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「憑依」の版間の差分

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精度に問題のある出典・文献すなわちピクネットの文献のみに頼っているのは当該節だけではない。問題が解決されていないのにタグを除去しないように
メタレベルの学術的記述を上部に導入。精度上げ実現。中立性実現。
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{{複数の問題
| 精度 = 2011-2
| 観点 = 2011-1
}}
'''憑依'''(ひょうい、possession)とは、[[霊]]などがのりうつること<ref>『広辞苑』第四版、第五版</ref>。<ref name="Rei">{{Cite book|和書|author=羽仁礼|title=超常現象大事典|publisher=成甲書房 |year=2001|id=ISBN 978-4880861159 |page=p.76}}</ref>。憑(つ)くこと<ref>『広辞苑』第四版、第五版</ref>
'''憑依'''(ひょうい、possession)とは、[[霊]]などがのりうつること<ref>『広辞苑』第四版、第五版</ref>。<ref name="Rei">{{Cite book|和書|author=羽仁礼|title=超常現象大事典|publisher=成甲書房 |year=2001|id=ISBN 978-4880861159 |page=p.76}}</ref>。憑(つ)くこと<ref>『広辞苑』第四版、第五版</ref>


神留(かんづま)・神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。<!--また類義語として降臨もある{{要出典|date=2010年4月}}。
憑霊とも<ref name="Ikegami_5"> {{Cite book|和書|author=池上良正|title=死者の救済史: 供養と憑依の宗教学|publisher=角川学芸出版|year=2003|id=ISBN 4047033545|chapter=第五章|page=p.157-194}}</ref>、神留(かんづま)・神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。<!--また類義語として降臨もある{{要出典|date=2010年4月}}。
-->
-->
とりつく霊の種類によっては悪魔憑き、[[狐憑き]]、などと呼ぶ場合もある<ref name="Rei" />。
とりつく霊の種類によっては悪魔憑き、[[狐憑き]]、などと呼ぶ場合もある<ref name="Rei" />。


== 概要 ==
== 概要 ==
「憑依」という表現は、ドイツ語のBesessenheitや英語の(spirit)possessionなどの学術語を翻訳するために、昭和ごろから、特に第二次世界大戦後から用いられるようになった、と池上良正によって推定されている。([[#訳語の歴史]]を参照)

似たような現象でも「憑依」やそれに関連した言い回しで表現される場合と、そうでない場合があり、そうした表現の選定には、記述する者の価値判断や政治的な判断が入り込んでしまっている<ref name="Ikegami_5" />。([[#「憑依」という用語と分類の恣意性]]を参照)

職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある<ref name="Rei" />。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い<ref name="Rei" />。
職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある<ref name="Rei" />。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い<ref name="Rei" />。


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何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある<ref name="Rei" />。
何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある<ref name="Rei" />。


こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それ霊障と呼<ref name="Rei" />。
こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それ霊障と呼ばれている<ref name="Rei" />。


===歴史概観===
== 訳語の歴史 ==
[[人類学]]、[[宗教学]]、[[民俗学]]などの[[学術用語]]として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語のBesessenheitや英語の(spirit)possessionなどの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した<ref>p.159</ref>。1941年(昭和25年)のある学術文献<ref>秋葉降『朝鮮巫俗の現地研究』</ref>には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと、池上良正は推定した<ref name="Ikegami_5"> {{Cite book|和書|author=池上良正|title=死者の救済史: 供養と憑依の宗教学|publisher=角川学芸出版|year=2003|id=ISBN 4047033545|chapter=第五章|page=p.157-194}}</ref><ref>p.159</ref>。
憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。


「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた<ref name="Ikegami_5" />。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意もふまえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究<ref>『憑霊信仰論』伝統と現代社、1982年</ref>などがある<ref name="Ikegami_5" />。
すでに人類の歴史の初期段階から、忘我状態に入りなにかしら価値ある情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることは、知られていた<ref name="LYNN"> {{Cite book|和書|author=リン・ピクネット|title=超常現象の事典|publisher=青土社|year=1994|id=ISBN 978-4791753079|page=p.220-222}}</ref>。


==「憑依」という用語と分類の恣意性 ==
部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移ったような気配だと感じた。<ref name="LYNN" />。
ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた<ref>川村邦光『憑依の視座』青弓社、1997年</ref><ref name="Ikegami_5" />。


というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である<ref name="Ikegami_5" />。英語のbe obsessedやbe possessedなどは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである<ref name="Ikegami_5" />。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのである<ref name="Ikegami_5" />といったことを池上などは指摘する。
初期文明では憑依はいつも「神の介入」と見なされた<ref name="LYNN" />。


例えば聖書には次のようなくだりがある<ref name="Ikegami_5" />。
西洋のキリスト教のもとでは、憑依に対する見解は時代とともに変化してきている。聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でもキリスト教でも宗派によって、見解は異なりはする<ref name="LYNN" />。(→[[#キリスト教]])


{{Quotation|イエスはバプテスマを受けると、すぐに水から上がられた。すると、<u>天が開け、神の御霊が[[鳩]]のように自分の上に下ってくるのをご覧になった</u>。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である([[マタイによる福音書]]、3.16)<ref name="Ikegami_5" />}}
また、近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えば[[イヴリン・ウォー]]は『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べた<ref name="LYNN" />。この事例では、酒と治療薬の組み合わせが引き金となったらしい<ref name="LYNN" />。


{{Quotation|祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、<u>[[聖霊]]に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした</u>。([[使徒行伝]] 4.31)<ref name="Ikegami_5" />}}
最近の世代では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得て”ウォークイン”状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいるのである<ref name="LYNN" />。

このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである<ref name="Ikegami_5" />。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある<ref name="Ikegami_5" />。

{{Quotation|イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、<u>悪霊に取りつかれた</u>者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に<u>取りつかれた</u>者のことなど一切を知らせた。([[マタイによる福音書]]8.28-33)<ref name="Ikegami_5" />}}

これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている<ref name="Ikegami_5" />。

一方、沖縄の[[ユタ]]と呼ばれる人が[[カミダーリィ]]の時期を回想した体験談に次のようなものがある<ref name="Ikegami_5" />。

{{Quotation|そして<u>[[神様]]に歩かされて</u>、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、<u>天が開いたように[[光]]がさして</u>、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着た<u>おじいさんが降りて来られて</u>「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。<ref name="Ikegami_5" />}}

この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイ伝3.16以下のくだりと酷似している<ref name="Ikegami_5" />。まともに判断すれば、マタイ伝3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから”憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである<ref name="Ikegami_5" />。

[[キリスト教徒]]のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり<ref name="Ikegami_5" />、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは”悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある”[[聖霊]]”に関しては「憑かれる」とは表現しない<ref name="Ikegami_5" />。こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの[[価値観|価値判断]]や[[解釈]]が埋め込まれてしまっているのである<ref name="Ikegami_5" />。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが<ref name="Ikegami_5" />、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある、と池上良正は指摘した<ref name="Ikegami_5" /><ref>p.167</ref>。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストが)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきたしまった<ref name="Ikegami_5" />といった内容のことを池上は指摘した。


==古代ギリシャ==
==古代ギリシャ==
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[[比較宗教学]]によれば、[[アブラハムの宗教]]である[[ユダヤ教]]も[[キリスト教]]も[[イスラム教]]にも、[[預言者]]が登場する。これは神が宿ったものともいえる。([[預言]]、[[福音]]、[[啓示]]){{要出典|date=2011年1月}}
[[比較宗教学]]によれば、[[アブラハムの宗教]]である[[ユダヤ教]]も[[キリスト教]]も[[イスラム教]]にも、[[預言者]]が登場する。これは神が宿ったものともいえる。([[預言]]、[[福音]]、[[啓示]]){{要出典|date=2011年1月}}
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==ヘブライ語聖書(旧約聖書)==
[[ヘブライ語聖書]]([[旧約聖書]])にも憑依の記述はある、とピクネットは説明した<ref name="LYNN" />。

[[古代イスラエル]]では、その状態は[[霊]]に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、[[サタン]]の代理として、ずうずうしく、また悪賢く、のさばり出たのに違いない、と考えられた<ref name="LYNN" />、とピクネットは説明した。


