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'''コンキスタドール''' ('''Conquistador''') とは[[スペイン語]]及[[ポルトガル語]]で「征服者」を意味するが、とくに[[15世紀]]から[[17世紀]]にかけての[[スペイン]]の[[アメリカ大陸]]征服者、[[探検家]]を指す。彼らは中南米の先住民にとっては固有の文化の破壊者であったが、今日の[[ラテンアメリカ]]の文化の創造者でもあった<ref>[http://books.google.com/books?id=fmHU8bQlG2YC&pg=PA4&dq=portuguese+conquistadors&lr=&as_brr=3 Mary Hill ''Gold: The California Story'']</ref><ref>[http://books.google.com/books?id=I0a-mILquzsC&pg=PA112&dq=portuguese+conquistadors&lr=&as_brr=3 Tatu Vanhanen ''Prospects of democracy: a study of 172 countries'']</ref>。 |
'''コンキスタドール''' ('''Conquistador''') とは[[スペイン語]]及[[ポルトガル語]]で「征服者」を意味するが、とくに[[15世紀]]から[[17世紀]]にかけての[[スペイン]]の[[アメリカ大陸]]征服者、[[探検家]]を指す。彼らは中南米の先住民にとっては固有の文化の破壊者であったが、今日の[[ラテンアメリカ]]の文化の創造者でもあった<ref>[http://books.google.com/books?id=fmHU8bQlG2YC&pg=PA4&dq=portuguese+conquistadors&lr=&as_brr=3 Mary Hill ''Gold: The California Story'']</ref><ref>[http://books.google.com/books?id=I0a-mILquzsC&pg=PA112&dq=portuguese+conquistadors&lr=&as_brr=3 Tatu Vanhanen ''Prospects of democracy: a study of 172 countries'']</ref>。 |
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2010年7月11日 (日) 02:38時点における版
コンキスタドール (Conquistador) とはスペイン語及ポルトガル語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。彼らは中南米の先住民にとっては固有の文化の破壊者であったが、今日のラテンアメリカの文化の創造者でもあった[1][2]。
概要
批判的評価
代表的なコンキスタドールとしては、ペルーのインカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロや、アステカ王国を侵略したエルナン・コルテスが挙げられる。1519年、コンキスタドールのスペイン人コルテスは部下を引き連れ、ユカタン半島最大の都市、テノチティトランに上陸した。コルテスは勇敢にも僅か500人の部下と共にアステカ帝国に戦いを挑み3年後には勝利した。彼らの中には純粋なキリスト教の布教を意図していた者も、金銀を求めてアメリカ大陸を探索し、アメリカ大陸の固有文明を破壊し、キリスト教の価値観や宗教を押し付け、正当な交換の手続きを経ることなく黄金を手に入れた者もいた。またインディオの王族や貴族の財産を脅かし、異教徒の女性と内縁関係[3]を結んだりした者もいた [4] [5]。
「征服」初期には彼らの活動資金はスペイン王や神聖ローマ皇帝が拠出し、収奪収益の一部を国に納めるという形をとっていたが、のちには資金を彼ら自身が工面し、スペイン王らは形式的に征服の許可を出す形になっていった。そのため略奪と同業者間の競争が激化した。奪える財宝がなくなると、原住民を徴用し、農場や鉱山の経営から富を得ようとした。16世紀後半にはコンキスタドールの世襲領主化を恐れたスペイン王が、副王を任命するなど直接統治に乗り出したため、コンキスタドール(とその後継者たち)は宗主国の容喙に反発したびたび反乱を起こした。
キリスト教の布教を徹底させるために先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕された。当時としては彼らの行動は人身御供の儀式を日常的に行う邪教から先住民を救い、福音に触れさせることで彼らを改心させようとする崇高な意図に基づくものであったが、今日的価値観から見ればそれは文化破壊的側面があったことも否定できないだろう。 先住民は同胞の王族・貴族に酷使された悲惨な状態をコンキスタドールによって解放されたが、こんどは彼らに奴隷の様に使役されるという状況に陥ったことになる。
近代以降、インディオの子孫達の社会的立場が向上するにつれ、コンキスタドールの所業は功罪両義的な評価がなされるようになっている。
肯定的評価
上記のように当時のインディオの為政者から見ればコンキスタドールの所業は、自分たちの地位と特健を奪い、財を奪った略奪者であったが、その一方、彼らが今日のラテンアメリカの文化の創造者であり圧政からの解放者であった側面も否定できない。
