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{{出典の明記|date=2019年6月}}
{{出典の明記|date=2019年6月}}
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川宗春
| 氏名 = 徳川宗春
| 画像 = Tokugawa Muneharu.jpg
| 画像 = Tokugawa Muneharu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像サイズ = 176px
| 画像説明 = 徳川宗春を演じた役者を描いた『夢の跡』の一頁
| 画像説明 = 徳川宗春(中央)を描いたとされる絵
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[元禄]]9年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1696年]][[11月22日]])<ref name="gokeifu">『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収</ref>
| 生誕 = [[元禄]]9年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1696年]][[11月22日]])<ref name="gokeifu">『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収</ref>
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| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[主計寮|主計頭]]、[[従四位|従四位下]]、[[侍従]]<br />[[近衛府|左近衛権少将]]、[[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]<br />[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、贈[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[主計寮|主計頭]]、[[従四位|従四位下]]、[[侍従]]<br />[[近衛府|左近衛権少将]]、[[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]<br />[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、贈[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[中御門天皇]][[桜町天皇]][[徳川吉宗]]
| 主君 = [[中御門天皇]][[桜町天皇]][[徳川吉宗]]
| 藩 = [[陸奥国]][[梁川藩]]主→[[尾張国]][[尾張藩]]主
| 藩 = [[陸奥国]][[梁川藩]]主→[[尾張国]][[尾張藩|名古屋藩]]主
| 氏族 = [[尾張徳川家]]
| 氏族 = [[尾張徳川家]]→大窪松平家→尾張徳川家
| 父母 = 父:[[徳川綱誠]]、母:梅津([[宣揚院]])<br />養父:''[[徳川継友]]''
| 父母 = 父:[[徳川綱誠]]、母:梅津([[宣揚院]])<br />養父:[[徳川継友]]
| 兄弟 = [[徳川吉通|吉通]]、[[徳川継友|継友]]、[[松平義孝]]、[[松平通温]]、'''宗春'''、[[光現院|松姫]](磯姫:[[前田吉徳]](吉治)室・[[徳川綱吉]]養女)
| 兄弟 = [[徳川吉通|吉通]]、[[徳川継友|継友]]、[[松平義孝]]、[[松平通温]]、'''宗春'''、[[光現院|松姫]]([[前田吉徳]]室・[[徳川綱吉]]養女)
| 妻 = 正室:なし<br />側室:海津、民部、伊予、左近、おはる、[[阿薫]]
| 妻 = 正室:なし<br />側室:海津、民部、伊予、左近、おはる、[[阿薫]]
| 子 = 富・補誦・八千・頼姫(勝子・傅・須亭:[[近衛内前]]室)・[[徳川國丸|國丸]](萬五郎)・八百・以津・[[徳川龍千代|龍千代]]・近姫(養女:[[上杉宗房]]室:実父は梁川藩第2代[[松平義方]])
| 子 = 富・補誦・八千・頼姫(勝子・傅・須亭:[[近衛内前]]室)・[[徳川國丸|國丸]](萬五郎)・八百・以津・[[徳川龍千代|龍千代]]・近姫(養女:[[上杉宗房]]室:実父は梁川藩第2代[[松平義方]])
| 特記事項 =著述「[[温知政要]]」
| 特記事項 =著述「[[温知政要]]」次当主、[[徳川宗勝]]
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'''徳川 宗春'''(とくがわ むねはる)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[尾張徳]]第7代当主・第7代[[尾張藩]]主尾張藩主前は[[御連枝]]である大久保松平家当主[[陸奥国|陸奥]][[]]主)。
'''徳川 宗春'''(とくがわ むねはる)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[]]第4代当主(当時は通春。[[御連枝]]である大窪(大久保)<ref group="注釈">江戸藩邸が大久保にあった事による</ref>松平家当主)、のち[[尾張藩|名古屋藩]]第7代藩主([[尾張徳]]第7代当主)。


尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍[[徳川吉宗]]とよく対比される{{refnest|group="注釈"|実際に宗春が吉宗を直接批判したとする当時の一次資料は残っていない。[[江戸幕府]]の公式記録でには、むしろ吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録が散見される<ref name="jikki">『徳川実紀』</ref>。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、尾張藩江戸[[上屋敷]]市ヶ谷邸を江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。}}が、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。
名古屋藩主就任時に[[規制緩和]]政策をとった宗春は、質素倹約策の8代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]とよく対比される{{refnest|group="注釈"|実際に宗春が吉宗を直接批判したとする当時の一次資料は残っていない。[[江戸幕府]]の公式記録でには、むしろ吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録が散見される<ref name="jikki">『徳川実紀』</ref>。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、尾張藩江戸[[上屋敷]]市ヶ谷邸を江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。}}が、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、名古屋藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。


歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗から「宗」の[[偏諱]]を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の[[諱]]は兄[[徳川吉通]]の「通」の字を得て'''通春'''。
歴代藩主と同様、名古屋藩主就任後に吉宗から「宗」の[[偏諱]]を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の[[諱]]は兄[[徳川吉通]]の「通」の字を得て'''通春'''。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
出典:<ref>『[[徳川実紀]]』『[[尾藩世記]]』『[[金府紀較]]』『[[尾張藩御日記頭書]]』『尾張徳川家系譜』より</ref>
出典:<ref>『[[徳川実紀]]』『[[尾藩世記]]』『[[金府紀較]]』『[[尾張藩御日記頭書]]』『尾張徳川家系譜』より</ref>
=== 出生 ===
=== 出生 ===
[[元禄]]9年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1696年]][[11月22日]])、尾張藩第3代藩主[[徳川綱誠]]の二十男<ref group="注釈">一説では十九男。</ref>として名古屋で生まれ、'''萬五郎'''と名付けられる。母は側室の梅津([[宣揚院]]、[[遠江国|遠州]][[掛川市|掛川]]横須賀浪人[[三浦嘉重|三浦太次兵衛嘉重]]<ref group="注釈">後に[[犬山城]]主[[成瀬正親]]家臣、200石取。</ref>の長女)。元禄11年([[1698年]])に祖母の[[霊仙院|千代姫]]、翌元禄12年([[1699年]])に父の綱誠、元禄13年([[1700年]])に祖父の[[徳川光友]]が相次いで没した。
[[元禄]]9年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1696年]][[11月22日]])、名古屋藩第3代藩主[[徳川綱誠]]の二十男<ref group="注釈">一説では十九男。</ref>として名古屋で生まれ、'''萬五郎'''と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院、[[遠江国|遠州]][[掛川市|掛川]]横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重<ref group="注釈">後に[[犬山城]]主[[成瀬正親]]家臣、200石取。</ref>の長女)。元禄11年([[1698年]])に祖母の[[霊仙院|千代姫]]、翌元禄12年([[1699年]])に父の綱誠、元禄13年([[1700年]])に祖父の[[徳川光友]]が相次いで没した。


[[宝永]]5年([[1708年]])11月、兄で第4代藩主の[[徳川吉通|吉通]]より[[偏諱]]を受け、[[諱]]を'''通春'''とする。吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど、末弟の宗春を可愛がった<ref>近松茂矩著『昔咄』『圓覺院様御伝十五箇条』</ref>。[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])兄[[徳川継友|通顕(のちの徳川継友)]][[松平通温|通温]]は江戸に下向し従四位下に叙任され、譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。
[[宝永]]5年([[1708年]])[[11 (旧暦)|11月]]、兄で第4代藩主の[[徳川吉通|吉通]]より[[偏諱]]を受け、[[諱]]を'''通春'''とする。吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど、末弟の宗春を可愛がった<ref>近松茂矩著『昔咄』『圓覺院様御伝十五箇条』</ref>。[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])[[徳川継友|通顕(のちの徳川継友)]][[松平通温|通温]]は[[江戸]]に下向し[[従四位|従四位下]]に叙任され、譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。


宝永6年([[1709年]])3月、[[久留米藩]]主[[有馬則維]]から、尾張藩御連枝筆頭四谷[[松平義行]]宛に、万五郎を仮養子に迎え、そののち正式な養子にしたいという申し出があった。しかしこの話はたち消えている{{refnest|group="注釈"|[[徳川美術館]]に、有馬則維が要請した手紙が残されている。「通春主、有馬玄蕃頭養子となる」という一文もある<ref>『[[尾藩世記]]』 宝永6年4月15日の欄</ref>。}}。
宝永6年([[1709年]])[[3 (旧暦)|3月]]、[[久留米藩]]主[[有馬則維]]から、名古屋[[御連枝]]筆頭の[[高須藩]]主・[[松平義行]]宛に、万五郎を仮養子に迎え、そののち正式な養子にしたいという申し出があった。しかしこの話はたち消えている{{refnest|group="注釈"|[[徳川美術館]]に、有馬則維が要請した手紙が残されている。「通春主、有馬玄蕃頭養子となる」という一文もある<ref>『[[尾藩世記]]』 宝永6年4月15日の欄</ref>。}}。


正徳3年([[1713年]])4月に[[江戸]]へ移り、星野藤馬を小姓とする。閏5月、江戸に下向した際に同道した尾張藩士2人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。同月に尾張藩御連枝[[梁川藩]]主[[松平義昌]]が逝去し、7月には尾張藩4代藩主の兄・吉通が薨去する。さらに10月には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主[[徳川五郎太|五郎太]]が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。12月に[[元服]]し、'''求馬'''通春と名乗る(通称を「求馬」に改めた)<ref group="注釈">求馬の通称は、本来は[[御連枝]][[梁川藩]]大久保松平家の嫡子の通称。宗春が求馬を名のるのは[[松平義真]]誕生前であり、梁川藩3代藩主となる義真が生まれる前に従五位主計頭に叙任され、求馬の通称は使わなくなった。可能性として大久保松平家第二代当主[[松平義方]](義賢)に子が出来る前であったので、不測の事態に備えて仮養子・養子にしようとした可能性がある。</ref>。正徳6年([[1716年]])2月に7代将軍[[徳川家継]]に[[御目見]]し、3月に譜代衆となり'''松平'''求馬通春を名乗る。同年改元後、[[享保]]元年([[1716年]])7月に8代将軍[[徳川吉宗]]当時の幕府の奏請により従五位下主計頭に叙任される<!--- <ref group="注釈">尾張で主計頭といえば、尾張藩初代の[[御附家老]]である[[平岩親吉]]のことであり、[[尾張]]出身の[[加藤清正]]のことである。後に、吉宗から雁を送られた時に、平岩親吉の縁者であり親吉の幼名を名乗る平岩七之助が使者となって尾張藩邸に来ている。将軍吉宗は、宗春に平岩親吉を意識していた証拠といえる。</ref>--->。
正徳3年([[1713年]][[4月 (旧暦)|4月]]に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。閏5月、江戸に下向した際に同道した名古屋藩士2人が[[吐血]][[突然死|頓死]]・割腹自害する事件が起きる。同月に名古屋藩御連枝[[梁川藩]]主[[松平義昌]]が逝去し、7月には兄・吉通が薨去する。さらに[[10月 (旧暦)|10月]]には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主[[徳川五郎太|五郎太]]が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。[[12月 (旧暦)|12月]]に[[元服]]し、'''求馬'''通春と名乗る(通称を「求馬」に改めた)<ref group="注釈">求馬の通称は、本来は[[御連枝]][[梁川藩]]大松平家の嫡子の通称。宗春が求馬を名のるのは[[松平義真]]誕生前であり、梁川藩3代藩主となる義真が生まれる前に従五位主計頭に叙任され、求馬の通称は使わなくなった。可能性として大松平家第二代当主[[松平義方]](義賢)に子が出来る前であったので、不測の事態に備えて仮養子・養子にしようとした可能性がある。</ref>。正徳6年([[1716年]])[[2 (旧暦)|2月]]に7代将軍[[徳川家継]]に[[御目見]]し、3月に譜代衆となり'''松平'''求馬通春を名乗る。同年改元後、[[享保]]元年([[1716年]])7月に8代将軍徳川吉宗当時の[[江戸幕府|幕府]]の奏請により[[従五位|従五位下]][[主計寮|主計頭]]に叙任される<!--- <ref group="注釈">尾張で主計頭といえば、尾張藩初代の[[御附家老]]である[[平岩親吉]]のことであり、[[尾張]]出身の[[加藤清正]]のことである。後に、吉宗から雁を送られた時に、平岩親吉の縁者であり親吉の幼名を名乗る平岩七之助が使者となって尾張藩邸に来ている。将軍吉宗は、宗春に平岩親吉を意識していた証拠といえる。</ref>--->。


享保3年([[1718年]])4月、[[天然痘|疱瘡]]に罹るが、まもなく回復する。同月、兄・通温が[[名古屋城]]下に蟄居謹慎となる。12月、従四位下に叙任する。吉宗から特別に[[鷹狩]]の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として将軍吉宗に大切にされる。享保13年([[1728年]])、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。
享保3年([[1718年]])4月、[[天然痘|疱瘡]]に罹るが、まもなく回復する。同月、兄・通温が[[名古屋城]]下に[[蟄居]][[謹慎]]となる。12月、従四位下に叙任する。吉宗から特別に[[鷹狩]]の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として吉宗に大切にされる。享保13年([[1728年]])、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。


=== 梁川藩主 ===
=== 梁川藩主 ===
享保14年(1729)6月、梁川藩第3代[[松平義真]]が没し、梁川藩大久保松平家が断絶する。8月に吉宗から肝煎りで梁川藩3万石を改めて与えられ、大久保松平家再興する。12月に従四位下侍従に任官、大広間詰めとなる<ref group="注釈">飢饉の際に、領民の要望を聞いて種籾を放出したことで、梁川藩では餓死者が出なかった。それを讃えて、現在でも伊達市では「つつこ引き祭り」{{Cite web |date=福島県伊達市観光情報ポータルサイト |url=URL http://www.date-shi.jp/2491|title=だてめがね |publisher=  |accessdate=2019-12-20}}。が行なわれている。その他、キリシタンの風評被害を禁じ、領民を苦しめる行事を禁じ、六斎市や馬市を開き、医学を奨励するなど善政を敷いた。</ref>
享保14年([[1729]])[[6 (旧暦)|6月]]尾張藩連枝で梁川藩第藩主の[[松平義真]]が没し、梁川藩大松平家が無嗣断絶となった[[8月 (旧暦)|8月]]将軍吉宗肝煎りで梁川藩3万石を改めて与えられ、大松平家再興された上杉氏統治時代の[[梁川城]]は既に破却され[[梁川城|梁川陣屋]]となっていたが、12月に従四位下侍従に任官され[[国主]]扱いの大広間詰めとなった。


