コンテンツにスキップ

「原敬暗殺事件」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
3行目: 3行目:


==経緯==
==経緯==
大塚駅の[[分岐器|転轍手]]であった中岡艮一は、以前から原敬首相に対して批判的な意識を持っていた。艮一の供述によれば、原が[[政商]]や[[財閥]]中心の[[政治]]を行ったと考えていたこと、[[野党]]の提出した[[普通選挙法]]に反対したこと、また[[尼港事件]]が起こったことなどによるとされている。その他一連の[[汚職|疑獄]]事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考えるようになった。
大塚駅の[[分岐器|転轍手]]であった中岡艮一は、以前から原敬首相に対して批判的な意識を持っていた。艮一の供述によれば、原が[[政商]]や[[財閥]]中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した[[普通選挙法]]に反対したこと、また[[尼港事件]]が起こったことなどによるとされている。その他一連の[[汚職|疑獄]]事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考えるようになった。


そして1921年11月4日、[[京都]]で開かれる[[立憲政友会]]京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の[[改札|改札口]]へと向かっていた原は、午後7時25分頃、突進してきた艮一に[[短刀]]を右胸に突き刺された。原はその場に倒れ、[[駅長|駅長室]]に運ばれ手当てを受けたが、に死亡していた。突き刺された傷は原の[[肺|右肺]]から[[心臓]]に達しており、ほぼ即死状態であったという。
そして1921年11月4日、原は京都で開かれる[[立憲政友会]]京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていた、午後7時25分頃、突進してきた艮一に短刀を右胸に突き刺された。原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。


[[逮捕]]された艮一は、[[死刑]]の[[求刑]]に対して、[[東京地方裁判所|東京地裁]]で[[懲役#無期懲役|無期懲役]]の[[判決]]を受けた。その後の東京[[控訴院]]・[[大審院]]でも判決は維持され確定した。なおこの[[裁判]]は異例の速さで進められ、また[[調書]]等もほとんど残されていないなど」が多い裁判として知られ、その後の艮一の“特別な”処遇(3度もの[[恩赦|大赦]]で[[1934年]]には早くも釈放された、戦時中には比較的安全な[[軍|軍司令部]]付の[[]]となっていたなど。[[中岡艮一]]の項参照)とあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。
逮捕された艮一は、[[死刑]]の求刑に対して、[[東京地方裁判所|東京地裁]]で[[懲役#無期懲役|無期懲役]]の判決を受けた。その後の東京[[控訴院]]・[[大審院]]でも判決は維持され確定した。なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎多い裁判であり、その後の艮一の“特別な”処遇(3度もの[[恩赦|大赦]]で[[1934年]]には早くも釈放された、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなど。[[中岡艮一]]の項参照)とあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い{{誰}}


==暗殺の真相==
==暗殺の真相==
艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のに、以下のような話もある。
艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のほかに、以下のような話もある。
*[[玄洋社]]などの当時の[[右翼]]勢力と関係があったという説。有名な右翼テロリスト[[五百木良三]]が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。

*犯行の1カ月前、艮一と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、艮一が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。
*[[玄洋社]]などの当時の[[右翼]]勢力と関係があったという説。有名な右翼[[テロリズム|テロリスト]][[五百木良三]]が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。
このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。

*犯行の一ヶ月前、艮一と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には[[武士道]]精神が失われた。([[政治家]]は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、艮一が「''''''」と「''''''」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も[[殺人]][[教唆]]の疑いで逮捕されたが、判決は[[無罪]]であった([[求刑]][[懲役]]12年)。


==参考文献==
==参考文献==
*日本博学倶楽部 『[図説]歴史の意外な結末』 PHP研究所 2003年 42-43頁
*日本博学倶楽部 『[図説]歴史の意外な結末』 PHP研究所2003年42-43頁


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[原敬]]
*[[原敬]]
*[[中岡艮一]]
*[[中岡艮一]]
*[[濱口雄幸]] ※[[1930年]](昭和5年)[[11月14日]]、東京駅で銃撃され重傷を負う。
*[[濱口雄幸]] - 1930年(昭和5年)、東京駅で銃撃され重傷を負う。
*[[東京駅]]
*[[暗殺]]


{{DEFAULTSORT:はらたかしあんさつしけん}}
{{DEFAULTSORT:はらたかしあんさつしけん}}
[[Category:大正時代の事件]]
[[Category:大正時代の事件]]
[[Category:暗殺]]
[[Category:暗殺]]
[[Category:日本の右翼の事件|はらたかしあんさつしけん]]
[[Category:日本の右翼の事件]]

{{japanese-history-stub}}
{{japanese-history-stub}}

2009年2月14日 (土) 02:55時点における版

原首相遭難現場のプレートと印

原敬暗殺事件(はらたかしあんさつじけん)は、1921年(大正10年)11月4日、当時の首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅職員であった中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件である。

経緯

大塚駅の転轍手であった中岡艮一は、以前から原敬首相に対して批判的な意識を持っていた。艮一の供述によれば、原が政商財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考えるようになった。

そして1921年11月4日、原は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、突進してきた艮一に短刀を右胸に突き刺された。原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された艮一は、死刑の求刑に対して、東京地裁無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院大審院でも判決は維持され確定した。なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の艮一の“特別な”処遇(3度もの大赦1934年には早くも釈放された、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなど。中岡艮一の項参照)とあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い[誰?]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

暗殺の真相

艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のほかに、以下のような話もある。

  • 玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。有名な右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。
  • 犯行の1カ月前、艮一と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、艮一が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。

参考文献

  • 日本博学倶楽部 『[図説]歴史の意外な結末』 PHP研究所、2003年、42-43頁。

関連項目