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1929年、[[サンティアゴ (パナマ)]]([[:en:Santiago de Veraguas, Veraguas|Santiago de Veraguas]])の教師の家庭に生まれる。幼少期に母親が米兵にぞんざいに扱われるの目撃する。[[エルサルバドル]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ベネズエラ]]の軍人学校で英才教育を受けたのち1952年に国家防衛隊に入隊し、反体制派の弾圧に辣腕を振るうようになった。1968年のクーデターに加わり、最高司令官となり全軍を掌握する。
1929年、[[サンティアゴ (パナマ)]]([[:en:Santiago de Veraguas, Veraguas|Santiago de Veraguas]])の教師の家庭に生まれる。幼少期に母親が米兵にぞんざいに扱われるの目撃する。[[エルサルバドル]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ベネズエラ]]の軍人学校で英才教育を受けたのち1952年に国家防衛隊に入隊し、反体制派の弾圧に辣腕を振るうようになった。1968年のクーデターに加わり、最高司令官となり全軍を掌握する。


1972年には新憲法を制定して国の最高指導者としての全権を握り、[[ペルー革命]]を指導した[[ペルー]]の[[フアン・ベラスコ・アルバラード|ベラスコ]]将軍に影響を受けた<ref>中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 pp.190</ref>民族的政策を打ち出して国民の熱狂的支持を集めた。その一環として[[パナマ運河地帯]]の主権回復を目指し、[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ]]議長と親交を深め、近隣諸国に協力を求めるなどアメリカ合衆国に揺さぶりをかけた。こうして1977年アメリカ合衆国と運河返還を約束する条約の締結に成功する。それ以外にも様々な国内改革を行い国民生活の改善に務めた。1978年、国家主席の座を退いたが国家防衛隊最高司令官としてとどまり、新たに結成した[[民主革命党 (パナマ)|民主革命党]](PDR)を通じて圧倒的影響力を発揮し続けた。1981年、謎の飛行機事故で死亡した。死因は暗殺とも言われている。
1972年には新憲法を制定して国の最高指導者としての全権を握り、[[ペルー革命]]を指導した[[ペルー]]の[[フアン・ベラスコ・アルバラード|ベラスコ]]将軍に影響を受けた<ref>中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 pp.190</ref>民族的政策を打ち出して国民の熱狂的支持を集めた。その一環として[[パナマ運河地帯]]の主権回復を目指し、[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ|カストロ]]議長と親交を深め、近隣諸国に協力を求めるなどアメリカ合衆国に揺さぶりをかけた。こうして1977年アメリカ合衆国と運河返還を約束する条約の締結に成功する。それ以外にも様々な国内改革を行い国民生活の改善に務めた。1978年、国家主席の座を退いたが国家防衛隊最高司令官としてとどまり、新たに結成した[[民主革命党 (パナマ)|民主革命党]](PDR)を通じて圧倒的影響力を発揮し続けた。1981年、謎の飛行機事故で死亡した。死因は[[暗殺]]とも言われている。


== 脚註 ==
== 脚註 ==
<references />
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== 参考文献 ==
* 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 1985
* 国本伊代/小林志郎/小澤卓也 『パナマを知るための55章』 明石書店 2004/08


== 関連作品 ==
== 関連作品 ==

2009年3月31日 (火) 03:30時点における版

オマール・エフライン・トリホス・エレーラ
Omar Efraín Torrijos Herrera


任期 1969年3月 – 1981年7月31日

出生 1929年2月13日
サンティアゴ・デ・ベラグアス
死去 1981年7月31日
政党 なし(軍人)

オマール・トリホス(Omar Efraín Torrijos Herrera 1929年2月13日 - 1981年7月31日は、パナマの軍人、政治家。軍事政権を確立し反対派を暴力で徹底的にねじ伏せたが、反米ナショナリストとして民衆から慕われた異色の軍人政治家である。

生涯

オマール・トリホス(右)

1929年、サンティアゴ (パナマ)Santiago de Veraguas)の教師の家庭に生まれる。幼少期に母親が米兵にぞんざいに扱われるの目撃する。エルサルバドルアメリカ合衆国ベネズエラの軍人学校で英才教育を受けたのち1952年に国家防衛隊に入隊し、反体制派の弾圧に辣腕を振るうようになった。1968年のクーデターに加わり、最高司令官となり全軍を掌握する。

1972年には新憲法を制定して国の最高指導者としての全権を握り、ペルー革命を指導したペルーベラスコ将軍に影響を受けた[1]民族的政策を打ち出して国民の熱狂的支持を集めた。その一環としてパナマ運河地帯の主権回復を目指し、キューバカストロ議長と親交を深め、近隣諸国に協力を求めるなどアメリカ合衆国に揺さぶりをかけた。こうして1977年アメリカ合衆国と運河返還を約束する条約の締結に成功する。それ以外にも様々な国内改革を行い国民生活の改善に務めた。1978年、国家主席の座を退いたが国家防衛隊最高司令官としてとどまり、新たに結成した民主革命党(PDR)を通じて圧倒的影響力を発揮し続けた。1981年、謎の飛行機事故で死亡した。死因は暗殺とも言われている。

脚註

  1. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 pp.190

参考文献

  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 1985
  • 国本伊代/小林志郎/小澤卓也 『パナマを知るための55章』 明石書店 2004/08

関連作品

関連項目

先代
ホセ・ピニージャ
パナマ共和国大統領
1969年-1981年
次代
フロレンシオ・フローレス・アギラール