梁川藩は初代の[[松平義昌]]が高年貢を課し新たに課役を設けるなどした。さらに二代の[[松平義方]]は父の代以上に年貢率を引き上げ、新税を設置して重税を強いるなど、領民からの収奪を強化していた<ref>『徳川・松平一族の事典』</ref>。通春は藩主に就任したものの梁川に赴くことは無かった。享保年間は天候が悪く不作が続いたため、困窮し不満の高まった農民は[[百姓一揆|一揆]]を起こし、代官所に訴え出た。通春は江戸に居たが、代官が一揆を鎮圧したあとで、領民の要望を受け入れて備蓄の[[種籾]]を放出した。これにより来る[[享保の大飢饉]]では、梁川藩領内では餓死者が出なかったとされる。
=== 尾張藩主 ===
享保15年([[1730年]])9月、日光社参。11月27日に兄・[[尾張藩]]6代藩主[[徳川継友]]が没し、翌日継友の遺言ということで[[尾張徳川家|尾張徳川]]宗家を相続し、第7代当主徳川通春となる<ref group="注釈">大久保松平家は断絶した。異母兄の尾張藩[[御連枝]]筆頭[[高須藩]]主[[松平義孝]]を飛び越える異例の相続であった。ただし、義孝は2年後の享保17年(1732年)に死去している。</ref>。享保16年([[1731年]])正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・[[本寿院 (徳川吉通生母)|本寿院]]の蟄居を解く令を出す。同月に正四位下左近衛権少将に叙任する。続けて従三位左近衛権中将に叙任する。将軍吉宗より[[偏諱]]を授かり、'''徳川宗春'''を名乗る。3月、従三位[[参議]](宰相)・左近衛権中将に叙任する。同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。同年4月、名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。


<!--リンク切れ。『だてめがね』というwebはあるものの「お探しのページはみつかりません」表示(2023-12-06)。リンク復活の可能性を考え、本編集にリンク切れ注釈は残しておく。--><!--ref group="注釈">通春が種籾放出したことを讃えて、現在でも伊達市では「つつこ引き祭り」{{Cite web|和書|date=福島県伊達市観光情報ポータルサイト |url=URL http://www.date-shi.jp/2491|title=だてめがね |publisher=  |accessdate=2019-12-20}}。が行なわれている。その他、キリシタンの風評被害を禁じ、領民を苦しめる行事を禁じ、六斎市や馬市を開き、医学を奨励するなど善政を敷いた。</ref>-->
宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の[[御簾中]]瑞祥院(九条輔子)の実家の[[九条家]]に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている<ref group="注釈">これは上級の武士と町民の交流を果たすことが目的であった。</ref>。藩士に城下の芝居などの見物も許可した。


=== 名古屋藩主 ===
当時の幕府は[[享保の改革]]を推進する将軍[[徳川吉宗]]のもと、[[老中]][[松平乗邑]]の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の尾張藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは[[朝鮮通信使]]の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。
享保15年([[1730年]])9月、日光社参。[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]に兄・継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張家を相続し、第7代当主徳川通春となる<ref group="注釈">大松平家は断絶した。異母兄の尾張藩[[御連枝]]筆頭[[高須藩]]主[[松平義孝]]を飛び越える異例の相続であった。ただし、義孝は2年後の享保17年(1732年)に死去している。</ref>。享保16年([[1731年]])正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・[[本寿院 (徳川吉通生母)|本寿院]]の蟄居を解く令を出す。同月に[[正四位|正四位下]]左近衛権少将に叙任する。続けて[[従三位]]左近衛権中将に叙任する。将軍吉宗より[[諱|偏諱]]を授かり、'''徳川宗春'''を名乗る。3月、従三位[[参議]](宰相)・左近衛権中将に叙任する。同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。同年4月、[[名古屋城]]へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。


宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の[[御簾中]]瑞祥院(九条輔子)の実家の[[九条家]]に3千両を寄付し、[[朝廷 (日本)|朝廷]]との関係を大切にした。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、[[提灯]]を城下に数多く置いた。継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に[[奉行]]以上の重職たちにも閲覧させている<ref group="注釈">これは上級の武士と町民の交流を果たすことが目的であった。</ref>。藩士に城下の芝居などの見物も許可した。
享保17年(1732年)正月、自身の著書『[[温知政要]]』(21箇条)を藩士に配布した。3月には『[[條々二十一箇條]]』を発布した。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の[[享保の改革]]による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に[[市場経済|自由経済]]政策理論をもって立ち向かったのは、[[江戸時代]]の藩主では宗春だけである。


当時の幕府は[[享保の改革]]を推進する将軍吉宗のもと、[[老中]][[松平乗邑]]の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。[[緊縮財政政策|緊縮財政]]・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の名古屋藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく、[[寺社|神社仏閣]]への公式参拝には[[束帯]]騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは[[朝鮮通信使]]の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や[[遊廓|遊郭]]等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、[[商人]]たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。
この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2014年2月|しかしその結果、獄中に死罪人が溢れることとなった。これらの罪人は藩主交代後に全員が処刑された。}}</ref>。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。


享保17年(1732年)正月、自身の著書『[[温知政要]]』(21箇条)を藩士に配布した。3月には『條々二十一箇條』を発布した。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に[[市場経済|自由経済]]政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。
享保17年(1732年)には[[参勤交代]]で[[江戸]]へ下る。先代継友時代、享保10年([[1725年]])に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日、東照権現[[徳川家康]]から藩祖[[徳川義直]]が拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。通説ではその後、5月または9月に将軍吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、

この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、名古屋藩では一人の[[死刑]]も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2014年2月|しかしその結果、獄中に死罪人が溢れることとなった。これらの罪人は藩主交代後に全員が処刑された。}}</ref>。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は[[非人]]あるいは死罪」)。岐阜への巡視<ref group="注釈">享保18年9月11日から15日まで滞在。『安川文書』によれば12日の午後6時半頃、鵜飼見物に出掛けた際に宗春は舟からたくさんの花火を見物しており、この時は徳田(岐南町と思われる)より花火師が来て珍しい花火を打ち上げている。確認できる限り、これが長良川で打ち上げられた花火の最も古い記録であり、現在行われている[[長良川全国花火大会|長良川花火大会]]の先駆けといえるだろう。なおその直前の享保18年5月28日に、吉宗は前年に発生した飢饉等の被害者を偲び、隅田川で水神祭りを行い花火が打ち上げられたといわれている。これが現在の[[隅田川花火大会]]に繋がっていったとされているが、この話は後世の作り話だという説が有力である。</ref>では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が[[浄瑠璃]][[歌舞伎]]の題材となった。

享保17年(1732年)には[[参勤交代]]で江戸へ下る。先代継友時代、享保10年([[1725年]])に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]、[[徳川家康]]から藩祖[[徳川義直]]が拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。通説ではその後、5月または9月に吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、
* 国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
* 国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
* 嫡子の[[初節句]]の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
* 嫡子の[[初節句]]の時、江戸藩邸に[[町人]]たちを呼び入れ、尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
* 倹約令を守っていない
* 倹約令を守っていない
というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、
というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、
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と一歩も引かず反論した、と通説では言われる<ref group="注釈">公式記録には何も残されておらず、5月には兄で高須藩主の[[松平義孝]]の死があり、9月は詰問に出向いたと言われる[[滝川元長]]や[[石河政朝]]の出自や役職、さらに直後の鷹狩への使者が滝川元長であったことなどの状況証拠から考えると、実際にこの詰問があったかどうかは、はなはだ疑わしい。尾張藩士の手紙では五月に既にうわさが流れていたが、噂であると断じている。</ref>。
と一歩も引かず反論した、と通説では言われる<ref group="注釈">公式記録には何も残されておらず、5月には兄で高須藩主の[[松平義孝]]の死があり、9月は詰問に出向いたと言われる[[滝川元長]]や[[石河政朝]]の出自や役職、さらに直後の鷹狩への使者が滝川元長であったことなどの状況証拠から考えると、実際にこの詰問があったかどうかは、はなはだ疑わしい。尾張藩士の手紙では五月に既にうわさが流れていたが、噂であると断じている。</ref>。


宗春は、規制緩和による経済の活性化を図るものの、尾張藩の財政は赤字に転じたと通説では言われる<ref group="注釈">『名古屋市史』の中に所収されるその資料は江戸末期のもので、宗春当時の記録ではない。宗春時代に記されたもので尾張藩が赤字に転じたという資料はない。その資料によると、6代藩主継友と8代藩主宗勝は黒字であったとされるが、共にその藩政下では江戸上屋敷市谷藩邸が全焼しており、黒字になる可能性は限りなく低い。</ref>。享保18年([[1733年]])12月、宗春は尾張瀬戸水野山から木曽の山々に至るまでの2万人規模の巻き狩りを計画するが、家臣の反対で中止する。家臣は規模を縮小するように宗春に薦めたが、宗春は頑なに2万人規模を主張し、結果的には巻狩を断念する<ref group="注釈">この巻狩の前の数カ月間、宗春は御下屋敷で商人たちと会っていて、名古屋城二の丸に戻っていない。</ref>。享保20年(1735年)3月、江戸在番の藩士に遊興博打を禁じる令を出す<ref group="注釈">8月に、幕府が大名と旗本に遊里戯場へ出入りすることを禁じる令を出しており、その先手を打つものであった。</ref>。9月、宗春が名古屋にいるときに嫡男の[[徳川国丸|国丸]](萬五郎)が江戸藩邸で逝去する。この年、吉宗より拝領した[[朝鮮人参]]の栽培を御下屋敷で始める。 [[元文]]元年(享保21年・[[1736年]])、3ヶ所の遊里を、もっとも高級な西小路遊郭の1ヶ所に集め、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し、規制緩和政策を後退させる<ref group="注釈">緩みすぎた藩士の規律を正すものであると同時に、幕府の元文の改鋳によるインフレ政策対策として、引き締め政策に転じた。名古屋はすでにインフレ状態であり、強いインフレに陥らないように庶民を守った政策である。それと同時に、元文2年([[1737年]])の名古屋や岐阜の町、ならびに農村からの借財は、幕府の蓄銭禁止令に対応したものであった。借財という方法論によって、多く出回りすぎる貨幣を藩が集め、インフレを押さえたからである。</ref>。
宗春は、規制緩和による経済の活性化を図るものの、名古屋藩の財政は赤字に転じたと通説では言われる<ref group="注釈">『名古屋市史』の中に所収されるその資料は江戸末期のもので、宗春当時の記録ではない。宗春時代に記されたもので尾張藩が赤字に転じたという資料はない。その資料によると、6代藩主継友と8代藩主宗勝は黒字であったとされるが、共にその藩政下では江戸上屋敷市谷藩邸が全焼しており、黒字になる可能性は限りなく低い。</ref>。享保18年([[1733年]])12月、宗春は尾張瀬戸水野山から木曽の山々に至るまでの2万人規模の巻き狩りを計画するが、家臣の反対で中止する。家臣は規模を縮小するように宗春に薦めたが、宗春は頑なに2万人規模を主張し、結果的には巻狩を断念する<ref group="注釈">この巻狩の前の数カ月間、宗春は御下屋敷で商人たちと会っていて、名古屋城二の丸に戻っていない。</ref>。享保20年(1735年)3月、江戸在番の藩士に遊興博打を禁じる令を出す<ref group="注釈">8月に、幕府が大名と旗本に遊里戯場へ出入りすることを禁じる令を出しており、その先手を打つものであった。</ref>。9月、宗春が名古屋にいるときに嫡男の国丸(萬五郎)が江戸藩邸で逝去する。この年、吉宗より拝領した[[オタネニンジン|朝鮮人参]]の栽培を御下屋敷で始める。 [[元文]]元年(享保21年・[[1736年]])、3ヶ所の遊里を、もっとも高級な西小路遊郭の1ヶ所に集め、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し、規制緩和政策を後退させる<ref group="注釈">緩みすぎた藩士の規律を正すものであると同時に、幕府の元文の改鋳によるインフレ政策対策として、引き締め政策に転じた。名古屋はすでにインフレ状態であり、強いインフレに陥らないように庶民を守った政策である。それと同時に、元文2年([[1737年]])の名古屋や岐阜の町、ならびに農村からの借財は、幕府の蓄銭禁止令に対応したものであった。借財という方法論によって、多く出回りすぎる貨幣を藩が集め、インフレを押さえたからである。</ref>。


=== 隠居謹慎 ===
=== 隠居謹慎 ===
享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の[[近衛家]]と、反幕府の[[霊元天皇|霊元法皇]]が激しく対立していた。[[近衛家熙]]が薨去した後は、[[桜町天皇]]側近で霊元法皇の強い影響下にあった[[一条兼香]]を中心に朝廷は動き始めていた。
享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の[[近衛家]]と、反幕府の[[霊元天皇|霊元法皇]]が激しく対立していた。[[近衛家熙]]が薨去した後は、[[桜町天皇]]側近で霊元法皇の強い影響下にあった[[一条兼香]]を中心に朝廷は動き始めていた。


幕府は、[[水戸藩]]から上程された『[[大日本史]]』の出版許可を朝廷に求めた際に、[[有職故実]]の大家でもあった霊元法皇門下の[[一条兼香]](当時[[大納言]])に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は[[右大臣]])は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。尾張藩は代々朝廷と深いつながり([[五摂家]]の[[九条家]]<ref group="注釈">4代藩主[[徳川吉通]]正妻の輔子は[[九条輔実]]の娘。吉通長女の千姫は[[九条幸教]]に嫁ぐ。</ref>・[[近衛家]]<ref group="注釈">6代藩主[[徳川継友]]正妻の安己は[[近衛家熙]]の次女。</ref>・[[清華家]]の[[広幡家]]<ref group="注釈">初代[[広幡忠幸]]は、尾張藩初代藩主[[徳川義直]]の猶子であり、義直の娘の[[京姫]]を正妻とする。</ref>・[[羽林家]]の[[正親町家]]<ref group="注釈">尾張家御連枝川田久保[[松平友著]]正妻の伊喜姫は[[正親町公通]]の娘。</ref>と縁戚)を持っていた。
幕府は、[[水戸藩]]から上程された『[[大日本史]]』の出版許可を朝廷に求めた際に、[[有職故実]]の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時[[大納言]])に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]問題があり、一条兼香(当時は[[右大臣]])は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。名古屋藩は代々朝廷と深いつながり([[五摂家]]の九条家<ref group="注釈">4代藩主[[徳川吉通]]正妻の輔子は[[九条輔実]]の娘。吉通長女の千姫は[[九条幸教]]に嫁ぐ。</ref>・近衛家<ref group="注釈">6代藩主[[徳川継友]]正妻の安己は[[近衛家熙]]の次女。</ref>・[[清華家]]の[[広幡家]]<ref group="注釈">初代[[広幡忠幸]]は、尾張藩初代藩主[[徳川義直]]の猶子であり、義直の娘の[[京姫]]を正妻とする。</ref>・[[羽林家]]の[[正親町家]]<ref group="注釈">尾張家御連枝川田[[松平友著]]正妻の伊喜姫は[[正親町公通]]の娘。</ref>と縁戚)を持っていた。


当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして尾張藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、尾張藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と尾張藩は徐々に政略的に板挟みとなる。
当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、[[蝗害]]などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして名古屋藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、名古屋藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と名古屋藩は徐々に政略的に板挟みとなる。


