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2018年2月8日 (木) 03:45時点における版
汴州(べんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から五代十国時代にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。
概要
東魏の天宝初年に設置された梁州を前身とする。梁州は陽夏郡・開封郡・陳留郡の3郡10県を管轄した[1]。
北周のとき、梁州は汴州と改称された。
隋初には、汴州は陳留郡とその属県の浚儀・開封の1郡2県を管轄した。583年(開皇3年)、陳留郡が廃止され、汴州が2県を直轄した。605年(大業元年)に汴州が廃止され、鄭州に併合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、鄭州は滎陽郡と改称された[2]。
621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、滎陽郡浚儀県が汴州と改められた。742年(天宝元年)、汴州は陳留郡と改称された。758年(乾元元年)、陳留郡は汴州と改称された。汴州は河南道に属し、浚儀・開封・尉氏・陳留・封丘・雍丘の6県を管轄した[3]。781年(建中2年)に宣武軍節度使が置かれ[4]、宣武軍は後の朱全忠台頭の基盤となった。
907年(開平元年)、五代の後梁により汴州は開封府に昇格し、東都とされた[5]。923年(同光元年)、後唐が後梁を滅ぼすと、汴州は宣武軍節度使の管轄にもどされた[6]。938年(天福3年)、後晋により汴州は東京に昇格し、開封府が置かれた[7]。
北宋のときに開封府は東京とされ、金においては南京が置かれた。