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「本多忠居」の版間の差分

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'''本多 忠居'''('''ほんだ ただおき'''、[[明和]]8年([[1771年]]) - [[文政]]2年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]([[1819年]][[3月9日]]))は、[[播磨]][[山崎藩]]の第6代藩主。父は第5代藩主・[[本多忠可]](忠居は長男)。母は[[本多忠堯]]の養女(異母妹)で[[本多忠辰]]の娘である熊姫。正室は[[松平乗温]]の娘。[[堀直救]]の養女([[堀直泰]]の娘)。官位は従五位下。[[大和]]守。
'''本多 忠居'''('''ほんだ ただおき'''、[[明和]]8年([[1771年]]) - [[文政]]2年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]([[1819年]][[3月9日]]))は、[[播磨国|播磨]][[山崎藩]]の第6代藩主。父は第5代藩主・[[本多忠可]](忠居は長男)。母は[[本多忠堯]]の養女(異母妹)で[[本多忠辰]]の娘である熊姫。正室は[[松平乗温]]の娘。[[堀直救]]の養女([[堀直泰]]の娘)。官位は従五位下。[[大和国|大和]]守。


幼名は権次郎。[[1788年]]、父の隠居により後を継ぐ(継いでいないとも言われている)が、[[1794年]]に父が死去するまでは実権は父が握っていた。[[1794年]]から藩政を執るが、聡明な父と違って暗愚だった。これが災いして翌年11月12日、父の時代に改革を成功させた功臣である[[佐藤善五右衛門]]をこともあろうに己の面前で藩士に斬り捨てさせたのである。これは、佐藤が生きている限り藩政を完全に掌握できないことと、先代における佐藤の功績を嫉妬した一派が忠居に讒言し、それを受け入れたためと言われているが、佐藤はこれが原因で3日後に世を去った。その後、[[大番頭]]となったが、[[1808年]]に将軍・[[徳川家斉]]に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われるなど、暗愚なことこの上なかった。
幼名は権次郎。[[1788年]]、父の隠居により後を継ぐ(継いでいないとも言われている)が、[[1794年]]に父が死去するまでは実権は父が握っていた。[[1794年]]から藩政を執るが、聡明な父と違って暗愚だった。これが災いして翌年11月12日、父の時代に改革を成功させた功臣である[[佐藤善五右衛門]]をこともあろうに己の面前で藩士に斬り捨てさせたのである。これは、佐藤が生きている限り藩政を完全に掌握できないことと、先代における佐藤の功績を嫉妬した一派が忠居に讒言し、それを受け入れたためと言われているが、佐藤はこれが原因で3日後に世を去った。その後、[[大番頭]]となったが、[[1808年]]に将軍・[[徳川家斉]]に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われるなど、暗愚なことこの上なかった。


このため[[1812年]]10月18日、病気を理由にして家督を長男の[[本多忠敬]]に譲って隠居した。そして1819年2月14日に49歳で死去したのである。法号:憲隆院前和州宰吏誉至誠忠道大居士。墓所:東京都江東区三好の雲光院。
このため[[1812年]]10月18日、病気を理由にして家督を長男の[[本多忠敬]]に譲って隠居した。そして1819年2月14日に49歳で死去したのである。法号:憲隆院前和州宰吏誉至誠忠道大居士。墓所:[[東京都]][[江東区]]三好の雲光院。


ちなみに父の時代に再建された財政は、この忠居の時代に再び破綻している。
ちなみに父の時代に再建された財政は、この忠居の時代に再び破綻している。

2006年1月28日 (土) 06:52時点における版

本多 忠居ほんだ ただおき明和8年(1771年) - 文政2年2月14日1819年3月9日))は、播磨山崎藩の第6代藩主。父は第5代藩主・本多忠可(忠居は長男)。母は本多忠堯の養女(異母妹)で本多忠辰の娘である熊姫。正室は松平乗温の娘。堀直救の養女(堀直泰の娘)。官位は従五位下。大和守。

幼名は権次郎。1788年、父の隠居により後を継ぐ(継いでいないとも言われている)が、1794年に父が死去するまでは実権は父が握っていた。1794年から藩政を執るが、聡明な父と違って暗愚だった。これが災いして翌年11月12日、父の時代に改革を成功させた功臣である佐藤善五右衛門をこともあろうに己の面前で藩士に斬り捨てさせたのである。これは、佐藤が生きている限り藩政を完全に掌握できないことと、先代における佐藤の功績を嫉妬した一派が忠居に讒言し、それを受け入れたためと言われているが、佐藤はこれが原因で3日後に世を去った。その後、大番頭となったが、1808年に将軍・徳川家斉に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われるなど、暗愚なことこの上なかった。

このため1812年10月18日、病気を理由にして家督を長男の本多忠敬に譲って隠居した。そして1819年2月14日に49歳で死去したのである。法号:憲隆院前和州宰吏誉至誠忠道大居士。墓所:東京都江東区三好の雲光院。

ちなみに父の時代に再建された財政は、この忠居の時代に再び破綻している。