そのような状況で、実弟の[[石河政朝]]が幕府中枢にいた御附家老[[竹腰正武]]をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが<ref>[[日本放送協会|NHK]]『[[その時歴史が動いた]]』[[2008年]][[9月18日]]</ref>、実際は吉宗本人ではなく、老中[[松平乗邑]]との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老[[成瀬正泰]](当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1738年]][[7月25日]])、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために尾張藩領は混乱を起こしてしまう。
そのような状況で、実弟の[[石河政朝]]が幕府中枢にいた御附家老[[竹腰正武]]をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが<ref>[[日本放送協会|NHK]]『[[その時歴史が動いた]]』[[2008年]][[9月18日]]</ref>、実際は吉宗本人ではなく、老中松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老[[成瀬正泰]](当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1738年]][[7月25日]])、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために名古屋藩領は混乱を起こしてしまう。


この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという{{refnest|group="注釈"|この祈祷を白い衣を着て行ったという<ref>『尾藩世紀』</ref>。翌年暮れに吉宗の使者に「領民の安寧が私の心の楽しみ」と述べたという記録もある<ref>『尾公口授』</ref>。}}。元文4年(1739年)正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう{{refnest|group="注釈"|京の[[大嘗会]]への使者である[[高家 (江戸時代)|高家]][[堀川広益]]が京から戻って吉宗に報告した翌日から将軍吉宗は引き篭もり、年初恒例の行事を老中に代参させている<ref name="jikki"/>。その堀川広益は、尾張藩の縁戚である広幡家の当主である広幡豊忠の実弟である。}}。
この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという{{refnest|group="注釈"|この祈祷を白い衣を着て行ったという<ref>『尾藩世紀』</ref>。翌年暮れに吉宗の使者に「領民の安寧が私の心の楽しみ」と述べたという記録もある<ref>『尾公口授』</ref>。}}。元文4年([[1739]][[正月]]過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう{{refnest|group="注釈"|京の[[大嘗会]]への使者である[[高家 (江戸時代)|高家]][[堀川広益]]が京から戻って吉宗に報告した翌日から将軍吉宗は引き篭もり、年初恒例の行事を老中に代参させている<ref name="jikki"/>。その堀川広益は、尾張藩の縁戚である広幡家の当主である広幡豊忠の実弟である。}}。


そして正月11日([[1739年]][[2月18日]])、尾張藩の家老たち江戸城に呼び出、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌月12日に将軍吉宗からの隠居謹慎命令[[広島藩]]主[[浅野吉長]](宗春の従兄)・[[水戸藩]]御連枝陸奥[[守山藩]]主[[松平頼貞]](宗春の異母兄[[松平義孝]]の娘の茂登姫は頼貞嫡男[[松平頼寛]]正妻)、同じく水戸藩御連枝[[常陸府中藩]]主[[松平頼幸]]により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城[[三の丸]]の屋敷に隠居謹慎させられる{{refnest|group="注釈"|御三家はじめ御家門のほとんどが閉門したほどの事件があったにもかかわらず、この日の吉宗は関白[[一条兼香]]等朝廷に異例の貢物を送っている<ref name="jikki"/>。その後、一条兼香は4人の姫を水戸・紀州・一橋・清水の御三家・御三卿の御簾中として送り出し、また幕閣はこの年に霊元法皇の影響を受けた4人の和歌の名人の公卿の名前を提出させている。}}。
そして[[1月11日 (旧暦)|正月11日]]([[1739年]][[2月18日]])、名古屋藩の家老たちが[[江戸城]]に呼び出され、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌[[1月12日 (旧暦)|12日]]に吉宗からの隠居謹慎命令[[広島藩]]主[[浅野吉長]](宗春の従兄)水戸藩御連枝[[守山藩]]主[[松平頼貞]](宗春の異母兄[[松平義孝]]の娘の茂登姫は頼貞嫡男[[松平頼寛]]正妻)、同じく水戸藩御連枝[[常陸府中藩]]主[[松平頼幸]]により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城[[三の丸]]の屋敷に隠居謹慎させられる{{refnest|group="注釈"|御三家はじめ御家門のほとんどが閉門したほどの事件があったにもかかわらず、この日の吉宗は関白[[一条兼香]]等朝廷に異例の貢物を送っている<ref name="jikki"/>。その後、一条兼香は4人の姫を水戸・紀州・一橋・清水の御三家・御三卿の御簾中として送り出し、また幕閣はこの年に霊元法皇の影響を受けた4人の和歌の名人の公卿の名前を提出させている。}}。


=== 膨大な財政赤字 ===
=== 膨大な財政赤字 ===
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だが、宗春が藩主を継いだ享保16年(1731年)は総差引2万7064両の赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738年)には、金7万4607両・米3万6489石余という巨額の累積赤字を出し総差引14万7585両の赤字となった。赤字補填のために領民に多額の借上金を命じて庶民の暮らしを圧迫することになった。
だが、宗春が藩主を継いだ享保16年(1731年)は総差引2万7064両の赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738年)には、金7万4607両・米3万6489石余という巨額の累積赤字を出し総差引14万7585両の赤字となった。赤字補填のために領民に多額の借上金を命じて庶民の暮らしを圧迫することになった。


これを継いだ8代宗勝は倹約を続けた結果、延享4年(1747年)までに、金部門では2万8288両が不足するものの、米部門は11万4779石の剰余となり、総差引では1万3612両の黒字に転じることに成功した<ref>{{Cite book|title=尾張藩の財政と藩札|url=http://worldcat.org/oclc/123028504|publisher=[Shakai keizaishi gakkai]|date=[1935.5]|oclc=123028504|last=所, 三男, (1900- )}}</ref>
これを継いだ8代藩主・[[徳川宗勝]]は倹約を続けた結果、[[延享]]4年([[1747]])までに、金部門では2万8288両が不足するものの、米部門は11万4779石の剰余となり、総差引では1万3612両の黒字に転じることに成功した<ref>{{Cite book|title=尾張藩の財政と藩札|url=http://worldcat.org/oclc/123028504|publisher=[Shakai keizaishi gakkai]|date=[1935.5]|oclc=123028504|last=所, 三男, (1900- )}}</ref>


=== 隠居謹慎後の宗春 ===
=== 隠居謹慎後の宗春 ===
宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われているが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていない。尾張藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残っており、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できない。後に菩提寺である建中寺へりに行き、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録も残っている。
宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われているが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていない。名古屋藩の祈禱寺[[興正寺 (名古屋市)|興正寺]]にも参拝記録が残っており、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できない。後に[[菩提寺]]である[[建中寺]]へ参拝し、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録も残っている。


御連枝[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主の松平義淳が[[徳川宗勝]]として後継となったが<ref group="注釈">幕閣方面からは後継として、吉宗の次男の[[田安宗武]]を入れる計画もあったが、尾張藩の抵抗により断念された、という話も伝わる。</ref>、宗春の養子という形式ではなく、尾張藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。
御連枝[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主の松平義淳が徳川宗勝として後継となったが<ref group="注釈">幕閣方面からは後継として、吉宗の次男の[[田安宗武]]を入れる計画もあったが、尾張藩の抵抗により断念された、という話も伝わる。</ref>、宗春の養子という形式ではなく、名古屋藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。


宗春の蟄居謹慎は6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷であり、時には藩主[[徳川宗勝]]より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある<ref>『尾公口授』江戸時代写本</ref>。
宗春の蟄居謹慎は6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷であり、時には藩主宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「[[鷹狩]]や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある<ref>『尾公口授』江戸時代写本</ref>。


[[ファイル:Grave of Tokugawa Muneharu.jpg|thumb|平和公園内の墓(愛知県名古屋市千種区)]]
[[ファイル:Grave of Tokugawa Muneharu.jpg|thumb|平和公園内の墓(愛知県名古屋市千種区)]]
[[宝暦]]元年([[1751年]])、吉宗が薨去する。宝暦4年([[1754年]])、御下屋敷(7万5千坪もある尾張藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の[[建中寺]]への参拝、尾張藩の祈願所である八事山[[興正寺]]への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室の[[阿薫|いづみ]]([[阿薫|宝泉院]]:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、尾張藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。
[[宝暦]]元年([[1751年]])、吉宗が薨去する。宝暦4年([[1754年]])、御下屋敷(7万5千坪もある名古屋藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、名古屋藩の祈願所である[[八事山]]興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室の[[阿薫|いづみ]]([[阿薫|宝泉院]]:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、名古屋藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。


[[明和]]元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]([[1764年]][[11月1日]])死去。[[享年]]69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶した。
[[明和]]元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]([[1764年]][[11月1日]])死去。[[享年]]69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶した。


=== 宗春が隠居してからの幕府と名古屋 ===
=== 宗春が隠居してからの幕府と名古屋 ===
宗春が隠居謹慎し、[[徳川宗勝|宗勝]]が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債を返済すべく、6代藩主[[徳川継友|継友]]の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている<ref group="注釈">実際は宗春治世中に既に、藩内の贅沢や奢侈を禁ずる政策が出されている。{{要出典範囲|date=2014年2月|また、宗勝の質素倹約を旨とする緊縮財政政策は大成功し、藩財政は再建された。}}</ref>。
宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債を返済すべく、6代藩主継友の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている<ref group="注釈">実際は宗春治世中に既に、藩内の贅沢や奢侈を禁ずる政策が出されている。{{要出典範囲|date=2014年2月|また、宗勝の質素倹約を旨とする緊縮財政政策は大成功し、藩財政は再建された。}}</ref>。


宗春が隠居して15年が経った頃、城下の商人であった小刀屋藤左衛門こと[[木全雅直]]が宗春の恩赦を願い出たがこの行動は罪に問われ、[[篠島]]に島流しとなった。その後も、歴代の尾張藩家老成瀬家([[犬山城]]主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。<!--- 名古屋の人々の宗春への思いは消えていなかった。--->
宗春が隠居して15年が経った頃、城下の商人であった小刀屋藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦を願い出たがこの行動は罪に問われ、[[篠島]]に島流しとなった。その後も、歴代の名古屋藩家老成瀬家([[犬山城]]主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。<!--- 名古屋の人々の宗春への思いは消えていなかった。--->


延享2年(1745年)、吉宗は隠居して[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、嫡男の[[徳川家重]]が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった[[松平乗邑]]は、老中を罷免された{{refnest|group="注釈"|吉宗側近の[[御側御用取次]]の[[加納久通]]は西之丸若年寄として健在であった。乗邑は罷免後の翌年に逝去している。乗邑が将軍吉宗の言葉さえも聞かなくなっていたほど専横があったことを匂わせる記述も存在する<ref name="jikki"/>。}}。家重は[[御側御用人]]として[[大岡忠光]]と[[田沼意次]]を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった<ref group="注釈">吉宗時代には既に、幕府は[[貨幣改鋳]]による貨幣流通量のと共に、金融緩和政策などを行っているが、これは[[大岡忠相]]の再三再四による献策であった。老中松平乗邑は反対していたが、元文改鋳をせざるを得なくなる。この金融緩和の後、幕府は租税の回収を強化し、各地で暴動が起き朝廷が幕府に諫言するほどであった。</ref>。
延享2年(1745年)、吉宗は隠居して[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、嫡男の[[徳川家重]]が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免された{{refnest|group="注釈"|吉宗側近の[[御側御用取次]]の[[加納久通]]は西之丸若年寄として健在であった。乗邑は罷免後の翌年に逝去している。乗邑が将軍吉宗の言葉さえも聞かなくなっていたほど専横があったことを匂わせる記述も存在する<ref name="jikki"/>。}}。家重は[[御側御用人]]として[[大岡忠光]]と[[田沼意次]]を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった<ref group="注釈">吉宗時代には既に、幕府は[[貨幣改鋳]]による貨幣流通量のと共に、金融緩和政策などを行っているが、これは[[大岡忠相]]の再三再四による献策であった。老中松平乗邑は反対していたが、元文改鋳をせざるを得なくなる。この金融緩和の後、幕府は租税の回収を強化し、各地で暴動が起き朝廷が幕府に諫言するほどであった。</ref>。


宝暦10年(1760年)、10代将軍[[徳川家治|家治]]が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった<!---<ref group="注釈">当時、「はる」様といえば宗春のことを指したにもかかわらず、吉宗と家重は家治の[[諱]]に、わざわざ「はる」の音を与えている。</ref>--->。尾張藩では、9代将軍家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主宗勝が薨去する。そして、9代藩主[[徳川宗睦|宗睦]]が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、尾張藩中興の祖とまで呼ばれるようになる<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2014年2月|宗睦の政策は新田開発や殖産興業政策、治水工事であり、役人の綱紀粛正である。これは吉宗の施策と同じであり、また宗睦は晩年に経済の大混乱を引き起こしている。}}</ref>。
宝暦10年(1760年)、10代将軍[[徳川家治]]が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった<!---<ref group="注釈">当時、「はる」様といえば宗春のことを指したにもかかわらず、吉宗と家重は家治の[[諱]]に、わざわざ「はる」の音を与えている。</ref>--->。名古屋藩では、9代将軍家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主宗勝が薨去する。そして、9代藩主[[徳川宗睦]]が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、名古屋藩中興の祖とまで呼ばれるようになる<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2014年2月|宗睦の政策は新田開発や殖産興業政策、治水工事であり、役人の綱紀粛正である。これは吉宗の施策と同じであり、また宗睦は晩年に経済の大混乱を引き起こしている。}}</ref>。


隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる<ref group="注釈">[[浅井図南]]等が主導して、多数の医師が尾張藩で育つ。</ref>。<!--- 宗春の政策は、隠居謹慎で一度は下火となるが、時代を経て再び確実に受け継がれていく。宗春が薨去したのは、この宗睦の時代であり、10代将軍家治の田沼政治の時代であった。宗春の政策は、幕府を憚って表面上は一度は否定されるが、着実に尾張藩に根付いていった。--->
隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる<ref group="注釈">[[浅井図南]]等が主導して、多数の医師が尾張藩で育つ。</ref>。<!--- 宗春の政策は、隠居謹慎で一度は下火となるが、時代を経て再び確実に受け継がれていく。宗春が薨去したのは、この宗睦の時代であり、10代将軍家治の田沼政治の時代であった。宗春の政策は、幕府を憚って表面上は一度は否定されるが、着実に尾張藩に根付いていった。--->


