

[[龍谷大学]]では関西六大学リーグで通算82試合出場、304打数102安打、打率.336、9本塁打、64打点。[[2000年]]秋季のリーグ戦では打率.474、2本塁打、15打点を記録し、史上5人目、6度目の三冠王になる。1年生秋から7季連続ベストナイン受賞(二塁5、4年遊撃2)もリーグ記録である{{R|人名事典}}。3年時には関西でTV中継されていた試合を観た当時阪神の[[野村克也]]監督がその打撃に注目し、新聞各紙に記事が掲載された<ref>週刊ベースボール増刊 大学野球99秋季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社</ref>。{{by|2000年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]2位([[希望入団枠制度|逆指名]])で[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に入団{{R|人名事典}}。


== 来歴・人物 ==
=== 日本ハム時代 ===
=== 日本ハム時代 ===
{{by|2001年}}(1年目)は右肩を手術した影響で一軍出場は無かった。
[[龍谷大学]]では関西六大学リーグで通算82試合出場、304打数102安打、打率.336、9本塁打、64打点。[[2000年]]秋季のリーグ戦では史上5人目、6度目の三冠王になる。1年生秋から7季連続ベストナイン受賞もリーグ記録である。{{by|2000年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]2位で[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に入団。


2年目の{{by|2002年}}[[大島康徳]]監督(当時)に打撃を買われ、開幕戦で[[金子誠]]を押しのけ[[二塁手]]で先発出場し、一軍に定着。[[奈良原浩]]や金子と併用されて87試合に出場し、7[[本塁打]]を打った。
{{by|2002年}}[[大島康徳]]監督(当時)に打撃を買われ、開幕戦で[[金子誠]]を押しのけ[[二塁手]]で先発出場し、一軍に定着{{R|人名事典}}。[[奈良原浩]]や金子と併用されて87試合に出場し、7[[本塁打]]を打った。


{{by|2003年}}は春先に故障で出遅れ[[規定打席]]には届かなかったが、主に[[一塁手]]・[[三塁手]]として自身初の[[打率]]3割、14本塁打、8[[盗塁]]を記録。シーズン終盤には4番も任された。
{{by|2003年}}は春先に故障で出遅れ[[規定打席]]には届かなかったが、主に[[一塁手]]・[[三塁手]]として自身初の[[打率]]3割、14本塁打、8[[盗塁]]を記録。シーズン終盤には4番も任された。


{{by|2004年}}は、4月は5番、5・6月は6番、7・8月は8番、9月は[[坪井智哉]]や[[新庄剛志]]に代わって2番と打順が一定しない中で、前半戦は不振も後半戦持ち直して打率.285、9本塁打を打ち、初めて規定打席に到達した。[[2004年のパシフィック・リーグプレーオフ|パ・リーグ・プレーオフ]]第1ステージ([[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦)・第3戦(10月3日)で西武の先発投手が左腕の[[帆足和幸]]だったため[[スターティングメンバー]]から外され、そのに納得が行かずロッカーで暴れていた木元を[[新庄剛志]]が「良い場面で絶対にお前に回してやる。だから準備はしてろよ」と励ました。その試合に木元は途中出場し、9回表に[[リリーフ#抑え|クローザー]]の[[豊田清]]から同点2ラン本塁打を放った。「あの時に励まされたから打てた。つーさん(新庄)には感謝の気持ちで一杯です」と語っている。この年[[俳優|女優]]の[[前原絵理]](現在は前原エリに改名)と[[結婚]]。その後一部の新聞紙上で前原とは別居状態と報道され、[[離婚]]至ったのかは発表されていないが、{{by|2007年}}のプロ野球選手名鑑では[[独身]]と記載され
{{by|2004年}}は、4月は5番、5・6月は6番、7・8月は8番、9月は[[坪井智哉]]や[[新庄剛志]]に代わって2番と打順が一定しない中で、前半戦は不振も後半戦持ち直して打率.285、9本塁打を打ち、初めて規定打席に到達した。[[2004年のパシフィック・リーグプレーオフ|パ・リーグ・プレーオフ]]第1ステージ([[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦)・第3戦(10月3日)で西武の先発投手が左腕の[[帆足和幸]]だったため[[スターティングメンバー]]から外され、そのことに納得が行かずロッカーで暴れていた木元を[[新庄剛志]]が「良い場面で絶対にお前に回してやる。だから準備はしてろよ」と励ました。その試合に木元は途中出場し、9回表に[[リリーフ#抑え|クローザー]]の[[豊田清]]から同点2本塁打を放った。「あの時に励まされたから打てた。つーさん(新庄)には感謝の気持ちで一杯です」と語っている。オフに[[俳優|女優]]の前原絵理(現在は[[前原エリ]]に改名)と結婚。その後一部メディアにて別居状態と報道された。離婚に関する詳細は発表されていないが、{{by|2007年}}のプロ野球選手名鑑では[[独身]]と記載されている