コンキスタドールがやってくる前、中南米の一部の地域では王族や貴族が特権的地位を独占し人々を収奪し、人々は常に自らや家族・友人を人身御供に捧げられる恐怖の生活を送っていた。人身御供に捧げられた人々は公衆の面前で生きたまま生皮を剥がされ、心臓を抉り取られた。(アステカを参照のこと)
古代ローマ以来の自然法の観念を継承し、キリスト教の人類愛の精神を内面化していたコンキスタドールにとってこのような儀式は悪魔の所業以外のなにものでもなく、今日で言うところのの文化相対的価値観を受容していなかった彼らにとっては、傍観者の立場に身を置くことは出来ず、インディオの解放、徹底的な旧悪の破壊とキリスト教の布教を自らの聖なる使命と考えるようになった。
彼らはインディオの文化を破壊すると当時にキリスト教的文化を同地に広め、これが今日の豊穣なラテンアメリカ文明の礎となった。
キリスト教の布教に尽力したのはカトリックの宣教師であり、彼らによってインディオたちは福音に接することが出来た[6]。
主なコンキスタドール
- フランシスコ・ピサロ(ペルー、1509年 - 1535年)
- ディエゴ・デ・アルマグロ(ペルー、チリ)
- ゴンサロ・ピサロ(ペルー、1540年 - 1542年)
- ペドロ・デ・バルディビア(チリ、1540年 - 1552年)
- セバスティアン・デ・ベラルカサル(エクアドル、コロンビア)
- ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(コロンビア・ベネズエラ)
- フアン・ディアス・デ・ソリス(ウルグアイ、1516年)
- フランシスコ・デ・オレリャーナ(アマゾン川、1541年 - 1543年)
- フアン・ポンセ・デ・レオン(プエルトリコ、1508年・フロリダ、1513年及び1521年)
- ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル(キューバ、1511年 - 1519年)
- パンフィロ・デ・ナルバエス(フロリダ、1527年 - 1528年)
- エルナンド・デ・ソト(アメリカ南東部、1539年 - 1542年)
- ルーカス・バスケス・デ・アイヨン(現アメリカ合衆国東海岸)
- ディエゴ・デ・ニクエサ(パナマ、1506年 - 1511年)
- バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(パナマ)
- フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(ニカラグア)
- クリストバル・デ・オリッド(ホンジュラス、1523年 - 1524年)
- マルティン・デ・ウルスア(グアテマラのペテン地域、1696年 - 1697年)
- エルナン・コルテス(メキシコ、1518年 - 1522年・ホンジュラス、1524年・バハ・カリフォルニア半島、1532年 - 1536年)
- フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(ユカタン)
- ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ(ユカタン、メキシコ)
- ペドロ・デ・アルバラード(メキシコ、グアテマラ、ペルー)
- フアン・デ・グリハルバ(ユカタン)
- フランシスコ・デ・モンテーホ(ユカタン、1527年 - 1546年)
- フランシスコ・バスケス・デ・コロナド(アメリカ合衆国南西部)
- アルバル・ヌーニェス・カベサ・デ・バカ(アメリカ合衆国南西部、南アメリカ)
- ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(フィリピン、1565年-1571年)
- マルティン・デ・ゴイティ(フィリピン、1570年-1571年)
- フェリペ・デ・サルセード(フィリピン)
- フアン・デ・サルセード(フィリピン、1570年-1576年)
関連項目
脚注
- ^ Mary Hill Gold: The California Story
- ^ Tatu Vanhanen Prospects of democracy: a study of 172 countries
- ^ キリスト教の神の前で祝福を受けずに成立した婚姻関係。
- ^ インディオはコルテスの歓心を得るために自らの同胞の一女性マリンチェを献上するという挙に及んだ。それを受け入れることはキリスト教の倫理に反するものであったがコルテスは誘惑に勝てず彼女を内縁の妻とした。そしてそのような行為が黙認された理由としてコンキスタドールの多くは妻を母国に残しての妻帯者や単身者であり、姦淫や複婚を厳しく禁ずるカトリック・キリスト教会も異教徒の先住民の女性との内婚に対しては寛容であったことが挙げられる。その一方、黒人との混血児に人権を認めなかった北米と異なり、混血の拡大は結果として中南米社会に人種差別的意識を強固に根付かせることを防いだ
- ^ 従軍した宣教師の中にはバルトロメ・デ・ラス・カサスのように中南米での一部のスペイン人たちの逸脱した行動を告発した者も存在したが、小数であり、その主張に注目を受けることはなかった
- ^ 今日、インディオの子孫達には宗教的選択権が保証されているが、彼らの殆どはキリスト教の信仰を捨て古来の宗教に戻ることはしていない。
なお征服時当初は、先住民がキリスト教化してしまうと彼らを保護しなければならなくなるため、征服者からは先住民のキリスト教化は煙たがられたが宗教的情熱に燃える宣教師たちは彼らの教化に心血を注いだ。