<!--- しかし、宗春を表立って肯定すると将軍家の権威を否定することになり、幕府の権威を傷つけてしまうために、宗春の謹慎は死後も続いた<ref group="注釈">墓石に金網がかけられたという噂が流れているが、確たる証拠はない。</ref>。--->尾張藩10代藩主の[[徳川斉朝|斉朝]]は[[一橋徳川家]]から養子に入るが、斉朝の母方は[[二条家]]出身であり、[[九条家]]を通して4代藩主吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る[[山王社]]を下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には[[徳川家康]]・[[徳川義直]]であった。明治維新に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年の[[天保]]10年([[1839年]])、11代将軍[[徳川家斉|家斉]]の十二男[[徳川斉荘|斉荘]]が尾張藩第12代藩主に就任する際、宗春の名誉が回復されて[[従二位]][[大納言|権大納言]]を贈られ、歴代藩主に列せられる<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2014年2月|また、この時に金網も撤去されたという伝もある}}が、記録にはそのことは記されていない。</ref>。<!--- 隠居謹慎をさせられていた大名が、江戸時代に名誉回復して官位を贈呈されたのは異例の出来事であった。--->14代藩主慶恕([[徳川慶勝|慶勝]])は、下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]]、[[浄土宗]][[無量寿院]])を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った<ref group="注釈">慶勝は、[[大老]][[井伊直弼]]と対立する[[一橋派]]に属しており、[[南紀派]]に対抗するため、紀州のライバルと比定できる宗春のイメージに頼った、とする説がある。</ref>。
<!--- しかし、宗春を表立って肯定すると将軍家の権威を否定することになり、幕府の権威を傷つけてしまうために、宗春の謹慎は死後も続いた<ref group="注釈">墓石に金網がかけられたという噂が流れているが、確たる証拠はない。</ref>。--->10代藩主の[[徳川斉朝]]は[[一橋徳川家]]から養子に入るが、斉朝の母方は[[二条家]]出身であり、[[九条家]]を通して4代藩主吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る[[山王社]]を下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康徳川義直であった。[[明治維新]]に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年の[[天保]]10年([[1839年]])、11代将軍[[徳川家斉]]の十二男である[[徳川斉荘|斉荘]]が12代藩主に就任する際、宗春の名誉が回復されて[[従二位]][[大納言|権大納言]]を贈られ、歴代藩主に列せられる<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2014年2月|また、この時に金網も撤去されたという伝もある}}が、記録にはそのことは記されていない。</ref>。<!--- 隠居謹慎をさせられていた大名が、江戸時代に名誉回復して官位を贈呈されたのは異例の出来事であった。--->14代藩主・徳川慶恕([[徳川慶勝|慶勝]])は、下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]]、[[浄土宗]][[無量寿院]])を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った<ref group="注釈">慶勝は、[[大老]][[井伊直弼]]と対立する[[一橋派]]に属しており、[[南紀派]]に対抗するため、紀州のライバルと比定できる宗春のイメージに頼った、とする説がある。</ref>。


=== 墓石と遺骸・墓石修復など ===
=== 墓石と遺骸・墓石修復など ===
宗春の死後、遺体は[[建中寺]]に埋葬された。土葬だったため、[[明治]]期の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかり、[[白装束|経帷子]]や守り刀の木刀も残っていた。
宗春の死後、遺体は[[建中寺]]に埋葬された。[[土葬]]だったため、[[明治]]期の発掘調査では[[ミイラ]]化した状態で見つかり、[[白装束|経帷子]]や守り刀の木刀も残っていた。


[[1945年]]([[昭和]]20年)に[[名古屋市]]が[[名古屋大空襲|空襲]]を受けた際、[[焼夷弾]]の直撃を受けて墓石の一部が損傷した。尾張藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石<ref group="注釈">現[[岐阜県]][[各務原市]]鵜沼の石亀神社が、その石切場跡である。</ref>が用いられており、しばらく損傷した状態であった。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が[[千種区]]の[[平和公園 (名古屋市)|平和公園]]に移転し、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された。なお、副葬品などは建中寺に納められている。
[[昭和]]20年([[1945年]])に[[名古屋市]]が[[名古屋大空襲|空襲]]を受けた際、[[焼夷弾]]の直撃を受けて墓石の一部が損傷した。名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石<ref group="注釈">現[[岐阜県]][[各務原市]]鵜沼の石亀神社が、その石切場跡である。</ref>が用いられており、しばらく損傷した状態であった。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が[[千種区]]の[[平和公園 (名古屋市)|平和公園]]に移転し、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された。なお、副葬品などは建中寺に納められている。

2010年、有志の集まり「NPO法人宗春ロマン隊」により、宗春の墓が修復される。2012年2月5日には尾張徳川家第22代当主[[徳川義崇]]や名古屋市長・愛知県副知事等と共に、宗春ロマン隊は「尾張七代藩主徳川宗春公を大河ドラマにしよまい」という祭を名古屋城で行い、この日の名古屋城への来場者は7000人を超えた。


=== 宗春の特異な政策 ===
=== 宗春の特異な政策 ===
<ref>『温知政要』『條々二十一箇条』『尾藩世紀』『徳川実紀』『幸和先生御伝』等</ref>
<ref>『温知政要』『條々二十一箇条』『尾藩世紀』『徳川実紀』『幸和先生御伝』等</ref>
*宗春の政策で[[からくり人形]]を操作する[[ロボット]]操作技術の徳川家康神社祭りが盛大に実施されて、名古屋の花火打ち上げ祭りの祭り行事が盛んな祭り文化社会になった。陶芸産業や毛織物産業など[[地場産業]]が保護されて日本国内他国への販売先が増加した。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男55頁</ref>
*宗春は遊芸や[[音曲]]や[[鳴り物]]を奨励した。[[江戸]][[吉原]]規模となる[[西小路]]及び富士見ヶ原と[[葛町]]の名古屋三大[[遊郭]]が誕生した。[[大須観音]][[本堂]]の[[歌舞伎]]や[[狂言]]大芝居の楽屋や井戸を設置した大舞台であった。芝居の数が[[享保]]15年の2本から享保16年の30本で享保18年に100本に増加した。[[江戸]][[芝居]]や[[上方]]芝居などの各地の文化流入で[[人形浄瑠璃]]が発展して、名古屋に芝居小屋が建設されて、7つの寺院に芝居小屋が新設された。[[陶器]]産業及び[[木綿]]の周辺地域への[[市場]]の拡大化と[[重商主義]]政策で[[農産物]]が[[高品質]]となった。尾張藩内の農産物の生産種類が倍増した。大都市名古屋が誕生して5万人から7万人以上増加する12万人以上の大都市へ名古屋の人口が増加した。<ref><『改革の日本史』[[河合敦]]105頁</ref>
* 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
* 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
* 意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
* 祭事産業政策で東照宮祭の新しい山車や新しいからくり人形が製造されて山車製造産業とからくり人形製造産業を盛んにした。[[名古屋東照宮祭り]]など意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
* 人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
* 男女倫理に反する祭りや人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
* 奪い合うことや義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
* 男女が奪い合うことや義に反する義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
* 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
* 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
* 法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
* 余計な法律を削除して必要な法律のみとした。必要な仏教行為か義の心で吟味して、法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
* 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
* 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
* 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
* 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
* ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
* 風俗文化政策として[[歌舞伎役者]]風の派手な衣装行列で民間風俗文化を明るくした。徳川宗春は赤色の着物に亀甲笠を帽子として使用して白い牛を移動に使用した。名古屋に存在しなかった風俗施設の遊郭を3か所作った。[[ファッション]][[リーダ]]ーを自ら担った(例:[[申楽]][[]][[狂言]])・歌舞伎・[[朝鮮通信使]]等の衣装 等)
* 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)
* 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)
* 庶民と上級藩士が出会う場を提供した(例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等)
* 庶民と上級藩士が出会う場を提供した(例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等)
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* [[六斎市]]の奨励(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
* [[六斎市]]の奨励(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
* 庶民が喜ぶことをした(例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装)
* 庶民が喜ぶことをした(例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装)
* 社会的な弱者を大切にした(例:女性・子ども・身分の低い者の保護)
* 社会的な弱者を大切にした。宗春の[[尾張藩]]主だった時代の[[死刑廃止]]政策や厳しい処罰警察組織を否定する仏教愛思想で領民から[[釈迦如来]]の[[生まれ変わり]]と呼ばれていた。派手な仏教愛殿様として人気があった。(例:女性・子ども・身分の低い者の保護)
*愛知県民への遺産として、[[町人]]による[[ロボット]][[技術]]の[[からくり人形]]の[[山車]]保有数日本一の[[愛知県]]にした。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男55頁</ref>尾張藩内の毛織物従事者を増加させて[[名古屋]]の人口を5万人から2倍以上にして、[[町人]]の人口を3倍から4倍以上に人口を急増させた。<ref><『改革の日本史』[[河合敦]]102頁</ref>[[江戸]]・[[京都]]・[[大阪]]と並ぶ[[日本三大都市]]地域である名古屋の都市建設を推進して近代名古屋の基礎を築き上げた。
* 死刑をしなかった
*遊び娯楽重視の政策として、祭り好きの心で名古屋に豪華な[[歌舞伎]]小屋施設の建設をして江戸や京都や大阪から歌舞伎役者の舞台誘致を推進した。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男46頁</ref>毎日花火を打ち上げる[[花火大会]]の実施や豪華な褒美がある[[盆踊り]]祭りを盛大に実施した。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男52頁</ref>
* マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し、上級家臣に配布した
*[[タバコ]]文化の記述では喫煙文化好きであった。好物の[[塩鮭]]を食べながら楽しく生きる娯楽重視思考の[[キセル]]文化人間であった。徳川宗春の[[喫煙]]行為関係の[[タバコ]]文化の記述では宗春は[[農民]]や[[商人]]と一緒に[[タバコ]]を吸っていた。[[長生き]]は得をする健康思考であった。健康食事と派手文化を推進した。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男45頁</ref>
*産業政策として、[[商人]]の[[知恵]]を活用して[[諸国]]に尾張藩の毛織物や陶芸品を[[流通]]させて地場産業の[[宣伝]]活動をした。[[尾張]][[一宮市]]の毛織物産業の育成や[[津島市]]の[[東洋紡]]産業や[[弥富市]]の金魚祭り文化の基礎となる産業の産業育成政策と商人流通宣伝政策で地場産業を育成した。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男67頁</ref>[[常滑焼]]・[[瀬戸焼]]・[[七宝焼]]など[[焼き物]]文化を保護して[[陶芸]]産業を育成した。[[花火]]文化や[[金魚]]産業などの[[祭り]][[文化]]を保護して[[神輿]]や参列者の[[仮装]]で盛り上がる名古屋祭りの実施で[[尾張徳川家]]への忠誠心を維持させて[[経済効果]]を狙っていた。[[毛織物]]など[[地場産業]]を育成した。尾張名古屋藩内で毛織物産業や陶芸産業を保護した。また宗春の政策で歌舞伎役者産業や大工産業が盛んになり、名古屋流通商人が尾張藩の派手な男女関係の女性風俗文化を宣伝した。
*医療技術政策では、[[高麗人参]]の[[栽培]]を[[尾張藩]]内で盛んにして[[医学]][[技術]]を進歩させた。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男26頁</ref>
* [[マニフェスト]]であり[[家訓]]でもある『[[温知政要]]』を執筆し、上級家臣に配布した。温知政要の尾張藩の家訓の思想は法律が多い国家で自由を奪う尾張藩を否定していた。民が元気になる産業政策を推進する寛容な法律支配者であった。

==徳川宗春の仏教愛思想==
* 罪人政策として、[[死刑執行]]をしなかった。[[慈悲]][[慈愛]]で見守る忍の心の[[仏教]][[愛]][[精神]]を大切にしていた。宗春は多くの法律がある恐怖[[警察国家]]を否定して死刑禁止政策で[[罪人]]に職業を与えて[[再犯]]を防止した。尾張名古屋藩主時代は人の命は金で買えないという命の尊厳思想の仏教愛で死刑執行を実施せず社会的に役に立たない人間はいないと考えていた事から罪人に職業を与えた<ref name="funabashi54">徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男54頁</ref>。
*人には好き嫌いがある。好みも違う。上級武士の倹約の好みを他人に好みを強制するなの思想であった。自ら出席して祭りや遊郭を楽しみ、有名な料理店や茶屋が名古屋に支店を出店するなど名古屋は繁栄した。[[食欲]]と[[性欲]]が同じ風俗女性遊郭好きの仏教愛思想であった。<ref><『改革の日本史』[[河合敦]]101頁</ref>
*[[建中寺]]や[[興正寺 (名古屋市)|興正寺]]など名古屋の仏教寺院を保護して仏教を信じていた。[[大須観音]]や養念寺など名古屋地域の[[仏教寺院]]を保護した。からくり技術の名古屋人形ロボット技術の発明で[[江戸時代]]より続く名古屋[[老舗]][[企業]]の[[両口屋是清]]や[[中北薬品]]など[[名古屋]][[企業文化]]を育成した<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男128頁</ref><ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男129頁</ref>。
*女性を[[性犯罪]]から守る女性保護政策として、女性の夜間外出は暗く危険で[[性犯罪]]被害の危険があり、女性保護のため[[名古屋城]]や[[犬山城]]の[[城下町]]や[[名古屋]]及び[[津島]]の町中に[[行灯]]や[[提灯]]を設置して尾張藩士の[[武士]]による[[防犯]][[パトロール]]を強化して派手で明るい街にした。
*死刑禁止の仏教愛思想で人間の命の大切さを主張してどんな人間も生命に値打ちがあり、この世でいるだけの価値がある。人間は全員がこの世で生きる価値がある仏教愛思想の持主であった。徳川宗春の名言で以下の言葉があり、慈悲慈愛の心を養うことこそが名古屋の殿様である尾張藩主の生き方や商人や大工職人の第一の学問であると記述された宗春の[[名言]]があるとされる。他人の生命を大切にする[[仏教哲学]]を重視する[[倫理学]]思考の持ち主であった。人間味がある仏教愛殿様であった。名古屋の街を派手な風俗女性文化で活気づけて、名古屋尾張[[藩士]]に[[芝居]][[見物]]を許して[[庶民]]の人気度は抜群であった<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男127頁</ref>。
*徳川宗春が唱えた名古屋藩の徳川宗春哲学の経済法律思想は以下である。宗春は大きな愛情と寛容の心を持つ名古屋藩主となり慈忍の心を大切にした。慈忍の心は人の心や経済を明るくする[[派手]][[風俗]][[文化]][[思想]]である<ref name="funabashi53">徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男53頁</ref>。慈の心は人には弱い心はある<ref name="funabashi54">徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男54頁</ref>。人間の弱点は真面目で規則正しく生活をする事が困難である事だとした。人間の真面目で規則正しく生活しない弱い心を大きな愛で見守る仏教愛思想の名古屋藩主だった。[[死刑廃止]]の仏教愛政策で見守る慈愛と慈悲の[[仏教]]思想である。仏教愛の慈悲慈愛の心を大切にした。名古屋藩主が慈悲の心で見守る思想が慈忍の慈の心がある。もう1つの慈忍の心は節度をとりもどすため温かい仏教愛で見守る忍の心である。
===名古屋東照宮祭りのからくり人形山車のロボット技術と大工産業の育成===
*仏教愛思想で[[大工]][[産業]]を[[保護]]して[[祭り]]によって人々を元気にさせた。[[名古屋東照宮祭り]]は7000人の行列で[[江戸]]や[[京都]]の祭りより盛大で[[七間町 (名古屋市)|七間町]]の能人形や宗春の時代は新しいからくり人形山車の改修で七間町の橋弁慶車や和泉町の雷電車や[[上長者町]]の二福神車や宮町の唐子車などの木製ロボット技術を活用した盛大な祭りであった。人形がお茶を持って歩行するお茶運び人形でお茶を取る人形技術で飲んだ後に茶碗を返却すると、Uターンして戻るからくり人形を開発したからくり人形師を育成して、[[令和]]初期でも[[お茶]]を運ぶからくり人形の創作及び修理復元をしている。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男48頁</ref>。世界初の[[ロボット]]技術である[[からくり]][[人形]][[技術]]を[[開発]]した初代庄兵衛が京都から名古屋へ移り住んだ。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男118頁</ref>。
*[[津島]][[天王祭]]行事の[[尾張津島天王祭]]を[[名古屋]]でも天王祭りを実施する事として名古屋[[堀川]]で巻藁船を浮かべて名古屋天王祭りを実施した<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男51頁</ref>。名古屋天王祭りに盆踊りの褒美を出して祭りを盛大に実施した。東照宮祭りの山車を新調して町人身分による[[提灯]]や[[ろうそく]]の大量生産を推進して、名古屋の[[町人]][[身分]]の[[和服|着物]]や[[うちわ]]の需要を増加させて大工職人や[[花火]][[職人]]の町人祭事産業を育成した<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男52頁</ref>。からくり山車技術の技術向上や仮装派手行列や盆踊り祭りの豪華褒美で楽しみを増加させる[[快楽]]産業政策で大工産業従事者や[[商人]]の楽しみを増やして[[勤労意欲]]を向上させた。徳川宗春の[[経済政策]]は民が元気なり民間活力を作る庶民元気政策でお金の流通量を急増させた。お金の流通量を急増させて田畑も元気になり生きたお金の[[流通業]]を盛んにする商人重視政策を実施した。大工産業育成の[[経済効果]]をもたらした<ref name="funabashi53">徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男53頁</ref>。[[罪人]]を[[梁川町|梁川]][[東照宮]]建設工事で生活職業保護をしていた。