{{by|2005年}}は主に二塁手として出場し、前半戦は[[小笠原道大]]らが不振にあえぐ中、5番または2番を打って打線を引っ張り、打率3割を越える活躍でオールスターにも選出された。後半戦は失速したものの、本塁打は前年の9本から18本に倍増し、自己最高の打撃成績を残した。肩の故障歴からスローイングに難があるものの、二塁守備ではわずか4[[失策]]と向上が見られた。一方で[[三振]]は108から138(同僚の[[フェルナンド・セギノール]]に次ぐリーグ2位)に増加。チーム全体でも1151三振を喫し、チーム三振数のプロ野球記録を作る一因となった。オフに地元商工会での激励会に出席した際、「何故ファイターズを逆指名したか」とのインタビューに対し「すぐレギュラーが取れそうな球団だったので」と返答している。なお後のトレードの際も、逆指名で入ったのにトレードされてショックかと質問されて、「地元に帰れるし、請われて行くのですからむしろ嬉しい」と答えている。
{{by|2005年}}は主に二塁手として出場し、前半戦は[[小笠原道大]]らが不振にあえぐ中、5番または2番を打って打線を引っ張り、打率3割を越える活躍でオールスターにも選出された。後半戦は失速した、本塁打は前年の9本から18本塁打に倍増し、自己最高の打撃成績を残した。肩の故障歴からスローイングに難があるものの、二塁守備ではわずか4[[失策]]と向上た。一方で[[三振]]は108から138(同僚の[[フェルナンド・セギノール]]に次ぐリーグ2位)に増加。チーム全体でも1151三振を喫し、チーム三振数のプロ野球記録を作る一因となった。オフに地元商工会での激励会に出席した際、「何故ファイターズを逆指名したか」とのインタビューに対し「すぐレギュラーが取れそうな球団だったので」と返答している。なお後のトレードの際も、逆指名で入ったのにトレードされてショックかと質問されて、「地元に帰れるし、請われて行くのですからむしろ嬉しい」と答えている。


{{by|2006年}}は二塁手に新外国人[[ホセ・マシーアス]]が加入、小笠原が三塁から一塁に再[[コンバート (野球)|コンバート]]され、木元は三塁手として出場するも腰痛の影響もあって極度の打撃不振に陥り、守備でも精彩を欠いた。7月末の[[函館市|函館]]遠征の頃に二軍降格、そのまま日本シリーズ終了まで再昇格できずに終わった。[[2006年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]では三塁、一塁として全4試合に出場した。同僚のセギノールは自身の[[パスポート]]の有効期限切れにより、[[日本国|日本]]に入国できず出場できなかったため自宅のテレビで観戦していたが、その際木元を見て「新しい三塁手を取ったのか?」と発言している(この年、木元は中盤以降二軍だったものの、セギノールと木元は入団以来3年間チームメイトであり、冗談だったのか本気だったのかは不明)。
{{by|2006年}}は二塁手に新外国人[[ホセ・マシーアス]]が加入、小笠原が三塁から一塁に再[[コンバート (野球)|コンバート]]され、木元は三塁手として出場するも腰痛の影響もあって極度の打撃不振に陥り、守備でも精彩を欠いた。7月末の[[函館市|函館]]遠征の頃に二軍落ち、そのまま日本シリーズ終了まで再昇格できずに終わった。[[2006年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]では三塁、一塁として全4試合に出場した。同僚のセギノールは自身の[[パスポート]]の有効期限切れにより、[[日本国|日本]]に入国できず出場できなかったため自宅のテレビで観戦していたが、その際木元を見て「新しい三塁手を取ったのか?」と発言している(この年、木元は中盤以降二軍だったものの、セギノールと木元は入団以来3年間チームメイトであり、冗談だったのか本気だったのかは不明)。


