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*フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 7人の王と共和政期の指導者たち』 東眞理子訳、創元社、2004年
*フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 7人の王と共和政期の指導者たち』 東眞理子訳、創元社、2004年
*グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』 角信雄・長谷川洋訳、白水社、1997年
*グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』 角信雄・長谷川洋訳、白水社、1997年

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2009年5月20日 (水) 13:41時点における版

ヌマ・ポンピリウスの横顔のイメージ。アウグストゥス皇帝時代のローマコインに彫られたもの。

ヌマ・ポンピリウスNuma Pompilius 紀元前750年 - 紀元前673年)は、王政ローマにおける2代目の。この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられている人物である。戦争につぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、43年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。

生涯

ヌマは哲学瞑想を好み、ピタゴラス学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして白髪になったと言われている。ヌマはサビニ人の王であるティトゥス・タティウスの娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。

だが紀元前716年にローマで王ロムルスが亡くなると、その人格を評価されてローマ2代目の王として指名される。ヌマは要請を何度も断ったが、鳥占いをしたところユピテルマルスクィリヌスの三神が同意したという結果が出たので、王位に就くことを決断した。彼の妻は若くして亡くなっていたが、その後ニンフのエゲリア(ギリシア神話のカリオペーと同一であるとも)と恋におちて結婚し、政治の助言を貰うためにたびたびパラティヌスの丘の南にあるエゲリアの泉で逢瀬を重ねていたと人々は噂した。ヌマ即位の頃はローマは近隣都市からは盗賊の集団と大差ないとみなされていたが、彼の治世により法と慣習を祭祀を確立した文化都市へと成長した。ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、彼の1人の娘と4人の息子達はいずれも名門一族の創始者となり、カプリニア氏族やアエミリウス氏族もここから発した。また死後千年が経過した時代においても、ローマを訪れた人はクィリナスの丘に残るヌマの家を案内されたという。

業績

当時のローマ暦は一年が10ヶ月の不正確なものであったが、ヌマはこれに2ヶ月を追加してより正確な暦とした。またローマ内部にあった部族同士のいさかいをなくすために、農民達を「パギ」と呼ばれるさらに小さな集団に分割した。そして商業や手工業に携わる人々は職能別の組織に分割し、それらの共同体を部族よりも重要視させることによって部族対立を消滅させた。そのほか、戦争を抑えるために宣戦布告の権限を「伝令僧」と呼ばれる祭祀職のみに許すようにした。伝令僧は戦争が起こりそうになると対立相手に補償条件を伝え、その回答に満足いかなかったときのみ宣戦布告が行われた。

ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、ヤヌス神殿の建立である。これは始まりと終わりの神ヤヌスに捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中は一度も開かれることがなかったが、彼の死後はずっと開いたままとなり、ローマが帝政となるまでの間に閉じられたのはポエニ戦争後の6年間だけであった。

参考文献

  • フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 7人の王と共和政期の指導者たち』 東眞理子訳、創元社、2004年
  • グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』 角信雄・長谷川洋訳、白水社、1997年
先代
ロームルス
ローマ王
第2代
紀元前716年 - 紀元前673年
次代
トゥッルス・ホスティリウス