===好物と性格===
*NPO法人宗春ロマン隊の[[特定非営利活動法人]]が作成した日本の偉人関係の本である『徳川宗春伝』では『名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君』と紹介されている。宗春は名古屋好きで家来思いで町人農民など尾張藩の庶民思いの素晴らしい殿様だったとNPO法人宗春ロマン隊が作成したの本である『徳川宗春伝』で紹介されている。
*3メートルの煙管を家臣に背負わせてあるいたり、真っ白な牛の世にのってゆるゆる城内を散歩したり自己顕示欲が強い人だった。<ref><『改革の日本史』[[河合敦]]104頁</ref>
*少年時代は、猫が草を食べる様子を観察するなどしていた<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男11頁</ref>。また、藩主の子供でありながら[[農民]]や[[町人]]と仲が良く、庶民の喜怒哀楽が理解できる少年だった<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男12頁</ref>。
*梁川藩主時代に梁川藩の[[村役人]]で[[伊達家]]の家臣の家系から宗春家臣となった村役人家系の[[堀江与五右衛門]]から塩鮭を献上された。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男27頁</ref>[[塩鮭]]が好物であった。塩鮭を食べながらタバコを吸う習慣があり、[[徳川家康]][[東照大権現]]様のご加護として、が口癖であった。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男31頁</ref>
*梁川藩主時代に[[東北地方]]の農民支援策で百姓に道春は[[種もみ]]を与えて稲は順調に育ち[[豊作]]になり餓死者が1人も出さない百姓に優しい農民仏教愛の殿様であった。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男30頁</ref>松平道春は[[部屋住み]]の頃からどうしたら民が楽しく生きる世の中になるか思考していた。梁川藩主時代に[[家臣]]や民から感謝の品物が沢山届く殿様であった。罪人でも働きたいものはどんどん働かせる道春の功績は今でも[[つつこ引き祭り]]として受け継がれている。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男33頁</ref>
*宗春は家臣を楽しませるため家臣の[[娯楽]]目的で家臣を江戸の[[遊郭]]に連れて行き、自分は別の間で尾張藩主となるための[[温知政要]]著書の政策立案の執筆作業と立派な仮装豪華な[[兜]]購入の準備をしていた。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男38頁</ref>お供の尾張名古屋藩の[[武士]]と[[名古屋城]]入場の際に[[べっ甲]]の[[帽子]]で歌舞伎役者風の派手衣装を着て町人に対して身分など気にせず煙管タバコを目の前で一緒に吸おうと親睦を深めて名古屋城に入城した。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男45頁</ref>
*母の梅津の長生きを願う[[親孝行]]で優しい仏教愛殿様だったとされる。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男53頁</ref>教養の高い母の梅津から藩主の兄と同じ立派な武士になるように[[ちはやふる]]の [[百人一首]]など高い[[教養]]を学んだ。学問は学ぶだけでは役に立たない教わり学び経験して繰り返す事だと藩の塾で学び[[薬草]]研究や農民百姓から米の作り方を教えてもらう少年だった。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男10頁</ref>
*德川吉宗の倹約令は財政の立て直し成功や将軍就任後の[[目安箱]]や町火消しなどを評価していたが倹約は上級身分の武士がするべきである。庶民町人の消費を否定する民の元気を否定する財政出動否定の町人消費抑制策に対して宗春は反対だった。<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男20頁</ref>。派手好きの宗春の性格は[[徳川吉宗]]の[[倹約令]]を否定し、尾張藩の派手な消費文化を推進した。莫大な財政出費により消費活性化を促す[[積極財政政策]]により、尾張藩は[[財政赤字]]になった。しかし、尾張名古屋では毎日花火が打ち上げられ、仕事や祭りの派手な文化で消費が活性化され、江戸・京都・大坂と並ぶ商業経済の大都市として成長した<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男57頁</ref>。
*人生を楽しみながら生きる、快楽仏教徒であった。派手好きな性格で[[歌舞伎役者]]、[[盆踊り]]の祭り文化、[[吉原遊廓|吉原]]などの風俗女性文化が好きであった。煙管文化も好きで、[[タバコ]]を町人や農民と共に吸っていた<ref>徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男118頁</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
153行目: 179行目:
** 6月11日(7月6日) - [[陸奥国|陸奥]][[梁川藩]]3万石の藩主となる。
** 6月11日(7月6日) - [[陸奥国|陸奥]][[梁川藩]]3万石の藩主となる。
** 12月16日([[1730年]]2月3日) - [[侍従]]兼任。
** 12月16日([[1730年]]2月3日) - [[侍従]]兼任。
* 享保15年11月28日([[1731年]]1月6日) - [[尾張藩]]主となる。[[徳川氏|徳川]]の苗字を称する。
* 享保15年11月28日([[1731年]]1月6日) - [[尾張藩|名古屋藩]]主となる。[[徳川氏|徳川]]の苗字を称する。
* 享保16年([[1731年]])
* 享保16年([[1731年]])
** 1月19日(2月25日) - [[近衛府|左近衛権少将]]に転任。将軍[[徳川吉宗]]の[[偏諱]]を授かり、通春から宗春へ改名する。同日、さらに[[従三位]]に昇叙し、[[近衛府|左近衛権中将]]に転任。
** 1月19日(2月25日) - [[近衛府|左近衛権少将]]に転任。将軍[[徳川吉宗]]の[[偏諱]]を授かり、通春から宗春へ改名する。同日、さらに[[従三位]]に昇叙し、[[近衛府|左近衛権中将]]に転任。
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* [[元文]]4年1月12日([[1739年]]2月19日) - 幕府より[[蟄居]]を命ぜられる。
* [[元文]]4年1月12日([[1739年]]2月19日) - 幕府より[[蟄居]]を命ぜられる。
* [[明和]]元年10月8日([[1764年]]11月1日) - 薨去。戒名:章善院殿厚譽孚式源逞大居士、墓所:[[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]筒井の[[建中寺|徳興山建中寺]]<ref group="注釈">現在は名古屋市平和公園に移転。</ref>。
* [[明和]]元年10月8日([[1764年]]11月1日) - 薨去。戒名:章善院殿厚譽孚式源逞大居士、墓所:[[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]筒井の[[建中寺|徳興山建中寺]]<ref group="注釈">現在は名古屋市平和公園に移転。</ref>。
* [[文政]]4年([[1821年]]) - 孚式[[山王権現]]と称され、[[尾張藩]]十代藩主[[徳川斉朝]]により、名古屋御下屋敷内に神として祀られる。これ以降、宗春は[[権現]]として毎年法要がおこなわれた。
* [[文政]]4年([[1821年]]) - 孚式[[山王権現]]と称され、[[尾張藩|名古屋藩]]十代藩主[[徳川斉朝]]により、名古屋御下屋敷内に神として祀られる。これ以降、宗春は[[権現]]として毎年法要がおこなわれた。
* [[天保]]10年11月5日([[1839年]]12月10日) - [[贈位|贈]][[従二位]][[大納言|権大納言]]{{refnest|group="注釈"|江戸時代において、死後75年を経ての贈位贈官の例はほとんどなく、宗春に対する幕府の措置は異例中の異例であった。なお、贈従一位の声も挙がったものの、[[林檉宇|林大学頭皝(檉宇)]]の答申では不相当とあり、結果として従二位の贈位となった<ref>小野将「近世後期の林家と朝幕関係」史学雑誌第102編第6号(1993年6月)</ref>。ちなみに[[林檉宇|林大学頭皝(檉宇)]]は、[[松平乗邑]]の孫の[[林述斎]]の三男。}}。
* [[天保]]10年11月5日([[1839年]]12月10日) - [[贈位|贈]][[従二位]][[大納言|権大納言]]{{refnest|group="注釈"|江戸時代において、死後75年を経ての贈位贈官の例はほとんどなく、宗春に対する幕府の措置は異例中の異例であった。なお、贈従一位の声も挙がったものの、[[林檉宇|林大学頭皝(檉宇)]]の答申では不相当とあり、結果として従二位の贈位となった<ref>小野将「近世後期の林家と朝幕関係」(『史学雑誌第102編第6号、1993年6月)</ref>。ちなみに[[林檉宇|林大学頭皝(檉宇)]]は、[[松平乗邑]]の孫の[[林述斎]]の三男。}}。


※参考資料:児玉幸多監修・新田完三編内閣文庫蔵 諸侯年表東京堂出版 1984年発行
※参考資料:児玉幸多監修・新田完三編内閣文庫蔵 諸侯年表』(東京堂出版1984年発行


== 家族 ==
== 家族 ==
<ref>名古屋叢書三編『尾張徳川家譜』による</ref>
<ref>名古屋叢書三編『尾張徳川家譜』による</ref>
* 父:[[徳川綱誠]](尾張藩第3代藩主)
* 父:[[徳川綱誠]](名古屋藩第3代藩主)
* 母:[[宣揚院]]・梅津(? - 寛保3年(1743年)9月2日) - [[三浦嘉重|三浦太治兵衛嘉重]]の娘。葬建中寺
* 母:[[宣揚院]]・梅津(延宝元年(1673年)7月29日<ref>安藤香織「[https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinkososho/items/kinko_sosho48.pdf 「建中寺墓地改装日誌」について]」(『金鯱叢書』第48輯、徳川美術館、p.69)</ref> - 寛保3年(1743年)9月2日) - [[三浦嘉重|三浦太治兵衛嘉重]]の娘。葬建中寺


* 正室なし
* 正室なし
* 側室:海津(栄昌院)
* 側室:海津(栄昌院)
174行目: 202行目:
** 三女:八千(曄徳院)(享保11年(1726年)12月8日 - 享保16年(1731年)5月17日) - 葬天徳院
** 三女:八千(曄徳院)(享保11年(1726年)12月8日 - 享保16年(1731年)5月17日) - 葬天徳院
** 長男:[[徳川国丸|国丸]](慧運院、萬五郎)(享保14年(1729年)12月17日 - 享保20年(1735年)9月9日) - 葬傅通院
** 長男:[[徳川国丸|国丸]](慧運院、萬五郎)(享保14年(1729年)12月17日 - 享保20年(1735年)9月9日) - 葬傅通院
* 側室:民部(光院)
* 側室:民部(光院)
** 次女:補誦(凛霜院、三保)(享保11年(1726年)1月4日 - 享保20年(1735年)10月8日) - 葬傅通院
** 次女:補誦(凛霜院、三保)(享保11年(1726年)1月4日 - 享保20年(1735年)10月8日) - 葬傅通院
** 五女:八百(秋蔵院)(享保15年(1730年)1月13日 - 享保16年(1731年)7月12日) - 葬天徳院
** 五女:八百(秋蔵院)(享保15年(1730年)1月13日 - 享保16年(1731年)7月12日) - 葬天徳院
** 次男:龍治代・[[徳川龍千代|龍千代]](圓徳院)(元文2年(1737年)11月12日 - 元文2年(1737年)12月24日) - 葬傅通院
** 次男:龍治代・[[徳川龍千代|龍千代]](圓徳院)(元文2年(1737年)11月12日 - 元文2年(1737年)12月24日) - 葬傅通院
* 側室:伊予
* 側室:伊予(銀昌院)
** 四女:頼(霊樹院、於須亭・傅・勝子)(享保13年(1728年)1月20日 - 宝暦10年(1760年)10月10日)葬[[大徳寺]]<ref>{{Cite web |title=(尾州)徳川家系図 |url=https://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=&start=2789&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc,+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%B7%A8%E7%BA%82%E8%B3%87%E6%96%99%E3%80%90%E5%92%8C%E8%A3%85%E6%9C%AC%E3%80%91&tilcod=0000000005-00001247&mode=result&category= |website=なごやコレクション、83コマ目 |access-date=2024-01-01}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00000184 |title=真野氏手扣 |access-date=2023-12-07 |publisher=なごやコレクション、24コマ目}}</ref>(近衛家菩提寺。)
** 四女:頼(霊樹院、於須亭・傅・勝子)(享保13年(1728年)1月20日 - 宝暦10年(1760年)10月10日)
*** 唯一成人した子女。宗春が謹慎した後に[[九条稙基]](4代藩主吉通の外孫)と婚約、名古屋の祖母・宣揚院の元でしばらく生活をする。稙基が急逝したため、後の[[関白]][[近衛内前]]の後妻となり、従三位徳川勝子と名乗る。
*** 唯一成人した子女。宗春が謹慎した後に[[九条稙基]](4代藩主吉通の外孫)と婚約、名古屋の祖母・宣揚院の元でしばらく生活をする。稙基が急逝したため、後の[[関白]][[近衛内前]]の後妻となり、従三位徳川勝子と名乗る。
** 六女:以津(性如院)(享保15年(1730年)8月21日 - 享保16年(1731年)9月4日) - 葬太宗寺
** 六女:以津(性如院)(享保15年(1730年)8月21日 - 享保16年(1731年)9月4日) - 葬太宗寺
* 側室:和泉(宝泉院、華子・阿薫)猪飼氏。[[阿薫|阿薫の方]]と呼ばれる。葬[[七寺]]<ref>{{Cite web |title=名古屋寺院誌 |url=https://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?qf=&q=%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%AF%BA%E9%99%A2&start=1&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc,+METADATA_ID+asc&dispStyle=&fifq=&tilcod=0000000005-00000372&mode=result&category= |website=なごやコレクション、600コマ目 |access-date=2023-12-23}}</ref>
* 側室:おはる(貞幹院、春日野)葬建中寺<ref>{{Cite web |title=萩園遺稿 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/871913/1/321 |website= |access-date=2023-12-23}}</ref>
* 側室:左近
* 側室:相模