{{by|2007年}}[[読売ジャイアンツ|巨人]]移籍した小笠原の穴を埋める選手として期待され、開幕カードでも5番一塁手で出場したが、前年以上の打撃不振に苦しみ4月14日の二軍降格まで開幕戦での1[[安打]]しか打てなかった。5月26日に一軍に再び昇格しスタメン起用され、その試合の最初の打席で開幕戦以来のヒットを打ったものの、以後は[[代打]]、[[代走]]としてしか起用されなかった。6月28日に[[歌藤達夫]]、[[萩原淳 (野球)|萩原淳]]との交換[[トレード#プロ野球|トレード]]で[[清水章夫]]とともにオリックスへ移籍
{{by|2007年}}シーズンには[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で[[読売ジャイアンツ|巨人]]移籍した小笠原の穴を埋める選手として期待され、開幕カードでも5番一塁手で出場したが、前年以上の打撃不振に苦しみ4月14日の二軍降格まで開幕戦での1[[安打]]しか打てなかった。5月26日に一軍に再び昇格しスタメン起用され、その試合の最初の打席で開幕戦以来のヒットを打ったものの、以後は[[代打]]、[[代走]]としてしか起用されなかった。


=== オリックス時代 ===
=== オリックス時代 ===
オリックスの一員としての初出場は、移籍した翌日の2007年6月29日古巣・日本ハム戦だった。8回裏1死、0-1と1点ビハインドの場面で代打として登場し、元同僚・[[ダルビッシュ有]]から安打を放った。これを口火にチームはダルビッシュから4点を奪い逆転勝利。木元はこの試合のヒーローに選ばれた。[[9月17日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|千葉ロッテ]]戦では、同点で迎えた12回裏2死満塁の場面で[[小林雅英]]からセンターサヨナラ安打を放った(ちなみにサヨナラのホームを踏んだのは、投手の[[山本省吾]]である)。
2007年6月28日に[[歌藤達夫]]、[[萩原淳 (野球)|萩原淳]]との[[トレード#プロ野球|トレード]]で[[清水章夫]]と共にオリックスへ移籍。オリックスの一員としての初出場は、移籍した翌日の6月29日古巣・日本ハム戦だった。8回裏死、0-1と1点ビハインドの場面で代打として登場し、元同僚・[[ダルビッシュ有]]から安打を放った。これを口火にチームはダルビッシュから4点を奪い逆転勝利。木元はこの試合のヒーローに選ばれた。9月17日の[[千葉ロッテマリーンズ]]戦では、同点で迎えた12回裏死満塁の場面で[[小林雅英]]からセンターサヨナラ安打を放った(ちなみにサヨナラのホームを踏んだのは、投手の[[山本省吾]]である)。


[[2008年]]は開幕1軍入りを果たしたものの、15試合に出場し僅か3安打、打率.090と極度の打撃不振に陥った。4月中に2に降格すると、以後は1軍から声がかからなかった。
{{by|2008年}}は開幕軍入りを果たしたものの、15試合に出場し僅か3安打、打率.090と極度の打撃不振に陥った。4月中にへ落ちると、以後は軍から声がかからなかった。


[[2009年]]1軍出場がく、[[10月3日]]に[[戦力外通告]]を受ける。シーズン終了後、[[12球団合同トライアウト]]に参加するが獲得する球団はなく現役引退。現役引退後京都市の教員採用試験を受験し合格する<ref name="sankei">{{Cite web|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120921/waf12092107320003-n1.htm|title=元日ハムの木元さんが来春、中学の体育教師に 京都市の採用試験に合格 |publisher=産経新聞 |accessdate=2012-9-21}}</ref>。2013年4月より教員に着任<ref name="sankei"></ref>
{{by|2009年}}軍出場がく、10月3日に[[戦力外通告]]を受ける。シーズン終了後、[[12球団合同トライアウト]]に参加するが獲得する球団はなく現役引退。
=== 現役引退後 ===
[[京都市]]の教員採用試験を受験し合格する<ref name="sankei20120921">{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20120921133035/http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120921/waf12092107320003-n1.htm |title=元日ハムの木元さんが来春、中学の体育教師に 京都市の採用試験に合格 |publisher=産経新聞 |date=2012-09-21 |accessdate=2012-09-21}}</ref>。これにより京都市の職員として、公立中学校の[[保健体育科]]教員となり、2013年4月より着任してい{{R|sankei20120921}}

