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'''南部 実信'''(なんぶ さねのぶ、[[延宝]]4年([[1676年]] - [[元禄]]13年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]([[1700年]][[4月18日]]))は、[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]]第4代藩主・[[南部行信]]の次男。母は[[毛利光広]]の娘、清浄院。[[官位]]は従四位下、隼人正
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'''南部 実信'''(なんぶ さねのぶ)は、[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]]第4代藩主・[[南部行信]]の次男。母は[[毛利光広]]の娘、清浄院。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
実信は行信の[[嫡子]]であったが、元禄13年(1700年)に父よりも早く死去してしまった為、三男の異母弟の[[南部信恩]]が[[家督]]相続することになった。なお、異母弟の信恩の正室は実信の母方[[従兄弟]]である。
実信は行信の[[嫡子]]にして嗣子であったが、元禄13年(1700年)に父よりも早く死去してしまった為、三男の異母弟の[[南部信恩]]が[[家督]]相続することになった。なお、異母弟の信恩の正室は実信の母方[[従兄弟]]である。


父行信は[[儒教]]に傾斜していたために葬儀は仏式でなく、儒式で行われた。
父行信は[[儒教]]に傾斜していたために葬儀は仏式でなく、儒式で行われた。

2010年4月15日 (木) 02:46時点における版

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生誕 延宝4年(1676年) 
死没 元禄13年2月29日1700年4月18日
別名 通称;隼人
官位 従四位下、隼人正

南部 実信(なんぶ さねのぶ)は、陸奥盛岡藩第4代藩主・南部行信の次男。母は毛利光広の娘、清浄院。

経歴

実信は行信の嫡子にして嗣子であったが、元禄13年(1700年)に父よりも早く死去してしまった為、三男の異母弟の南部信恩家督相続することになった。なお、異母弟の信恩の正室は実信の母方従兄弟である。

父行信は儒教に傾斜していたために葬儀は仏式でなく、儒式で行われた。

参考文献