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* イマキュラタ高等学校
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'''テリー・ブロス'''('''Terrence Paul "Terry" Bross'''[[1966年]][[3月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。
'''テリー・ブロス'''({{lang-en|'''Terry Bross'''}}, 本名:'''テレンス・ポール・ブロス'''('''Terrence Paul Bross'''[[1966年]][[3月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]][[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。


== ・人物 ==
== 歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[セント・ジョーンズ大学]]時代は野球とバスケットボールで活躍。
[[ニューヨーク]]の[[セント・ジョーンズ大学]]時代は野球とバスケットボールで活躍。


=== プロ入りとメッツ時代 ===
[[1987年]]の[[1987年のMLBドラフト|MLBドラフト]]13巡目で[[ニューヨーク・メッツ]]入団。[[1991年]]にメジャーデビューし、同年は8試合に登板
{{by|1987年}}の[[1987年のMLBドラフト|MLBドラフト]]13巡目で[[ニューヨーク・メッツ]]から指名され、入団。


{{by|1991年}}にメジャーデビューし、同年は8試合に登板。
その後、[[1993年]]に[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]で2試合登板。メジャー通算成績は10試合で計12イニングを投げ、0勝0敗0セーブ、防御率3.00。


=== ジャイアンツ時代 ===
[[1995年]]に来日して[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に入団。入団時に[[年俸]]4000万円と聞いて「そんなにもらえるのか」と驚いたというほど、当時にしては珍しいハングリー精神の持ち主であった。
{{by|1993年}}に[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]で2試合登板。メジャー通算成績は10試合で計12イニングを投げ、0勝0敗0セーブ、防御率3.00。


=== ヤクルト時代 ===
来日1年目は、長身から投げ下ろす[[速球]]と[[親指]]と[[人差し指]]ではさむ独特の[[フォークボール]]を武器に14勝を挙げ、4試合連続2ケタ奪三振も記録し、[[最優秀防御率]]のタイトルを獲得するなど、前評判の悪かったヤクルトを日本一に導く原動力となる。同年[[9月9日]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成し([[大森剛]]への[[死球]]で[[完全試合]]は逃した)、これによって巨人の自力優勝が消滅した。[[9月30日]]、本拠地・[[明治神宮野球場|神宮球場]]での巨人戦で完封勝利し胴上げ投手となった。このように、'''この年の巨人戦にはめっぽう強く、5勝0敗防御率0.23'''(39回1/3で失点は[[後藤孝志]]のプロ初本塁打(ソロ)のみ)とカモにした。
{{by|1995年}}に2月に[[アリゾナ州]][[ユマ (アリゾナ州)|ユマ]]で[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]が行った春季キャンプでの外国人選手の入団テストに参加して合格し入団<ref name="新潮">{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2022/01261700/?all=1|title=年俸80万円のテスト生から最多勝投手へ 思わぬ掘り出し物だった「助っ人列伝」|work=デイリー新潮|date=January 26, 2022|accessdate=January 26, 2022}}</ref>。入団時に[[年俸]]4000万円と聞いて「そんなにもらえるのか」と驚いたというほど<ref name="新潮" />、当時にしては珍しいハングリー精神の持ち主であった。同年9月9日の[[読売ジャイアンツ]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成し<ref name="新潮" />([[大森剛]]への[[死球]]で[[完全試合]]は逃した)、これによって巨人の自力優勝が消滅した。9月30日に本拠地である[[明治神宮野球場|神宮球場]]での巨人戦で完封勝利し胴上げ投手となった(最後の打者は[[松井秀喜]]でセンターフライ)。このように、この年の巨人戦にはめっぽう強く、'''5勝0敗防御率0.23'''で(39回1/3で失点はNPB初登板した4月9日の[[後藤孝志]]のプロ初本塁打(ソロ)のみ)カモにした(先発5試合、救援3試合。勝利は全て先発)。最終的にNPB1年目は、長身から投げ下ろす[[速球]]と[[親指]]と[[人差し指]]ではさむ独特の[[フォークボール]]を武器に14勝を挙げ、4試合連続2ケタ奪三振も記録し、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]のタイトルを獲得するなど、前評判の悪かったヤクルトを日本シリーズ優勝に導く原動力となる。