== キリスト教 ==
== キリスト教 ==
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[[キリスト教]]では比較宗教学とは異なる立場をとってきた<ref>ウィリアム・ペイドン『比較宗教学』 東京大学出版会、p.21-22</ref><ref>[[ビリー・グラハム]]『天使』[[いのちのことば社]]</ref><ref>『[[新聖書辞典]]』</ref><ref>『[[ニューエイジムーブメントの危険]]』</ref><ref>[[奥山実]]『悪霊を追い出せ!』</ref><ref>[[ヘンリー・シーセン]]『組織神学』[[聖書図書刊行会]]</ref><ref>『現代カトリック事典』エンデルレ書店</ref>。
[[キリスト教]]では比較宗教学とは異なる立場をとってきた<ref>ウィリアム・ペイドン『比較宗教学』 東京大学出版会、p.21-22</ref><ref>[[ビリー・グラハム]]『天使』[[いのちのことば社]]</ref><ref>『[[新聖書辞典]]』</ref><ref>『[[ニューエイジムーブメントの危険]]』</ref><ref>[[奥山実]]『悪霊を追い出せ!』</ref><ref>[[ヘンリー・シーセン]]『組織神学』[[聖書図書刊行会]]</ref><ref>『現代カトリック事典』エンデルレ書店</ref>。
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===ピクネットによる説明===
初期のキリスト教徒は憑依を次のように見なした、とピクネットは言う。
:「[[パウロ|聖パウロ]]において、病気の治癒、[[予言]]、その他の[[奇跡]]を約束して下さった[[聖霊]]が憑くような現象は、きわめて望ましい。」<ref name="LYNN" />
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{{要出典範囲|[[聖書]]は自動筆記([[オートマティスム]])によって神の言葉が記述されたものとされている。|date=2010年4月}}-->

憑依に関連する能力として、「霊の見分け」が認められていた、つまり悪霊を見破ることである<ref name="LYNN" />とピクネットは言う。

だが、キリスト教においてもやがて、憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり<ref name="LYNN" />、特に、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ<ref name="LYNN" />、そこまでいかない場合でも、憑依は[[悪魔祓い]]の対象とされた<ref name="LYNN" />、とピクネットは説明した。

憑依状態になる人が、[[魔法使い]]、あるいは[[異端者]]として[[迫害]]されることが次第に多くなっていった<ref name="LYNN" />、とピクネットは言う。

1630年代、フランスの[[ルーダン]]で起きた「尼僧集団憑依」事件は、憑依の歴史的記録として、かつ証拠文献が豊富な例として有名である<ref name="LYNN" />。この事件では、尼僧たちの[[悪魔祓い]]を行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった<ref name="LYNN" />。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。
:「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。<ref name="LYNN" />」

A.K.[[エステルライヒ]]が1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が5つも6つもつめかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた<ref name="LYNN" />。

その後、[[カトリック]]教徒の中の実践的な人々のあいだでは、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失った<ref name="LYNN" />、とピクネットは言う。

だが、[[英国国教会]]は今でも[[悪魔祓い]]を専門とする牧師団を抱えている<ref name="LYNN" />、とピクネットは指摘した。


== イスラム教 ==
== イスラム教 ==
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=== 祓い ===
=== 祓い ===
昔の巫女は1週間程度[[水垢離]]をとりながら[[祈祷]]を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
昔の巫女は1週間程度[[水垢離]]をとりながら[[祈祷]]を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
====関連====

===関連===
*[[お祓い]]
*[[お祓い]]
*[[審神者]]
*[[審神者]]
==ピクネットによる説明==
{{精度|section=1|date= 2011-2}}
===歴史===
憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。

すでに人類の歴史の初期段階から、忘我状態に入りなにかしら価値ある情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることは、知られていた<ref name="LYNN"> {{Cite book|和書|author=リン・ピクネット|title=超常現象の事典|publisher=青土社|year=1994|id=ISBN 978-4791753079|page=p.220-222}}</ref>。

部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移ったような気配だと感じた。<ref name="LYNN" />。

初期文明では憑依はいつも「神の介入」と見なされた<ref name="LYNN" />。

西洋のキリスト教のもとでは、憑依に対する見解は時代とともに変化してきている。聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でもキリスト教でも宗派によって、見解は異なりはする<ref name="LYNN" />。(→[[#キリスト教]])

また、近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えば[[イヴリン・ウォー]]は『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べた<ref name="LYNN" />。この事例では、酒と治療薬の組み合わせが引き金となったらしい<ref name="LYNN" />。

最近の世代では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得て”ウォークイン”状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいるのである<ref name="LYNN" />。