* 養子女
* 養子女
** 養女:近(蓮胎院)(正徳3年(1713年)8月7日 - 寛延4年(1751年)5月5日) - 実父は梁川藩2代藩主[[松平義方]]。元文元年(1736年)7月19日、[[上杉宗房]]に嫁ぐ。葬傅通院
** 養女:近(蓮胎院)(正徳3年(1713年)8月7日 - 寛延4年(1751年)5月5日) - 実父は梁川藩2代藩主[[松平義方]]。元文元年(1736年)7月19日、[[上杉宗房]]に嫁ぐ。葬傅通院



* 異母兄:[[徳川吉通]](尾張藩第4代藩主)
* 異母兄:[[徳川継友]](尾張藩第6代藩主)
* 異母兄:[[徳川吉通]](名古屋藩第4代藩主)
* 異母兄:[[松平義孝]](尾張御連枝高須藩(四谷松平)2代藩主)
* 異母兄:[[徳川継友]](名古屋藩第6代藩主)
* 異母兄:[[松平義孝]](名古屋御連枝高須藩(四谷松平)2代藩主)
* 異母兄:[[松平通温]]
* 異母兄:[[松平通温]]
* 異母妹:[[松光現院|松]](光現院・磯) - 加賀藩主[[前田吉徳]](吉治)正室・5代将軍[[徳川綱吉]]養女
* 異母妹:[[松光現院|松]](光現院・磯) - 加賀藩主[[前田吉徳]](吉治)正室・5代将軍[[徳川綱吉]]養女
200行目: 235行目:
* 『尾藩世記』
* 『尾藩世記』
* 『金府紀較抄』
* 『金府紀較抄』
* 『尾張藩御日記頭書』
* 『御日記頭書』
* 『尾州家条々』
* 『尾州家条々』
* 『金鱗九十九之塵』
* 『金鱗九十九之塵』
208行目: 243行目:
* 『夢之跡』
* 『夢之跡』
* 『徳川宗春年譜』
* 『徳川宗春年譜』
* 『[[温知政要]]』 - 宗春の政治思想が記された宗春の主著。享保17年、[[京都町奉行]]により京都での一般への出版発行は禁止された。宗春隠居謹慎後、尾張藩内でも回収されて処分されている。
* 『[[温知政要]]』 - 宗春の政治思想が記された宗春の主著。享保17年、[[京都町奉行]]により京都での一般への出版発行は禁止された。宗春隠居謹慎後、名古屋藩内でも回収されて処分されている。
*『続談海』
*『続談海』
*『月堂見聞集』
*『月堂見聞集』
218行目: 253行目:
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==
228行目: 263行目:
* [[海音寺潮五郎]]『吉宗と宗春』[[文藝春秋]] ISBN 4167135329
* [[海音寺潮五郎]]『吉宗と宗春』[[文藝春秋]] ISBN 4167135329
* 矢頭純『徳川宗春』海越出版社 ISBN 4876971838
* 矢頭純『徳川宗春』海越出版社 ISBN 4876971838
* [[高橋和島]] 『尾張葵風姿伝‐徳川宗春』[[テレビ愛知]] ISBN 978-4876972197
* 『尾張名古屋異聞』
* 『尾張名古屋異聞』
* 千田龍彦『尾張なごや傑物伝』 風媒社 ISBN 978-4-8331-0554-5
* 千田龍彦『尾張なごや傑物伝』 風媒社 ISBN 978-4-8331-0554-5
249行目: 285行目:
* [[夏原遼]](大岡越前2時間スペシャル 2006年、TBS) ※前名の通春を名乗っている。
* [[夏原遼]](大岡越前2時間スペシャル 2006年、TBS) ※前名の通春を名乗っている。
* [[山田純大]]([[徳川風雲録 八代将軍吉宗]] 2008年、テレビ東京)
* [[山田純大]]([[徳川風雲録 八代将軍吉宗]] 2008年、テレビ東京)
* [[渡辺大]]([[大岡越前 (2013年のテレビドラマ)|大岡越前]] 2014年、2024年、NHK[[BS時代劇]])
* [[須賀健太]]([[金の殿 〜バック・トゥ・ザ・NAGOYA〜]] 2017年、[[CBCテレビ]])※この作品では徳川宗春が現代の名古屋市にタイムスリップする架空設定の歴史ラブコメディドラマとなっている。
* [[須賀健太]]([[金の殿 〜バック・トゥ・ザ・NAGOYA〜]] 2017年、[[CBCテレビ]])※この作品では徳川宗春が現代の名古屋市にタイムスリップする架空設定の歴史ラブコメディドラマとなっている。


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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Wikisource author|wslanguage=ja||title=徳川宗春}}
* [[むねハルくん]] - [[NHK名古屋放送局]]の[[地上デジタル放送]]マスコットキャラクター。
* [[むねハルくん]] - [[NHK名古屋放送局]]の[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]マスコットキャラクター。
* [[宗春かるた]] - 愛知・名古屋の日本一を編んだ名古屋弁かるた。
* [[宗春かるた]] - 愛知・名古屋の日本一を編んだ名古屋弁かるた。
* [[河村たかし]] - 現:名古屋市長。宗春に仕えていた[[河村秀根]]の兄の子孫にあたり、名古屋市で開催の[[世界コスプレサミット]]では[[2010年]]([[平成]]22年)から[[2012年]](平成24年)、宗春に扮して開催の挨拶を行なっている。
* [[河村たかし]] - 現:名古屋市長。宗春に仕えていた[[河村秀根]]の兄の子孫にあたり、名古屋市で開催の[[世界コスプレサミット]]では[[2010年]]([[平成]]22年)から[[2012年]](平成24年)、宗春に扮して開催の挨拶を行なっている。


== 外部リンク ==
{{尾張徳川家|大久保松平家第4代当主(1729年 - 1730年)/[[尾張徳川家]]||第7代}}
* {{Kotobank}}

{{尾張徳川家|大松平家第4代当主(1729年 - 1730年)/[[尾張徳川家]]||第7代}}
{{梁川藩主|松平家|4代|1729年 - 1730年}}
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[[Category:徳川宗春|*]]
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[[Category:徳川綱誠の子女]]
[[Category:徳川綱誠の子女]]
[[Category:日本の死刑廃止論者]]
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[[Category:1696年生]]
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[[Category:1764年没]]
[[Category:1764年没]]

2024年9月14日 (土) 08:16時点における最新版

 
徳川宗春
徳川宗春(中央)を描いたとされる絵
時代 江戸時代中期
生誕 元禄9年10月28日1696年11月22日[1]
死没 明和元年10月8日1764年11月1日[1]
改名 萬五郎、松平通春、徳川通春、徳川宗春
別名 求馬(通称
諡号 逞公
神号 孚式山王権現(日吉山王権現)
戒名 章善院殿厚譽孚式源逞大居士
墓所 徳興山建中寺平和公園
官位 従五位下主計頭従四位下侍従
左近衛権少将従三位左近衛権中将
参議権中納言、贈従二位権大納言
幕府 江戸幕府
主君 中御門天皇桜町天皇徳川吉宗
陸奥国梁川藩主→尾張国名古屋藩
氏族 尾張徳川家→大窪松平家→尾張徳川家
父母 父:徳川綱誠、母:梅津(宣揚院
養父:徳川継友
兄弟 吉通継友松平義孝松平通温宗春松姫前田吉徳室・徳川綱吉養女)
正室:なし
側室:海津、民部、伊予、左近、おはる、阿薫
富・補誦・八千・頼姫(勝子・傅・須亭:近衛内前室)・國丸(萬五郎)・八百・以津・龍千代・近姫(養女:上杉宗房室:実父は梁川藩第2代松平義方
特記
事項
著述「温知政要」次当主、徳川宗勝
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徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名梁川藩第4代当主(当時は通春。御連枝である大窪(大久保)[注釈 1]松平家当主)、のち名古屋藩第7代藩主(尾張徳川家第7代当主)。

名古屋藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比される[注釈 2]が、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、名古屋藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。

歴代藩主と同様、名古屋藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前のは兄・徳川吉通の「通」の字を得て通春

生涯

[編集]

出典:[3]

出生

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元禄9年10月28日1696年11月22日)、名古屋藩第3代藩主・徳川綱誠の二十男[注釈 3]として名古屋で生まれ、萬五郎と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院、遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重[注釈 4]の長女)。元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父の綱誠、元禄13年(1700年)に祖父の徳川光友が相次いで没した。

宝永5年(1708年11月、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を受け、通春とする。吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど、末弟の宗春を可愛がった[4]正徳2年(1712年)、兄・通顕(のちの徳川継友)通温江戸に下向し従四位下に叙任され、譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。

宝永6年(1709年3月久留米藩主・有馬則維から、名古屋藩御連枝筆頭の高須藩主・松平義行宛に、万五郎を仮養子に迎え、そののち正式な養子にしたいという申し出があった。しかしこの話はたち消えている[注釈 5]

正徳3年(1713年4月に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。閏5月、江戸に下向した際に同道した名古屋藩士2人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。同月に名古屋藩御連枝の梁川藩主・松平義昌が逝去し、7月には兄・吉通が薨去する。さらに10月には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主・五郎太が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。12月元服し、求馬通春と名乗る(通称を「求馬」に改めた)[注釈 6]。正徳6年(1716年2月に7代将軍・徳川家継御目見し、3月に譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。同年改元後、享保元年(1716年)7月に8代将軍・徳川吉宗当時の幕府の奏請により従五位下主計頭に叙任される。

享保3年(1718年)4月、疱瘡に罹るが、まもなく回復する。同月、兄・通温が名古屋城下に蟄居謹慎となる。12月、従四位下に叙任する。吉宗から特別に鷹狩の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として吉宗に大切にされる。享保13年(1728年)、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。

梁川藩主

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享保14年(1729年6月、尾張藩連枝で梁川藩第三代藩主の松平義真が没し、梁川藩大窪松平家が無嗣断絶となった。8月に将軍吉宗の肝煎りで梁川藩3万石を改めて与えられ、大窪松平家は再興された。上杉氏統治時代の梁川城は既に破却され梁川陣屋となっていたが、12月に従四位下侍従に任官され、国主扱いの大広間詰めとなった。

梁川藩は初代の松平義昌が高年貢を課し新たに課役を設けるなどした。さらに二代の松平義方は父の代以上に年貢率を引き上げ、新税を設置して重税を強いるなど、領民からの収奪を強化していた[6]。通春は藩主に就任したものの梁川に赴くことは無かった。享保年間は天候が悪く不作が続いたため、困窮し不満の高まった農民は一揆を起こし、代官所に訴え出た。通春は江戸に居たが、代官が一揆を鎮圧したあとで、領民の要望を受け入れて備蓄の種籾を放出した。これにより来る享保の大飢饉では、梁川藩領内では餓死者が出なかったとされる。


名古屋藩主

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享保15年(1730年)9月、日光社参。11月27日に兄・継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張家を相続し、第7代当主徳川通春となる[注釈 7]。享保16年(1731年)正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・本寿院の蟄居を解く令を出す。同月に正四位下左近衛権少将に叙任する。続けて従三位左近衛権中将に叙任する。将軍・吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春を名乗る。3月、従三位参議(宰相)・左近衛権中将に叙任する。同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。同年4月、名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。

宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の御簾中・瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている[注釈 8]。藩士に城下の芝居などの見物も許可した。

当時の幕府は享保の改革を推進する将軍・吉宗のもと、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の名古屋藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。

享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布した。3月には『條々二十一箇條』を発布した。その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。

この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、名古屋藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた[注釈 9]。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視[注釈 10]では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃歌舞伎の題材となった。

享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下る。先代継友時代、享保10年(1725年)に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日徳川家康から藩祖・徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男・萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。通説ではその後、5月または9月に吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、

  • 国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
  • 嫡子の初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
  • 倹約令を守っていない

というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、

  • 他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。第一、領民に迷惑をかけていない
  • 初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
  • お上は倹約令を守っていないと言うが、私なりに倹約に努めているつもりだ。ただお上は倹約の根本をご存じないので、おわかりにならないのだろう

と一歩も引かず反論した、と通説では言われる[注釈 11]

宗春は、規制緩和による経済の活性化を図るものの、名古屋藩の財政は赤字に転じたと通説では言われる[注釈 12]。享保18年(1733年)12月、宗春は尾張瀬戸水野山から木曽の山々に至るまでの2万人規模の巻き狩りを計画するが、家臣の反対で中止する。家臣は規模を縮小するように宗春に薦めたが、宗春は頑なに2万人規模を主張し、結果的には巻狩を断念する[注釈 13]。享保20年(1735年)3月、江戸在番の藩士に遊興博打を禁じる令を出す[注釈 14]。9月、宗春が名古屋にいるときに嫡男の国丸(萬五郎)が江戸藩邸で逝去する。この年、吉宗より拝領した朝鮮人参の栽培を御下屋敷で始める。 元文元年(享保21年・1736年)、3ヶ所の遊里を、もっとも高級な西小路遊郭の1ヶ所に集め、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し、規制緩和政策を後退させる[注釈 15]

隠居謹慎

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享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が激しく対立していた。近衛家熙が薨去した後は、桜町天皇側近で霊元法皇の強い影響下にあった一条兼香を中心に朝廷は動き始めていた。

幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有職故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。名古屋藩は代々朝廷と深いつながり(五摂家の九条家[注釈 16]・近衛家[注釈 17]清華家広幡家[注釈 18]羽林家正親町家[注釈 19]と縁戚)を持っていた。

当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして名古屋藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、名古屋藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と名古屋藩は徐々に政略的に板挟みとなる。

そのような状況で、実弟の石河政朝が幕府中枢にいた御附家老・竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが[7]、実際は吉宗本人ではなく、老中・松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老・成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年6月9日1738年7月25日)、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために名古屋藩領は混乱を起こしてしまう。

この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという[注釈 20]。元文4年(1739年正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう[注釈 21]

そして正月11日1739年2月18日)、名古屋藩の家老たちが江戸城に呼び出され、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌12日に吉宗からの隠居謹慎命令が広島藩主・浅野吉長(宗春の従兄)、水戸藩御連枝守山藩主・松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主・松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる[注釈 22]

膨大な財政赤字

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6代継友の時期である享保3年(1718年)の収支は、金部門では収入11万9041両、支出10万5662両で差引1万3379両の剰余、米部門では収入13万970石、支出11万3741石で差引7229石の剰余があり、これを同年の米価1石=金2両で換算すると、総差引2万7837両の黒字となっていた。米部門の収入項日は年貢米越小物成・三升口米などの付加税で、支出項目は江戸下米や家中扶持米など。また、金部門の主要な収入項目は年貢金・三役銀(夫銀、堤.役銀、伝馬銀)などで、支出項目は江戸費用や諸役所経費・尾張家一族の入用・家臣団の扶持などであった。享保13年(1728年)も総差引2万8167両の黒字を計上していた。