== 選手としての特徴 ==

=== 打撃 ===
左の強打者で<ref>{{Cite web ja |title=「強打」の上を行く「恐怖」の2番打者が日本球界でも流行りに? |url=https://pacificleague.com/news/479 |website=パ・リーグ.com |date=2017-04-12 |access-date=2024-02-14}}</ref>、積極的な打撃と“天才的”と称される内角打ちが特徴<ref name="wbo20050926">[[週刊ベースボール]] 2005年9月26日号 p26 「あのプレーオフの緊張感をもう一度味わいたい」 ベースボールマガジン社</ref>。 また、ここ一番での勝負強さにも定評があった{{R|wbo20050926}}。一方で、選球眼に課題を持ち、加えて強振傾向から三振の多い打者であった{{R|wbo20050926}}。

=== 守備・走塁 ===
本職は二塁手{{R|wbo20050926}}。加えて、内野の複数ポジション(一塁・三塁)をこなせる[[ユーティリティープレイヤー]]<ref>{{Cite web ja |title=チームの危機をチャンスに変える男、今浪隆博。~田中賢介に代わる選手になるか?~(永谷脩) |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/142114 |website=Number Web |date=2011-07-14 |access-date=2024-02-14}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=日本ハムとオリックスのトレード史 糸井だけじゃなかった大型トレード |url=https://spaia.jp/column/baseball/npb/14689 |website=SPAIA |date=2021-09-19 |access-date=2024-02-14}}</ref>。2004年頃までは右肩の故障歴から送球難に苦しみ、失策数も多かったが同年シーズンオフに励んだトレーニングで守備力が向上{{R|wbo20050926}}。堅実な守備で失策数も減少した{{R|wbo20050926}}。一方で、守備範囲に課題を持っていた{{R|wbo20050926}}。

走塁では俊足となり得る脚力を持っているが、盗塁は少ない傾向にあった{{R|wbo20050926}}。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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|-
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
||15||34||33||1||3||0||0||0||3||2||0||0||1||0||1||0||0||10||1||.091||.118||.091||.209
||15||34||33||1||3||0||0||0||3||2||0||0||1||0||0||0||0||10||1||.091||.091||.091||.182
|-
|-
!colspan="2"|通算:7年
!colspan="2"|通算:7年
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=== 年度別守備成績 ===
=== 年度別守備成績 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small; border-collapse:collapse; padding:1px;"
!rowspan="2"|年度!!colspan="6"|一塁!!colspan="6"|二塁!!colspan="6"|三塁
!rowspan="2"|年<br />!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="6"|[[一塁手|一塁]]!!colspan="6"|[[二塁手|二塁]]!!colspan="6"|[[三塁手|三塁]]
|-style="line-height:1.25em; text-align:center;"
!試<br /><br />合!![[刺殺|刺<br /><br />殺]]!![[補殺|補<br /><br />殺]]!![[失策|失<br /><br />策]]!![[併殺|併<br /><br />殺]]!![[守備率|守<br />備<br />率]]!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率
|-
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|style="text-align:center;"|2002
!試合!!刺殺!!補殺!!失策!!併殺!!守備率!!試合!!刺殺!!補殺!!失策!!併殺!!守備率!!試合!!刺殺!!補殺!!失策!!併殺!!守備率
|rowspan="6" style="text-align:center;"|日本ハム
|colspan="6" style="text-align:center;"|-||42||66||87||1||19||.994||31||24||39||3||5||.955
|-
|-
|style="text-align:center;"|2003
|2002||colspan="6"|-||42||66||87||1||19||.994||31||24||39||3||5||.955
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|-
|-
|style="text-align:center;"|2004
|2003||86||749||45||5||92||.994||1||1||1||1||0||.667||20||10||34||2||5||.957
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|-
|-
|style="text-align:center;"|2005
|2004||38||117||12||0||7||1.000||99||183||272||8||65||.983||38||26||54||4||5||.952
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|-
|style="text-align:center;"|2006
|2005||43||118||11||0||13||1.000||121||225||385||4||112||.993||6||1||2||0||0||1.000
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|-
|-
|style="text-align:center;"|2007
|2007||15||89||7||0||8||1.000||colspan="6"|-||1||1||1||0||0||1.000
|rowspan="2" style="text-align:center;"|オリックス
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|2007||1||7||0||0||1||1.000||7||12||15||0||3||1.000||18||7||19||1||2||.963
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|-
|-
!colspan="2"|通算
|2008||4||13||1||0||0||1.000||3||4||6||0||0||1.000||7||2||12||0||1||1.000
|179||1097||76||5||122||.996||290||518||818||15||207||.989||175||102||242||18||23||.950
|-
!通算||179||1097||76||5||122||.996||290||518||818||15||207||.989||175||102||242||18||23||.950
|}
|}