2以降は、上から投げ下ろす投球フォームゆえにモーションを盗まれることが多く、打球処理が苦手という弱点を突かれるようになり、故障の影響も響き成績は低迷した。ヤクルト時代、ベンチから[[故意四球|敬遠]]の指示を受けたが「(暴投などをせずに指示通り敬遠をする)自信がない」と敬遠を拒否したことがある。
{{by|1996}}以降は、上から投げ下ろす投球フォームゆえにモーションを盗まれることが多く、打球処理が苦手という弱点を突かれるようになり、更に足の故障の影響もあり成績は低迷した(しかし3年目は投手陣の調整が遅れた影響もあり開幕投手に指名された)。ヤクルト時代、ベンチから[[故意四球|敬遠]]の指示を受けたが「(暴投などをせずに指示通り敬遠をする)自信がない」と敬遠を拒否したことがある。バッテリーを組んでいた[[古田敦也]]は「体でっかいけど気は優しい」「5回ぐらい投げて勝ち投手の権利が発生するとどっか痛いと言い出す」と後年彼を評しており、現役時代に古田自身はブロスからマウンド上で優しく励ますことは止めて罵倒して奮い立たせるように頼まれ、これに応じたという<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=WFJ-2p8hQlY 古田敦也が暴言連発!? 投手のタイプ別操縦方法【キャッチャーズバイブル】] フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】2021/07/22 (2021年7月22日閲覧) </ref>


=== 西武時代 ===
[[1998年]]に[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に移籍するが活躍することは出来ず、翌[[1999年]]は一軍登板のないまま退団した。
{{by|1998年}}に[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に移籍するが、オープン戦から[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の当時の監督である[[仰木彬]]により、5連続セーフティバントを仕掛けられるなど、ヤクルト時代からの弱点を攻撃され<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190710-18 野村克也監督との出会いでジャパニーズ・ドリームを実現させたテリー・ブロス/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】]</ref>、期待された活躍をすることは出来なかった。


{{by|1999年}}は一軍登板のないまま退団した。
現在は、[[アリゾナ州]]にあるスポーツ・マネジメント会社 Gaylord Sports Management で[[代理人]]として活動している。主なクライアントは[[ブライアン・アンダーソン (外野手)|ブライアン・アンダーソン]]、[[ブロンソン・アローヨ]]、[[ビル・ホール]]、[[D.J.カラスコ]]、[[ダーネル・マクドナルド]]、[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]など。
巨人や[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に在籍していた晩年の[[落合博満]]との対戦では、初年度こそ抑えてたもの翌年以降は打ち込まれるケースが多く苦手としていた。1996年には500号本塁打、1998年には現役最終弾を被弾した。

=== 引退後 ===
引退後はアリゾナ州にあるスポーツ・マネジメント会社 Gaylord Sports Management で[[代理人]]として活動している。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
=== 年度別投手成績 ===
=== 年度別投手成績 ===
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=== タイトル ===
=== タイトル ===
; NPB
* [[最優秀防御率]]:1回 (1995年)
* [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:1回 (1995年)


=== 表彰 ===
=== 表彰 ===
; NPB
* 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1995年)
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:2回 (投手部門:1995年4月、1995年9月)
* [[最優秀バッテリー賞]]:1回 (1995年、捕手:[[古田敦也]])
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:2回 (1995年4月、1995年9月
* [[最優秀バッテリー賞]]:1回 (1995年 捕手:[[古田敦也]]
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優秀選手賞:1回 ([[1995年の日本シリーズ|1995年]])


=== 記録 ===
=== 記録 ===
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* 初完封:1995年8月19日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)
* 初完封:1995年8月19日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)
* [[ノーヒットノーラン]]:1回 (1995年9月9日、対読売ジャイアンツ22回戦、東京ドーム) ※史上62人目
* [[ノーヒットノーラン]]:1回 (1995年9月9日、対読売ジャイアンツ22回戦、東京ドーム) ※史上62人目
* 初本塁打:1996年4月29日、対[[広島東洋カープ]]4回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、[[近藤芳久]]からソロ


=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''46''' (1991年)
* '''46''' (1991年)
* '''37''' (1993年)
* '''37''' (1993年)
* '''24''' (1995年入団時。3月に[[吉井理人]]が入団して24を着けたため、29に変更)
* '''24''' (1995年入団時。3月に[[吉井理人]]が入団して24を着けたため、代わって[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に移籍した[[西村龍次]]が着用していた29に変更)
* '''29''' (1995年 - 1997年)
* '''29''' (1995年 - 1997年)
* '''33''' (1998年 - 1999年)
* '''33''' (1998年 - 1999年)

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 B]]
* [[北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国]]
* [[テキサス州出身人物の一覧]]
* [[テキサス州出身人物の一覧]]
* [[東京ヤクルトスワローズの選手一覧]]
* [[東京ヤクルトスワローズの選手一覧]]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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[[Category:1966年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:存命人物]]

2023年10月20日 (金) 01:49時点における最新版

テリー・ブロス
Terry Bross
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州エルパソ
生年月日 (1966-03-30) 1966年3月30日(58歳)
身長
体重
6' 9" =約205.7 cm
234 lb =約106.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 MLBドラフト13巡目
初出場 MLB / 1991年9月4日
NPB / 1995年4月9日
最終出場 MLB / 1993年9月14日
NPB / 1998年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

テリー・ブロス英語: Terry Bross, 本名:テレンス・ポール・ブロスTerrence Paul Bross1966年3月30日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