だが、宗春が藩主を継いだ享保16年(1731年)は総差引2万7064両の赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738年)には、金7万4607両・米3万6489石余という巨額の累積赤字を出し総差引14万7585両の赤字となった。赤字補填のために領民に多額の借上金を命じて庶民の暮らしを圧迫することになった。

これを継いだ8代藩主・徳川宗勝は倹約を続けた結果、延享4年(1747年)までに、金部門では2万8288両が不足するものの、米部門は11万4779石の剰余となり、総差引では1万3612両の黒字に転じることに成功した[10]

隠居謹慎後の宗春

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宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われているが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていない。名古屋藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残っており、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できない。後に菩提寺である建中寺へ参拝し、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録も残っている。

御連枝美濃高須藩主の松平義淳が徳川宗勝として後継となったが[注釈 23]、宗春の養子という形式ではなく、名古屋藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。

宗春の蟄居謹慎は6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷であり、時には藩主・宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍・吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある[11]

平和公園内の墓(愛知県名古屋市千種区)

宝暦元年(1751年)、吉宗が薨去する。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある名古屋藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、名古屋藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ宝泉院:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、名古屋藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。

明和元年10月8日1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶した。

宗春が隠居してからの幕府と名古屋

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宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債を返済すべく、6代藩主・継友の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている[注釈 24]

宗春が隠居して15年が経った頃、城下の商人であった小刀屋藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦を願い出たがこの行動は罪に問われ、篠島に島流しとなった。その後も、歴代の名古屋藩家老成瀬家(犬山城主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。

延享2年(1745年)、吉宗は隠居して大御所となり、嫡男の徳川家重が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免された[注釈 25]。家重は御側御用人として大岡忠光田沼意次を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった[注釈 26]

宝暦10年(1760年)、10代将軍・徳川家治が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった。名古屋藩では、9代将軍・家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主・宗勝が薨去する。そして、9代藩主・徳川宗睦が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、名古屋藩中興の祖とまで呼ばれるようになる[注釈 27]

隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる[注釈 28]

10代藩主の徳川斉朝一橋徳川家から養子に入るが、斉朝の母方は二条家出身であり、九条家を通して4代藩主・吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る山王社を御下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康、徳川義直であった。明治維新に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年の天保10年(1839年)、11代将軍・徳川家斉の十二男である斉荘が12代藩主に就任する際、宗春の名誉が回復されて従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる[注釈 29]。14代藩主・徳川慶恕(慶勝)は、御下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市東区浄土宗無量寿院)を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った[注釈 30]

墓石と遺骸・墓石修復など

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宗春の死後、遺体は建中寺に埋葬された。土葬だったため、明治期の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかり、経帷子や守り刀の木刀も残っていた。

昭和20年(1945年)に名古屋市空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて墓石の一部が損傷した。名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石[注釈 31]が用いられており、しばらく損傷した状態であった。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が千種区平和公園に移転し、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された。なお、副葬品などは建中寺に納められている。

宗春の特異な政策

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  • 宗春の政策でからくり人形を操作するロボット操作技術の徳川家康神社祭りが盛大に実施されて、名古屋の花火打ち上げ祭りの祭り行事が盛んな祭り文化社会になった。陶芸産業や毛織物産業など地場産業が保護されて日本国内他国への販売先が増加した。[13]
  • 宗春は遊芸や音曲鳴り物を奨励した。江戸吉原規模となる西小路及び富士見ヶ原と葛町の名古屋三大遊郭が誕生した。大須観音本堂歌舞伎狂言大芝居の楽屋や井戸を設置した大舞台であった。芝居の数が享保15年の2本から享保16年の30本で享保18年に100本に増加した。江戸芝居上方芝居などの各地の文化流入で人形浄瑠璃が発展して、名古屋に芝居小屋が建設されて、7つの寺院に芝居小屋が新設された。陶器産業及び木綿の周辺地域への市場の拡大化と重商主義政策で農産物高品質となった。尾張藩内の農産物の生産種類が倍増した。大都市名古屋が誕生して5万人から7万人以上増加する12万人以上の大都市へ名古屋の人口が増加した。[14]
  • 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 祭事産業政策で東照宮祭の新しい山車や新しいからくり人形が製造されて山車製造産業とからくり人形製造産業を盛んにした。名古屋東照宮祭りなど意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
  • 男女倫理に反する祭りや人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
  • 男女が奪い合うことや義に反する義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
  • 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
  • 余計な法律を削除して必要な法律のみとした。必要な仏教行為か義の心で吟味して、法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
  • 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
  • 風俗文化政策として歌舞伎役者風の派手な衣装行列で民間風俗文化を明るくした。徳川宗春は赤色の着物に亀甲笠を帽子として使用して白い牛を移動に使用した。名古屋に存在しなかった風俗施設の遊郭を3か所作った。ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
  • 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)
  • 庶民と上級藩士が出会う場を提供した(例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等)
  • 商人との対話を積極的にした(例:岐阜巡行・乾御殿や御下屋敷滞在時)
  • 六斎市の奨励(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
  • 庶民が喜ぶことをした(例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装)
  • 社会的な弱者を大切にした。宗春の尾張藩主だった時代の死刑廃止政策や厳しい処罰警察組織を否定する仏教愛思想で領民から釈迦如来生まれ変わりと呼ばれていた。派手な仏教愛殿様として人気があった。(例:女性・子ども・身分の低い者の保護)
  • 愛知県民への遺産として、町人によるロボット技術からくり人形山車保有数日本一の愛知県にした。[15]尾張藩内の毛織物従事者を増加させて名古屋の人口を5万人から2倍以上にして、町人の人口を3倍から4倍以上に人口を急増させた。[16]江戸京都大阪と並ぶ日本三大都市地域である名古屋の都市建設を推進して近代名古屋の基礎を築き上げた。
  • 遊び娯楽重視の政策として、祭り好きの心で名古屋に豪華な歌舞伎小屋施設の建設をして江戸や京都や大阪から歌舞伎役者の舞台誘致を推進した。[17]毎日花火を打ち上げる花火大会の実施や豪華な褒美がある盆踊り祭りを盛大に実施した。[18]
  • タバコ文化の記述では喫煙文化好きであった。好物の塩鮭を食べながら楽しく生きる娯楽重視思考のキセル文化人間であった。徳川宗春の喫煙行為関係のタバコ文化の記述では宗春は農民商人と一緒にタバコを吸っていた。長生きは得をする健康思考であった。健康食事と派手文化を推進した。[19]
  • 産業政策として、商人知恵を活用して諸国に尾張藩の毛織物や陶芸品を流通させて地場産業の宣伝活動をした。尾張一宮市の毛織物産業の育成や津島市東洋紡産業や弥富市の金魚祭り文化の基礎となる産業の産業育成政策と商人流通宣伝政策で地場産業を育成した。[20]常滑焼瀬戸焼七宝焼など焼き物文化を保護して陶芸産業を育成した。花火文化や金魚産業などの祭り文化を保護して神輿や参列者の仮装で盛り上がる名古屋祭りの実施で尾張徳川家への忠誠心を維持させて経済効果を狙っていた。毛織物など地場産業を育成した。尾張名古屋藩内で毛織物産業や陶芸産業を保護した。また宗春の政策で歌舞伎役者産業や大工産業が盛んになり、名古屋流通商人が尾張藩の派手な男女関係の女性風俗文化を宣伝した。
  • 医療技術政策では、高麗人参栽培尾張藩内で盛んにして医学技術を進歩させた。[21]
  • マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し、上級家臣に配布した。温知政要の尾張藩の家訓の思想は法律が多い国家で自由を奪う尾張藩を否定していた。民が元気になる産業政策を推進する寛容な法律支配者であった。

徳川宗春の仏教愛思想

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  • 罪人政策として、死刑執行をしなかった。慈悲慈愛で見守る忍の心の仏教精神を大切にしていた。宗春は多くの法律がある恐怖警察国家を否定して死刑禁止政策で罪人に職業を与えて再犯を防止した。尾張名古屋藩主時代は人の命は金で買えないという命の尊厳思想の仏教愛で死刑執行を実施せず社会的に役に立たない人間はいないと考えていた事から罪人に職業を与えた[22]
  • 人には好き嫌いがある。好みも違う。上級武士の倹約の好みを他人に好みを強制するなの思想であった。自ら出席して祭りや遊郭を楽しみ、有名な料理店や茶屋が名古屋に支店を出店するなど名古屋は繁栄した。食欲性欲が同じ風俗女性遊郭好きの仏教愛思想であった。[23]
  • 建中寺興正寺など名古屋の仏教寺院を保護して仏教を信じていた。大須観音や養念寺など名古屋地域の仏教寺院を保護した。からくり技術の名古屋人形ロボット技術の発明で江戸時代より続く名古屋老舗企業両口屋是清中北薬品など名古屋企業文化を育成した[24][25]
  • 女性を性犯罪から守る女性保護政策として、女性の夜間外出は暗く危険で性犯罪被害の危険があり、女性保護のため名古屋城犬山城城下町名古屋及び津島の町中に行灯提灯を設置して尾張藩士の武士による防犯パトロールを強化して派手で明るい街にした。
  • 死刑禁止の仏教愛思想で人間の命の大切さを主張してどんな人間も生命に値打ちがあり、この世でいるだけの価値がある。人間は全員がこの世で生きる価値がある仏教愛思想の持主であった。徳川宗春の名言で以下の言葉があり、慈悲慈愛の心を養うことこそが名古屋の殿様である尾張藩主の生き方や商人や大工職人の第一の学問であると記述された宗春の名言があるとされる。他人の生命を大切にする仏教哲学を重視する倫理学思考の持ち主であった。人間味がある仏教愛殿様であった。名古屋の街を派手な風俗女性文化で活気づけて、名古屋尾張藩士芝居見物を許して庶民の人気度は抜群であった[26]
  • 徳川宗春が唱えた名古屋藩の徳川宗春哲学の経済法律思想は以下である。宗春は大きな愛情と寛容の心を持つ名古屋藩主となり慈忍の心を大切にした。慈忍の心は人の心や経済を明るくする派手風俗文化思想である[27]。慈の心は人には弱い心はある[22]。人間の弱点は真面目で規則正しく生活をする事が困難である事だとした。人間の真面目で規則正しく生活しない弱い心を大きな愛で見守る仏教愛思想の名古屋藩主だった。死刑廃止の仏教愛政策で見守る慈愛と慈悲の仏教思想である。仏教愛の慈悲慈愛の心を大切にした。名古屋藩主が慈悲の心で見守る思想が慈忍の慈の心がある。もう1つの慈忍の心は節度をとりもどすため温かい仏教愛で見守る忍の心である。

名古屋東照宮祭りのからくり人形山車のロボット技術と大工産業の育成

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  • 仏教愛思想で大工産業保護して祭りによって人々を元気にさせた。名古屋東照宮祭りは7000人の行列で江戸京都の祭りより盛大で七間町の能人形や宗春の時代は新しいからくり人形山車の改修で七間町の橋弁慶車や和泉町の雷電車や上長者町の二福神車や宮町の唐子車などの木製ロボット技術を活用した盛大な祭りであった。人形がお茶を持って歩行するお茶運び人形でお茶を取る人形技術で飲んだ後に茶碗を返却すると、Uターンして戻るからくり人形を開発したからくり人形師を育成して、令和初期でもお茶を運ぶからくり人形の創作及び修理復元をしている。[28]。世界初のロボット技術であるからくり人形技術開発した初代庄兵衛が京都から名古屋へ移り住んだ。[29]
  • 津島天王祭行事の尾張津島天王祭名古屋でも天王祭りを実施する事として名古屋堀川で巻藁船を浮かべて名古屋天王祭りを実施した[30]。名古屋天王祭りに盆踊りの褒美を出して祭りを盛大に実施した。東照宮祭りの山車を新調して町人身分による提灯ろうそくの大量生産を推進して、名古屋の町人身分着物うちわの需要を増加させて大工職人や花火職人の町人祭事産業を育成した[31]。からくり山車技術の技術向上や仮装派手行列や盆踊り祭りの豪華褒美で楽しみを増加させる快楽産業政策で大工産業従事者や商人の楽しみを増やして勤労意欲を向上させた。徳川宗春の経済政策は民が元気なり民間活力を作る庶民元気政策でお金の流通量を急増させた。お金の流通量を急増させて田畑も元気になり生きたお金の流通業を盛んにする商人重視政策を実施した。大工産業育成の経済効果をもたらした[27]罪人梁川東照宮建設工事で生活職業保護をしていた。

好物と性格

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  • NPO法人宗春ロマン隊の特定非営利活動法人が作成した日本の偉人関係の本である『徳川宗春伝』では『名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君』と紹介されている。宗春は名古屋好きで家来思いで町人農民など尾張藩の庶民思いの素晴らしい殿様だったとNPO法人宗春ロマン隊が作成したの本である『徳川宗春伝』で紹介されている。
  • 3メートルの煙管を家臣に背負わせてあるいたり、真っ白な牛の世にのってゆるゆる城内を散歩したり自己顕示欲が強い人だった。[32]
  • 少年時代は、猫が草を食べる様子を観察するなどしていた[33]。また、藩主の子供でありながら農民町人と仲が良く、庶民の喜怒哀楽が理解できる少年だった[34]
  • 梁川藩主時代に梁川藩の村役人伊達家の家臣の家系から宗春家臣となった村役人家系の堀江与五右衛門から塩鮭を献上された。[35]塩鮭が好物であった。塩鮭を食べながらタバコを吸う習慣があり、徳川家康東照大権現様のご加護として、が口癖であった。[36]
  • 梁川藩主時代に東北地方の農民支援策で百姓に道春は種もみを与えて稲は順調に育ち豊作になり餓死者が1人も出さない百姓に優しい農民仏教愛の殿様であった。[37]松平道春は部屋住みの頃からどうしたら民が楽しく生きる世の中になるか思考していた。梁川藩主時代に家臣や民から感謝の品物が沢山届く殿様であった。罪人でも働きたいものはどんどん働かせる道春の功績は今でもつつこ引き祭りとして受け継がれている。[38]
  • 宗春は家臣を楽しませるため家臣の娯楽目的で家臣を江戸の遊郭に連れて行き、自分は別の間で尾張藩主となるための温知政要著書の政策立案の執筆作業と立派な仮装豪華な購入の準備をしていた。[39]お供の尾張名古屋藩の武士名古屋城入場の際にべっ甲帽子で歌舞伎役者風の派手衣装を着て町人に対して身分など気にせず煙管タバコを目の前で一緒に吸おうと親睦を深めて名古屋城に入城した。[40]
  • 母の梅津の長生きを願う親孝行で優しい仏教愛殿様だったとされる。[41]教養の高い母の梅津から藩主の兄と同じ立派な武士になるようにちはやふる百人一首など高い教養を学んだ。学問は学ぶだけでは役に立たない教わり学び経験して繰り返す事だと藩の塾で学び薬草研究や農民百姓から米の作り方を教えてもらう少年だった。[42]
  • 德川吉宗の倹約令は財政の立て直し成功や将軍就任後の目安箱や町火消しなどを評価していたが倹約は上級身分の武士がするべきである。庶民町人の消費を否定する民の元気を否定する財政出動否定の町人消費抑制策に対して宗春は反対だった。[43]。派手好きの宗春の性格は徳川吉宗倹約令を否定し、尾張藩の派手な消費文化を推進した。莫大な財政出費により消費活性化を促す積極財政政策により、尾張藩は財政赤字になった。しかし、尾張名古屋では毎日花火が打ち上げられ、仕事や祭りの派手な文化で消費が活性化され、江戸・京都・大坂と並ぶ商業経済の大都市として成長した[44]
  • 人生を楽しみながら生きる、快楽仏教徒であった。派手好きな性格で歌舞伎役者盆踊りの祭り文化、吉原などの風俗女性文化が好きであった。煙管文化も好きで、タバコを町人や農民と共に吸っていた[45]