=== 記録 ===
=== 記録 ===
; 初記録
* 初出場・初先発出場:2002年3月30日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]1回戦([[福岡ドーム]])、8番・[[二塁手]]として先発出場
* 初出場・初先発出場:2002年3月30日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]1回戦([[福岡ドーム]])、8番・[[二塁手]]として先発出場
* 初打席:同上、3回表に[[田之上慶三郎]]の前に一ゴロ
* 初打席:同上、3回表に[[田之上慶三郎]]からゴロ
* 初安打・初打点:同上、5回表1死で田之上慶三郎から中越適時二塁打
* 初安打・初打点:同上、5回表田之上慶三郎から中越適時二塁打
* 初本塁打:2002年4月3日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]2回戦([[東京ドーム]])、2回裏1死で[[戸叶尚]]から右越2ラン
* 初本塁打:2002年4月3日、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]2回戦([[東京ドーム]])、2回裏[[戸叶尚]]から右越2ラン
* 初盗塁:2002年9月23日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]23回戦(東京ドーム)、5回裏2死に二盗(投手:[[川井貴志]]、捕手:[[清水将海]])
* 初盗塁:2002年9月23日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]23回戦(東京ドーム)、5回裏に二盗(投手:[[川井貴志]]、捕手:[[清水将海]])
; その他の記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (2005年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回(2005年)


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''10''' (2001年 - 2007年途中)
* '''10'''(2001年 - 2007年途中)
* '''12''' (2007年途中 - 同年終了)
* '''12'''(2007年途中 - 同年終了)
* '''2''' (2008年 - 2009年)
* '''2'''(2008年 - 2009年)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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2024年6月30日 (日) 02:04時点における最新版

木元 邦之
オリックス・バファローズ時代
(2009年8月4日、阪神鳴尾浜球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市南区
生年月日 (1978-10-07) 1978年10月7日(45歳)
身長
体重
183 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手一塁手三塁手
プロ入り 2000年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 2002年3月30日
最終出場 2008年4月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

木元 邦之(きもと くにゆき、1978年10月7日 - )は、京都府京都市南区出身の元プロ野球選手内野手)。右投左打。教員。

経歴

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プロ入り前

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小学2年から野球を始め、中学3年の時には全日本メンバーに選ばれ中国遠征にも参加した[1]

龍谷大学では関西六大学リーグで通算82試合出場、304打数102安打、打率.336、9本塁打、64打点。2000年秋季のリーグ戦では打率.474、2本塁打、15打点を記録し、史上5人目、6度目の三冠王になる。1年生秋から7季連続ベストナイン受賞(二塁5、4年遊撃2)もリーグ記録である[1]。3年時には関西でTV中継されていた試合を観た当時阪神の野村克也監督がその打撃に注目し、新聞各紙に記事が掲載された[2]2000年ドラフト2位(逆指名)で日本ハムファイターズに入団[1]

日本ハム時代

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2001年(1年目)は右肩を手術した影響で一軍出場は無かった。

2002年大島康徳監督(当時)に打撃を買われ、開幕戦で金子誠を押しのけ二塁手で先発出場し、一軍に定着[1]奈良原浩や金子と併用されて87試合に出場し、7本塁打を打った。

