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'''津島 佑子'''('''つしま ゆうこ'''、[[1947年]][[3月30日]] - )は、[[東京都]][[北多摩郡]]三鷹町([[三鷹市]])生まれの[[小説家]]。本名は'''津島里子'''('''つしま さとこ''')。作品は[[英語]]・[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[オランダ語]]・[[アラビア語]]・[[中国語]]に[[翻訳]]され、国際的に評価が高い
'''津島 佑子'''('''つしま ゆうこ'''、[[1947年]][[3月30日]] - )は、[[東京都]][[北多摩郡]]三鷹町([[三鷹市]])生まれの[[小説家]]。本名は'''津島里子'''('''つしま さとこ''')。作品は[[英語]]・[[ドイツ語]]・[[イタリア語]]・[[フランス語]]・[[オランダ語]]・[[アラビア語]]・[[中国語]]に[[翻訳]]され、国際的に評価が高い

==来歴・人物==
==来歴・人物==
[[太宰治]]の次女。1歳のとき父を失い、母子家庭に、さらに12歳のとき3歳上の実兄が病没し母・姉と"女系家族"に育つ。太宰治については、「また、これは私の個人的な事情なのだが、太宰治の作品だけは、その人が私の父親であることから、かなり早くから読みはじめていた。(中略)芥川や谷崎の愛読者であった私は、太宰の作品をも芥川と同列のところに並べて読んでいた。すなわち、価値をすでに見いだされて、教科書にも載るような作家として読んでいたわけで、時代背景の生き生きした臨場感はほとんど味わうことはなかった。」(『透明空間が見える時』所収)と記している。
[[太宰治]]の次女。1歳のとき父を失い、母子家庭に、さらに12歳のとき3歳上の実兄が病没し母・姉と"女系家族"に育つ。太宰治については、「また、これは私の個人的な事情なのだが、太宰治の作品だけは、その人が私の父親であることから、かなり早くから読みはじめていた。(中略)芥川や谷崎の愛読者であった私は、太宰の作品をも芥川と同列のところに並べて読んでいた。すなわち、価値をすでに見いだされて、教科書にも載るような作家として読んでいたわけで、時代背景の生き生きした臨場感はほとんど味わうことはなかった。」(『透明空間が見える時』所収)と記している。
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1970年11月、結婚により財団法人[[放送番組センター]]を退社。1971年、第一作品集『謝肉祭』を刊行。この時期は母子家庭のテーマを繰り返し描く。1972年5月、長女を出産。後年夫とは不和となり離婚。その後津島には新たな私生活のパートナーとなる男性が現れたが、この男性とは再婚せず別離。またこの男性との間に1976年8月、長男を出産するが、長男は1985年3月に呼吸発作にのため死去。この体験は後に『夜の光に追われて』『真昼へ』などの作品の主題となる。
1970年11月、結婚により財団法人[[放送番組センター]]を退社。1971年、第一作品集『謝肉祭』を刊行。この時期は母子家庭のテーマを繰り返し描く。1972年5月、長女を出産。後年夫とは不和となり離婚。その後津島には新たな私生活のパートナーとなる男性が現れたが、この男性とは再婚せず別離。またこの男性との間に1976年8月、長男を出産するが、長男は1985年3月に呼吸発作にのため死去。この体験は後に『夜の光に追われて』『真昼へ』などの作品の主題となる。


1991年10月、[[パリ大学]]国立東洋言語文化研究所に招聘され[[日本近代文学]]を講義。
1991年10月、[[パリ大学]]国立東洋言語文化研究所に招聘され日本近代文学を講義。


1998年、構想から5年をかけた大作『火の山—山猿記』を完成。家族、生と死、言葉の隔たりといったそれまでのテーマを集大成し[[谷崎潤一郎賞]]・[[野間文芸賞]]を受賞。この作品は後に2006年4月から放送の[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[純情きらり]]』の原案となった。
1998年、構想から5年をかけた大作『火の山—山猿記』を完成。家族、生と死、言葉の隔たりといったそれまでのテーマを集大成し[[谷崎潤一郎賞]]・[[野間文芸賞]]を受賞。この作品は後に2006年4月から放送の[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[純情きらり]]』の原案となった。

2008年3月30日 (日) 21:35時点における版

津島 佑子つしま ゆうこ1947年3月30日 - )は、東京都北多摩郡三鷹町(三鷹市)生まれの小説家。本名は津島里子つしま さとこ)。作品は英語ドイツ語イタリア語フランス語オランダ語アラビア語中国語翻訳され、国際的に評価が高い。

来歴・人物

太宰治の次女。1歳のとき父を失い、母子家庭に、さらに12歳のとき3歳上の実兄が病没し母・姉と"女系家族"に育つ。太宰治については、「また、これは私の個人的な事情なのだが、太宰治の作品だけは、その人が私の父親であることから、かなり早くから読みはじめていた。(中略)芥川や谷崎の愛読者であった私は、太宰の作品をも芥川と同列のところに並べて読んでいた。すなわち、価値をすでに見いだされて、教科書にも載るような作家として読んでいたわけで、時代背景の生き生きした臨場感はほとんど味わうことはなかった。」(『透明空間が見える時』所収)と記している。

東京学芸大学附属追分小学校から白百合学園中学校・同高等学校を経て、1966年、白百合女子大学文学部英文科在学中、ガリ版同人誌『よせあつめ』を創刊。処女作『手の死』『夜の……』を発表。同年「文芸首都」会員となる。1967年、成人式を迎えるに際して富士五湖を訪れ、父の文学碑を見る。同大学卒業後、1969年4月、明治大学大学院英文学専攻)に入学するも、ほとんど講義に出席せず。

1970年11月、結婚により財団法人放送番組センターを退社。1971年、第一作品集『謝肉祭』を刊行。この時期は母子家庭のテーマを繰り返し描く。1972年5月、長女を出産。後年夫とは不和となり離婚。その後津島には新たな私生活のパートナーとなる男性が現れたが、この男性とは再婚せず別離。またこの男性との間に1976年8月、長男を出産するが、長男は1985年3月に呼吸発作にのため死去。この体験は後に『夜の光に追われて』『真昼へ』などの作品の主題となる。

1991年10月、パリ大学国立東洋言語文化研究所に招聘され日本の近代文学を講義。

1998年、構想から5年をかけた大作『火の山—山猿記』を完成。家族、生と死、言葉の隔たりといったそれまでのテーマを集大成し谷崎潤一郎賞野間文芸賞を受賞。この作品は後に2006年4月から放送のNHK連続テレビ小説純情きらり』の原案となった。

姉は、津島雄二代議士夫人の津島園子である。

主な受賞作品

 1976年 『葎の母』 第16回田村俊子賞
 1977年 『草の臥所』 泉鏡花文学賞
 1978年 『寵児』 第17回女流文学賞
 1979年 『光の領分』 第1回野間文芸新人賞
 1983年 『黙市』 第10回川端康成文学賞
 1987年 『夜の光に追われて』 第38回読売文学賞
 1988年 『真昼へ』 第17回平林たい子賞
 1995年 『風よ、空駆ける風よ』 伊藤整文学賞
 1998年 『火の山-山猿記』 第34回谷崎潤一郎賞、第51回野間文芸賞
 2001年 『笑いオオカミ』 第28回大佛次郎賞
 2005年 『ナラ・レポート』 紫式部文学賞

外部リンク