経歴

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※参考資料:児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵 諸侯年表』(東京堂出版、1984年発行)

家族

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  • 正室なし
  • 側室:海津(栄昌院)
    • 長女:富(理泡院)(享保9年(1724年)4月9日 - 享保18年(1733年)6月17日) - 葬天徳院
    • 三女:八千(曄徳院)(享保11年(1726年)12月8日 - 享保16年(1731年)5月17日) - 葬天徳院
    • 長男:国丸(慧運院、萬五郎)(享保14年(1729年)12月17日 - 享保20年(1735年)9月9日) - 葬傅通院
  • 側室:民部(瑩光院)
    • 次女:補誦(凛霜院、三保)(享保11年(1726年)1月4日 - 享保20年(1735年)10月8日) - 葬傅通院
    • 五女:八百(秋蔵院)(享保15年(1730年)1月13日 - 享保16年(1731年)7月12日) - 葬天徳院
    • 次男:龍治代・龍千代(圓徳院)(元文2年(1737年)11月12日 - 元文2年(1737年)12月24日) - 葬傅通院
  • 側室:伊予(銀昌院)
    • 四女:頼(霊樹院、於須亭・傅・勝子)(享保13年(1728年)1月20日 - 宝暦10年(1760年)10月10日)葬大徳寺[49][50](近衛家菩提寺。)
      • 唯一成人した子女。宗春が謹慎した後に九条稙基(4代藩主吉通の外孫)と婚約、名古屋の祖母・宣揚院の元でしばらく生活をする。稙基が急逝したため、後の関白近衛内前の後妻となり、従三位徳川勝子と名乗る。
    • 六女:以津(性如院)(享保15年(1730年)8月21日 - 享保16年(1731年)9月4日) - 葬太宗寺
  • 側室:和泉(宝泉院、華子・阿薫)猪飼氏。阿薫の方と呼ばれる。葬七寺[51]
  • 側室:おはる(貞幹院、春日野)葬建中寺[52]
  • 側室:左近
  • 側室:相模


  • 養子女
    • 養女:近(蓮胎院)(正徳3年(1713年)8月7日 - 寛延4年(1751年)5月5日) - 実父は梁川藩2代藩主松平義方。元文元年(1736年)7月19日、上杉宗房に嫁ぐ。葬傅通院


  • 同母兄:城次郎(桂鏡院)(元禄7年(1694年)誕生、元禄10年(1697年)7月26日早世、葬高岳院)
  • 同母妹:名不明(晴龍院)(元禄11年(1698年)9月21日早世、葬建中寺[注釈 34]

その他、早世の兄弟姉妹が30人以上いる[注釈 35]

史料

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宗春に関する記録は謹慎蟄居後に幕府によりほとんど処分されたとされ、現存する資料は極めて少ない。

  • 徳川実紀
  • 『尾藩世記』
  • 『金府紀較抄』
  • 『御日記頭書』
  • 『尾州家条々』
  • 『金鱗九十九之塵』
  • 『尾公口授』
  • 『尾張徳川家系譜』
  • 『遊女濃安都』
  • 『夢之跡』
  • 『徳川宗春年譜』
  • 温知政要』 - 宗春の政治思想が記された宗春の主著。享保17年、京都町奉行により京都での一般への出版発行は禁止された。宗春隠居謹慎後、名古屋藩内でも回収されて処分されている。
  • 『続談海』
  • 『月堂見聞集』
  • 『元文世説雑録』
  • 『享保世話』
  • 『安川文書』(岐阜御成り)

脚注

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注釈

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  1. ^ 江戸藩邸が大久保にあった事による
  2. ^ 実際に宗春が吉宗を直接批判したとする当時の一次資料は残っていない。江戸幕府の公式記録でには、むしろ吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録が散見される[2]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、尾張藩江戸上屋敷市ヶ谷邸を江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
  3. ^ 一説では十九男。
  4. ^ 後に犬山城成瀬正親家臣、200石取。
  5. ^ 徳川美術館に、有馬則維が要請した手紙が残されている。「通春主、有馬玄蕃頭養子となる」という一文もある[5]
  6. ^ 求馬の通称は、本来は御連枝梁川藩大窪松平家の嫡子の通称。宗春が求馬を名のるのは松平義真誕生前であり、梁川藩3代藩主となる義真が生まれる前に従五位主計頭に叙任され、求馬の通称は使わなくなった。可能性として大窪松平家第二代当主松平義方(義賢)に子が出来る前であったので、不測の事態に備えて仮養子・養子にしようとした可能性がある。
  7. ^ 大窪松平家は断絶した。異母兄の尾張藩御連枝筆頭高須藩松平義孝を飛び越える異例の相続であった。ただし、義孝は2年後の享保17年(1732年)に死去している。
  8. ^ これは上級の武士と町民の交流を果たすことが目的であった。
  9. ^ しかしその結果、獄中に死罪人が溢れることとなった。これらの罪人は藩主交代後に全員が処刑された。[要出典]
  10. ^ 享保18年9月11日から15日まで滞在。『安川文書』によれば12日の午後6時半頃、鵜飼見物に出掛けた際に宗春は舟からたくさんの花火を見物しており、この時は徳田(岐南町と思われる)より花火師が来て珍しい花火を打ち上げている。確認できる限り、これが長良川で打ち上げられた花火の最も古い記録であり、現在行われている長良川花火大会の先駆けといえるだろう。なおその直前の享保18年5月28日に、吉宗は前年に発生した飢饉等の被害者を偲び、隅田川で水神祭りを行い花火が打ち上げられたといわれている。これが現在の隅田川花火大会に繋がっていったとされているが、この話は後世の作り話だという説が有力である。
  11. ^ 公式記録には何も残されておらず、5月には兄で高須藩主の松平義孝の死があり、9月は詰問に出向いたと言われる滝川元長石河政朝の出自や役職、さらに直後の鷹狩への使者が滝川元長であったことなどの状況証拠から考えると、実際にこの詰問があったかどうかは、はなはだ疑わしい。尾張藩士の手紙では五月に既にうわさが流れていたが、噂であると断じている。
  12. ^ 『名古屋市史』の中に所収されるその資料は江戸末期のもので、宗春当時の記録ではない。宗春時代に記されたもので尾張藩が赤字に転じたという資料はない。その資料によると、6代藩主継友と8代藩主宗勝は黒字であったとされるが、共にその藩政下では江戸上屋敷市谷藩邸が全焼しており、黒字になる可能性は限りなく低い。
  13. ^ この巻狩の前の数カ月間、宗春は御下屋敷で商人たちと会っていて、名古屋城二の丸に戻っていない。
  14. ^ 8月に、幕府が大名と旗本に遊里戯場へ出入りすることを禁じる令を出しており、その先手を打つものであった。
  15. ^ 緩みすぎた藩士の規律を正すものであると同時に、幕府の元文の改鋳によるインフレ政策対策として、引き締め政策に転じた。名古屋はすでにインフレ状態であり、強いインフレに陥らないように庶民を守った政策である。それと同時に、元文2年(1737年)の名古屋や岐阜の町、ならびに農村からの借財は、幕府の蓄銭禁止令に対応したものであった。借財という方法論によって、多く出回りすぎる貨幣を藩が集め、インフレを押さえたからである。
  16. ^ 4代藩主徳川吉通正妻の輔子は九条輔実の娘。吉通長女の千姫は九条幸教に嫁ぐ。
  17. ^ 6代藩主徳川継友正妻の安己は近衛家熙の次女。
  18. ^ 初代広幡忠幸は、尾張藩初代藩主徳川義直の猶子であり、義直の娘の京姫を正妻とする。
  19. ^ 尾張家御連枝川田窪松平友著正妻の伊喜姫は正親町公通の娘。
  20. ^ この祈祷を白い衣を着て行ったという[8]。翌年暮れに吉宗の使者に「領民の安寧が私の心の楽しみ」と述べたという記録もある[9]
  21. ^ 京の大嘗会への使者である高家堀川広益が京から戻って吉宗に報告した翌日から将軍吉宗は引き篭もり、年初恒例の行事を老中に代参させている[2]。その堀川広益は、尾張藩の縁戚である広幡家の当主である広幡豊忠の実弟である。
  22. ^ 御三家はじめ御家門のほとんどが閉門したほどの事件があったにもかかわらず、この日の吉宗は関白一条兼香等朝廷に異例の貢物を送っている[2]。その後、一条兼香は4人の姫を水戸・紀州・一橋・清水の御三家・御三卿の御簾中として送り出し、また幕閣はこの年に霊元法皇の影響を受けた4人の和歌の名人の公卿の名前を提出させている。
  23. ^ 幕閣方面からは後継として、吉宗の次男の田安宗武を入れる計画もあったが、尾張藩の抵抗により断念された、という話も伝わる。
  24. ^ 実際は宗春治世中に既に、藩内の贅沢や奢侈を禁ずる政策が出されている。また、宗勝の質素倹約を旨とする緊縮財政政策は大成功し、藩財政は再建された。[要出典]
  25. ^ 吉宗側近の御側御用取次加納久通は西之丸若年寄として健在であった。乗邑は罷免後の翌年に逝去している。乗邑が将軍吉宗の言葉さえも聞かなくなっていたほど専横があったことを匂わせる記述も存在する[2]
  26. ^ 吉宗時代には既に、幕府は貨幣改鋳による貨幣流通量のと共に、金融緩和政策などを行っているが、これは大岡忠相の再三再四による献策であった。老中松平乗邑は反対していたが、元文改鋳をせざるを得なくなる。この金融緩和の後、幕府は租税の回収を強化し、各地で暴動が起き朝廷が幕府に諫言するほどであった。
  27. ^ 宗睦の政策は新田開発や殖産興業政策、治水工事であり、役人の綱紀粛正である。これは吉宗の施策と同じであり、また宗睦は晩年に経済の大混乱を引き起こしている。[要出典]
  28. ^ 浅井図南等が主導して、多数の医師が尾張藩で育つ。
  29. ^ また、この時に金網も撤去されたという伝もある[要出典]が、記録にはそのことは記されていない。
  30. ^ 慶勝は、大老井伊直弼と対立する一橋派に属しており、南紀派に対抗するため、紀州のライバルと比定できる宗春のイメージに頼った、とする説がある。
  31. ^ 岐阜県各務原市鵜沼の石亀神社が、その石切場跡である。
  32. ^ 現在は名古屋市平和公園に移転。
  33. ^ 江戸時代において、死後75年を経ての贈位贈官の例はほとんどなく、宗春に対する幕府の措置は異例中の異例であった。なお、贈従一位の声も挙がったものの、林大学頭皝(檉宇)の答申では不相当とあり、結果として従二位の贈位となった[46]。ちなみに林大学頭皝(檉宇)は、松平乗邑の孫の林述斎の三男。
  34. ^ 元禄10年には3代藩主徳川綱誠は在江戸なので、年数からすると早産または流産か?
  35. ^ 記録により数が異なっている。

出典

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  1. ^ a b 『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収
  2. ^ a b c d 『徳川実紀』
  3. ^ 徳川実紀』『尾藩世記』『金府紀較』『尾張藩御日記頭書』『尾張徳川家系譜』より
  4. ^ 近松茂矩著『昔咄』『圓覺院様御伝十五箇条』
  5. ^ 尾藩世記』 宝永6年4月15日の欄
  6. ^ 『徳川・松平一族の事典』
  7. ^ NHKその時歴史が動いた2008年9月18日
  8. ^ 『尾藩世紀』
  9. ^ 『尾公口授』
  10. ^ 所, 三男, (1900- ) ([1935.5]). 尾張藩の財政と藩札. [Shakai keizaishi gakkai]. OCLC 123028504. http://worldcat.org/oclc/123028504 
  11. ^ 『尾公口授』江戸時代写本
  12. ^ 『温知政要』『條々二十一箇条』『尾藩世紀』『徳川実紀』『幸和先生御伝』等
  13. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男55頁
  14. ^ <『改革の日本史』河合敦105頁
  15. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男55頁
  16. ^ <『改革の日本史』河合敦102頁
  17. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男46頁
  18. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男52頁
  19. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男45頁
  20. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男67頁
  21. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男26頁
  22. ^ a b 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男54頁
  23. ^ <『改革の日本史』河合敦101頁
  24. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男128頁
  25. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男129頁
  26. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男127頁
  27. ^ a b 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男53頁
  28. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男48頁
  29. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男118頁
  30. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男51頁
  31. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男52頁
  32. ^ <『改革の日本史』河合敦104頁
  33. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男11頁
  34. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男12頁
  35. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男27頁
  36. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男31頁
  37. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男30頁
  38. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男33頁
  39. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男38頁
  40. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男45頁
  41. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男53頁
  42. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男10頁
  43. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男20頁
  44. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男57頁
  45. ^ 徳川宗春伝 名古屋に日本一の繁栄をもたらした名君舟橋幸男118頁
  46. ^ 小野将「近世後期の林家と朝幕関係」(『史学雑誌』第102編第6号、1993年6月)
  47. ^ 名古屋叢書三編『尾張徳川家譜』による
  48. ^ 安藤香織「「建中寺墓地改装日誌」について」(『金鯱叢書』第48輯、徳川美術館、p.69)
  49. ^ (尾州)徳川家系図”. なごやコレクション、83コマ目. 2024年1月1日閲覧。
  50. ^ 真野氏手扣”. なごやコレクション、24コマ目. 2023年12月7日閲覧。
  51. ^ 名古屋寺院誌”. なごやコレクション、600コマ目. 2023年12月23日閲覧。
  52. ^ 萩園遺稿”. 2023年12月23日閲覧。

関連書籍

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演じた俳優

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史実上の誤解として、しばしば、徳川宗春徳川吉宗と将軍職を争って敗れたとされ、上記の『暴れん坊将軍』や『大岡越前』でも長きにわたりそのように描かれていた。両シリーズとも、その部分が後に訂正されている。

関連項目

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外部リンク

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