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プロ入り前

[編集]

ニューヨークセント・ジョーンズ大学時代は野球とバスケットボールで活躍。

プロ入りとメッツ時代

[編集]

1987年MLBドラフト13巡目でニューヨーク・メッツから指名され、入団。

1991年にメジャーデビューし、同年は8試合に登板。

ジャイアンツ時代

[編集]

1993年サンフランシスコ・ジャイアンツで2試合登板。メジャー通算成績は10試合で計12イニングを投げ、0勝0敗0セーブ、防御率3.00。

ヤクルト時代

[編集]

1995年に2月にアリゾナ州ユマヤクルトスワローズが行った春季キャンプでの外国人選手の入団テストに参加して合格し入団[1]。入団時に年俸4000万円と聞いて「そんなにもらえるのか」と驚いたというほど[1]、当時にしては珍しいハングリー精神の持ち主であった。同年9月9日の読売ジャイアンツ戦でノーヒットノーランを達成し[1]大森剛への死球完全試合は逃した)、これによって巨人の自力優勝が消滅した。9月30日に本拠地である神宮球場での巨人戦で完封勝利し胴上げ投手となった(最後の打者は松井秀喜でセンターフライ)。このように、この年の巨人戦にはめっぽう強く、5勝0敗防御率0.23で(39回1/3で失点はNPB初登板した4月9日の後藤孝志のプロ初本塁打(ソロ)のみ)カモにした(先発5試合、救援3試合。勝利は全て先発)。最終的にNPB1年目は、長身から投げ下ろす速球親指人差し指ではさむ独特のフォークボールを武器に14勝を挙げ、4試合連続2ケタ奪三振も記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、前評判の悪かったヤクルトを日本シリーズ優勝に導く原動力となる。

1996年以降は、上から投げ下ろす投球フォームゆえにモーションを盗まれることが多く、打球処理が苦手という弱点を突かれるようになり、更に足の故障の影響もあり成績は低迷した(しかし3年目は投手陣の調整が遅れた影響もあり開幕投手に指名された)。ヤクルト時代、ベンチから敬遠の指示を受けたが「(暴投などをせずに指示通り敬遠をする)自信がない」と敬遠を拒否したことがある。バッテリーを組んでいた古田敦也は「体でっかいけど気は優しい」「5回ぐらい投げて勝ち投手の権利が発生するとどっか痛いと言い出す」と後年彼を評しており、現役時代に古田自身はブロスからマウンド上で優しく励ますことは止めて罵倒して奮い立たせるように頼まれ、これに応じたという[2]

西武時代

[編集]

1998年西武ライオンズに移籍するが、オープン戦からオリックス・ブルーウェーブの当時の監督である仰木彬により、5連続セーフティバントを仕掛けられるなど、ヤクルト時代からの弱点を攻撃され[3]、期待された活躍をすることは出来なかった。

1999年は一軍登板のないまま退団した。 巨人や日本ハムファイターズに在籍していた晩年の落合博満との対戦では、初年度こそ抑えてたもの翌年以降は打ち込まれるケースが多く苦手としていた。1996年には500号本塁打、1998年には現役最終弾を被弾した。

引退後

[編集]

引退後はアリゾナ州にあるスポーツ・マネジメント会社 Gaylord Sports Management で代理人として活動している。

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1991 NYM 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 39 10.0 7 1 3 0 0 5 0 0 2 2 1.80 1.00
1993 SF 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 2.0 3 1 1 0 0 1 0 0 2 2 9.00 2.00
1995 ヤクルト 32 24 5 3 0 14 5 0 -- .737 646 162.1 114 6 57 0 3 139 9 1 43 42 2.33 1.05
1996 23 21 2 1 0 7 12 0 -- .368 571 137.0 115 16 43 1 3 97 5 0 61 55 3.61 1.15
1997 23 21 0 0 0 7 8 0 -- .467 524 115.1 129 16 56 0 0 89 5 1 73 64 4.99 1.60
1998 西武 11 7 0 0 0 2 3 0 -- .400 179 42.1 35 9 23 0 1 28 3 1 28 27 5.74 1.28
MLB:2年 10 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 49 12.0 10 2 4 0 0 6 0 0 4 4 3.00 1.17
NPB:4年 89 73 7 4 0 30 28 0 -- .517 1920 457.0 393 47 179 1 7 353 22 3 205 188 3.70 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

[編集]
NPB

表彰

[編集]
NPB

記録

[編集]
NPB

背番号

[編集]
  • 46 (1991年)
  • 37 (1993年)
  • 24 (1995年入団時。3月に吉井理人が入団して24を着けたため、代わって近鉄に移籍した西村龍次が着用していた29に変更)
  • 29 (1995年 - 1997年)
  • 33 (1998年 - 1999年)

脚注

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]