2003年は春先に故障で出遅れ規定打席には届かなかったが、主に一塁手三塁手として自身初の打率3割、14本塁打、8盗塁を記録。シーズン終盤には4番も任された。

2004年は、4月は5番、5・6月は6番、7・8月は8番、9月は坪井智哉新庄剛志に代わって2番と打順が一定しない中で、前半戦は不振も後半戦持ち直して打率.285、9本塁打を打ち、初めて規定打席に到達した。パ・リーグ・プレーオフ第1ステージ(西武ライオンズ戦)・第3戦(10月3日)で西武の先発投手が左腕の帆足和幸だったためスターティングメンバーから外され、そのことに納得が行かずロッカーで暴れていた木元を新庄剛志が「良い場面で絶対にお前に回してやる。だから準備はしてろよ」と励ました。その試合に木元は途中出場し、9回表にクローザー豊田清から同点2点本塁打を放った。「あの時に励まされたから打てた。つーさん(新庄)には感謝の気持ちで一杯です」と語っている。同年オフに女優の前原絵理(現在は前原エリに改名)と結婚。その後一部メディアにて別居状態と報道された。離婚に関する詳細は発表されていないが、2007年のプロ野球選手名鑑では独身と記載されている。

2005年は主に二塁手として出場し、前半戦は小笠原道大らが不振にあえぐ中、5番または2番を打って打線を引っ張り、打率3割を越える活躍でオールスターにも選出された。後半戦は失速したが、本塁打は前年の9本から18本塁打に倍増し、自己最高の打撃成績を残した。肩の故障歴からスローイングに難があるものの、二塁守備ではわずか4失策と向上した。一方で三振は108から138(同僚のフェルナンド・セギノールに次ぐリーグ2位)に増加。チーム全体でも1151三振を喫し、チーム三振数のプロ野球記録を作る一因となった。オフに地元商工会での激励会に出席した際、「何故ファイターズを逆指名したか」とのインタビューに対し「すぐレギュラーが取れそうな球団だったので」と返答している。なお後のトレードの際も、逆指名で入ったのにトレードされてショックかと質問されて、「地元に帰れるし、請われて行くのですからむしろ嬉しい」と答えている。

2006年は二塁手に新外国人ホセ・マシーアスが加入、小笠原が三塁から一塁に再コンバートされ、木元は三塁手として出場するも腰痛の影響もあって極度の打撃不振に陥り、守備でも精彩を欠いた。7月末の函館遠征の頃に二軍落ち、そのまま日本シリーズ終了まで再昇格できずに終わった。アジアシリーズでは三塁、一塁として全4試合に出場した。同僚のセギノールは自身のパスポートの有効期限切れにより、日本に入国できず出場できなかったため自宅のテレビで観戦していたが、その際木元を見て「新しい三塁手を取ったのか?」と発言している(この年、木元は中盤以降二軍だったものの、セギノールと木元は入団以来3年間チームメイトであり、冗談だったのか本気だったのかは不明)。

2007年シーズンにはFA巨人へ移籍した小笠原の穴を埋める選手として期待され、開幕カードでも5番一塁手で出場したが、前年以上の打撃不振に苦しみ4月14日の二軍降格まで開幕戦での1安打しか打てなかった。5月26日に一軍に再び昇格しスタメン起用され、その試合の最初の打席で開幕戦以来のヒットを打ったものの、以後は代打代走としてしか起用されなかった。

オリックス時代

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2007年6月28日に歌藤達夫萩原淳とのトレード清水章夫と共にオリックスへ移籍。オリックスの一員としての初出場は、移籍した翌日の6月29日の古巣・日本ハム戦だった。8回裏一死、0-1と1点ビハインドの場面で代打として登場し、元同僚・ダルビッシュ有から安打を放った。これを口火にチームはダルビッシュから4点を奪い逆転勝利。木元はこの試合のヒーローに選ばれた。9月17日の千葉ロッテマリーンズ戦では、同点で迎えた12回裏二死満塁の場面で小林雅英からセンターにサヨナラ安打を放った(ちなみにサヨナラのホームを踏んだのは、投手の山本省吾である)。

2008年は開幕一軍入りを果たしたものの、15試合に出場し僅か3安打、打率.090と極度の打撃不振に陥った。4月中に二軍へ落ちると、以後は一軍から声がかからなかった。

2009年は一軍出場がなく、10月3日に戦力外通告を受ける。シーズン終了後、12球団合同トライアウトに参加するが獲得する球団はなく現役引退。

現役引退後

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京都市の教員採用試験を受験し合格する[3]。これにより京都市の職員として、公立中学校の保健体育科教員となり、2013年4月より着任している[3]

