「デメトリオ・アルベルティーニ」の版間の差分
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2008年11月30日 (日) 07:58時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | コンダクター、デミー、プレーテ(司祭)、 | |||||
ラテン文字 | Demetrio Albertini | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1971年8月23日(52歳) | |||||
出身地 | ベザーナ・イン・ブリアンツァ(ミラノ県) | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF(DH, CH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1988-1990 1990-1991 1991-2002 2002-2003 2003-2004 2004 2005 |
ACミラン パドヴァ ACミラン アトレティコ・マドリード ラツィオ アタランタ FCバルセロナ |
2(0) 28(5) 293(21) 28(2) 23(2) 14(1) 5(0) | ||||
代表歴 | ||||||
1991-2002 | イタリア代表 | 79(3) | ||||
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デメトリオ・アルベルティーニ(Demetrio Albertini、1971年8月23日-)はイタリアの元サッカー選手。ポジションはMF(レジスタ)。2005年12月引退。2006年7月にイタリアサッカー連盟(FIGC)副会長に就任した。
略歴
ACミランでの活躍
10歳でイタリアの名門ACミランの入団テストに合格。ジャンニ・リベラの再来と言われ、その類まれなる才能を見出されたアルベルティーニは、わずか17歳5ヶ月でセリエAデビューを果たすが、当時のミランはルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト、フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニら錚々たる顔ぶれが揃い、後にリーグ戦無敗優勝を含む3連覇を達成するほどのチームだったため、出場機会に恵まれず、90-91シーズン11月にパドヴァにレンタル移籍される。しかし、パドヴァで経験を積んだアルベルティーニは、翌シーズンミランに戻ると、その年から中盤に君臨し、セリエAで3連覇を成し遂げるなど、チーム内で確固たる地位を築いていった。
その後、ミランでの公式戦出場406試合、(セリエA293試合、コッパ・イタリア46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)、28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、UEFAチャンピオンズリーグ5得点)の記録を残し、獲得したタイトルは、スクデット5回、イタリア・スーパーカップ優勝3回、UEFAスーパーカップ優勝1回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回にものぼっている。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。
イタリア代表
イタリア代表でも、94、98年W杯に出場。ユーロも96、00に出場。94年W杯では、サッキ監督がもう1人の守備的MFであるディノ・バッジョに対して「アルベルティーニの左10mに平行になるようにいろ」という指示を受けており、わずか22歳にしてサッキ監督から全幅の信頼を得ていたのである。02年W杯はアキレス腱の怪我によりメンバーから漏れる。(当初からトラップは使う気は無かった)このW杯では全くと言っていいほど中盤からのゲームメイクができず、ただロングパスを放り込むだけ。アルベルティーニの不在を痛感させた大会であった。(しかし06年W杯ではレジスタの後継者としてアンドレア・ピルロが活躍し、イタリアの優勝に貢献している。)代表での79キャップ(主将5試合)はイタリア歴代8位という記録である。イタリア代表伝統のアルファベット順の慣例に従い、バルセロナ五輪、ユーロ96で背番号10をつけたこともある。 チェーザレ・マルディーニ監督をして「アルベルティーニがくしゃみをするとイタリア代表は風邪をひく」とも言わしめた。アルベルティーニはイタリアの心臓であった。
選手キャリアの晩年
02-03シーズン、スペインの名門アトレティコ・マドリードへ電撃レンタル移籍。フエラ(スペイン語でアウェーの意味)のマドリーデルビー(マドリーダービー)では後半50分にフリーキックから同点ゴールを叩き込んだ。このゴールは専門誌のベストゴールに選ばれた。その後、03-04シーズンにラツィオ、04-05シーズンにアタランタとクラブを転々とする。
04-05シーズン冬、かつてのチームメイトであるライカールトが指揮をとるバルセロナへ移籍したが、怪我もあり、期待された活躍は出来なかった。2005年夏に契約が満了し、2005年12月6日に現役引退を発表。引退会見の式場にはアドリアーノ・ガッリアーニ、パオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、ホアン・ラポルタ、フランク・ライカールト、マルコ・ファンバステン、カルレス・プジョルなど親交の深い人々が駆けつけ、2006年3月15日にサンシーロで引退セレモニーが行われた。現在監督になるための勉強中である。
プレースタイル
中盤の底でチームの攻守のバランスをとりつつ、正確な長短のパスで攻撃の起点となる。イタリアで”レジスタ”と呼ばれるポジションを体現した人物と言って良い。特に彼は、単に起点となるだけでなく、アシストも多く決めており、チームの勝利への貢献度は極めて大きかった。
FKやミドルシュートも得意としており、アトレティコ・マドリー時代であった02-03シーズンのマドリーダービーでは後半ロスタイムのラストプレーでFKの同点ゴールを決めるなど、精神的にも強い選手であった。PKも非常に上手い選手であり、94年W杯決勝では22歳にして2番手キッカーを任されたり、晩年の各クラブでもPKを任されたりしていた。
評価
ACミランの副会長、アドリアーノ・ガッリアーニが、最近20年間のミランで最も素晴らしい4人(フランコ・バレージ、アレッサンドロ・コスタクルタ、パオロ・マルディーニ、デメトリオ・アルベルティーニ)の選手の中の1人に挙げている。