選手としての特徴

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打撃

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左の強打者で[4]、積極的な打撃と“天才的”と称される内角打ちが特徴[5]。 また、ここ一番での勝負強さにも定評があった[5]。一方で、選球眼に課題を持ち、加えて強振傾向から三振の多い打者であった[5]

守備・走塁

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本職は二塁手[5]。加えて、内野の複数ポジション(一塁・三塁)をこなせるユーティリティープレイヤー[6][7]。2004年頃までは右肩の故障歴から送球難に苦しみ、失策数も多かったが同年シーズンオフに励んだトレーニングで守備力が向上[5]。堅実な守備で失策数も減少した[5]。一方で、守備範囲に課題を持っていた[5]

走塁では俊足となり得る脚力を持っているが、盗塁は少ない傾向にあった[5]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
2002 日本ハム 87 266 244 21 59 11 1 7 93 26 1 0 2 1 14 2 5 56 8 .242 .295 .381 .677
2003 102 404 373 61 112 16 0 14 170 59 8 3 0 0 29 2 2 93 9 .300 .354 .456 .810
2004 132 559 505 67 144 24 1 9 197 62 4 2 0 3 47 0 4 108 8 .285 .349 .390 .739
2005 132 565 513 74 144 16 4 18 222 73 4 4 4 0 45 1 3 138 5 .281 .342 .433 .775
2006 69 244 218 15 52 9 0 1 64 21 4 2 9 0 15 2 2 51 3 .239 .294 .294 .587
2007 18 37 35 2 3 0 0 0 3 1 0 0 1 0 1 0 0 10 0 .086 .111 .086 .197
オリックス 31 65 58 5 15 3 1 0 20 5 0 0 1 2 3 0 1 11 3 .259 .297 .345 .642
'07計 49 102 93 7 18 3 1 0 23 6 0 0 2 2 4 0 1 21 3 .194 .230 .247 .477
2008 15 34 33 1 3 0 0 0 3 2 0 0 1 0 0 0 0 10 1 .091 .091 .091 .182
通算:7年 586 2174 1979 246 532 79 7 49 772 249 21 11 18 6 154 7 17 477 37 .269 .326 .390 .716

年度別守備成績

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一塁 二塁 三塁




































2002 日本ハム - 42 66 87 1 19 .994 31 24 39 3 5 .955
2003 86 749 45 5 92 .994 1 1 1 1 0 .667 20 10 34 2 5 .957
2004 38 117 12 0 7 1.000 99 183 272 8 65 .983 38 26 54 4 5 .952
2005 43 118 11 0 13 1.000 121 225 385 4 112 .993 6 1 2 0 0 1.000
2006 2 4 0 0 1 1.000 17 27 52 1 8 .988 54 31 81 8 5 .933
2007 15 89 7 0 8 1.000 - 1 1 1 0 0 1.000
2007 オリックス 1 7 0 0 1 1.000 7 12 15 0 3 1.000 18 7 19 1 2 .963
2008 4 13 1 0 0 1.000 3 4 6 0 0 1.000 7 2 12 0 1 1.000
通算 179 1097 76 5 122 .996 290 518 818 15 207 .989 175 102 242 18 23 .950

記録

[編集]
初記録
その他の記録

背番号

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  • 10(2001年 - 2007年途中)
  • 12(2007年途中 - 同年終了)
  • 2(2008年 - 2009年)

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、192ページ
  2. ^ 週刊ベースボール増刊 大学野球99秋季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社
  3. ^ a b 元日ハムの木元さんが来春、中学の体育教師に 京都市の採用試験に合格」産経新聞、2012年9月21日。2012年9月21日閲覧
  4. ^ 「強打」の上を行く「恐怖」の2番打者が日本球界でも流行りに?」『パ・リーグ.com』2017年4月12日。2024年2月14日閲覧
  5. ^ a b c d e f g h 週刊ベースボール 2005年9月26日号 p26 「あのプレーオフの緊張感をもう一度味わいたい」 ベースボールマガジン社
  6. ^ チームの危機をチャンスに変える男、今浪隆博。~田中賢介に代わる選手になるか?~(永谷脩)」『Number Web』2011年7月14日。2024年2月14日閲覧
  7. ^ 日本ハムとオリックスのトレード史 糸井だけじゃなかった大型トレード」『SPAIA』2021年9月19日。2024年2月14日閲覧

関連項目

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外部リンク

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