===ヘブライ語聖書(旧約聖書)===
[[ヘブライ語聖書]]([[旧約聖書]])にも憑依の記述はある、とピクネットは説明した<ref name="LYNN" />。

[[古代イスラエル]]では、その状態は[[霊]]に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、[[サタン]]の代理として、ずうずうしく、また悪賢く、のさばり出たのに違いない、と考えられた<ref name="LYNN" />、とピクネットは説明した。

===キリスト教 ===
初期のキリスト教徒は憑依を次のように見なした、とピクネットは言う。
:「[[パウロ|聖パウロ]]において、病気の治癒、[[予言]]、その他の[[奇跡]]を約束して下さった[[聖霊]]が憑くような現象は、きわめて望ましい。」<ref name="LYNN" />
<!--
{{要出典範囲|[[聖書]]は自動筆記([[オートマティスム]])によって神の言葉が記述されたものとされている。|date=2010年4月}}-->

憑依に関連する能力として、「霊の見分け」が認められていた、つまり悪霊を見破ることである<ref name="LYNN" />とピクネットは言う。

だが、キリスト教においてもやがて、憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり<ref name="LYNN" />、特に、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ<ref name="LYNN" />、そこまでいかない場合でも、憑依は[[悪魔祓い]]の対象とされた<ref name="LYNN" />、とピクネットは説明した。

憑依状態になる人が、[[魔法使い]]、あるいは[[異端者]]として[[迫害]]されることが次第に多くなっていった<ref name="LYNN" />、とピクネットは言う。

1630年代、フランスの[[ルーダン]]で起きた「尼僧集団憑依」事件は、憑依の歴史的記録として、かつ証拠文献が豊富な例として有名である<ref name="LYNN" />。この事件では、尼僧たちの[[悪魔祓い]]を行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった<ref name="LYNN" />。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。
:「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。<ref name="LYNN" />」

A.K.[[エステルライヒ]]が1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が5つも6つもつめかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた<ref name="LYNN" />。

その後、[[カトリック]]教徒の中の実践的な人々のあいだでは、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失った<ref name="LYNN" />、とピクネットは言う。

だが、[[英国国教会]]は今でも[[悪魔祓い]]を専門とする牧師団を抱えている<ref name="LYNN" />、とピクネットは指摘した。

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==文化人類学における憑依観==
==文化人類学における憑依観==

2011年2月14日 (月) 11:31時点における版

憑依(ひょうい、possession)とは、などがのりうつること[1][2]。憑(つ)くこと[3]

憑霊とも[4]、神留(かんづま)・神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。 とりつく霊の種類によっては悪魔憑き、狐憑き、などと呼ぶ場合もある[2]

概要

「憑依」という表現は、ドイツ語のBesessenheitや英語の(spirit)possessionなどの学術語を翻訳するために、昭和ごろから、特に第二次世界大戦後から用いられるようになった、と池上良正によって推定されている。(#訳語の歴史を参照)

似たような現象でも「憑依」やそれに関連した言い回しで表現される場合と、そうでない場合があり、そうした表現の選定には、記述する者の価値判断や政治的な判断が入り込んでしまっている[4]。(#「憑依」という用語と分類の恣意性を参照)

職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある[2]。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い[2]

とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊である[2]

何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある[2]

こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている[2]

訳語の歴史

人類学宗教学民俗学などの学術用語として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語のBesessenheitや英語の(spirit)possessionなどの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した[5]。1941年(昭和25年)のある学術文献[6]には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと、池上良正は推定した[4][7]

「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた[4]。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意もふまえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究[8]などがある[4]

「憑依」という用語と分類の恣意性

ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた[9][4]

というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である[4]。英語のbe obsessedやbe possessedなどは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである[4]。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのである[4]といったことを池上などは指摘する。

例えば聖書には次のようなくだりがある[4]

イエスはバプテスマを受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊がのように自分の上に下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書、3.16)[4]
祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒行伝 4.31)[4]

このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである[4]。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある[4]

イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。(マタイによる福音書8.28-33)[4]

これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている[4]

一方、沖縄のユタと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある[4]

そして神様に歩かされて、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、天が開いたようにがさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着たおじいさんが降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。[4]

この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイ伝3.16以下のくだりと酷似している[4]。まともに判断すれば、マタイ伝3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから”憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである[4]

キリスト教徒のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり[4]、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは”悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある”聖霊”に関しては「憑かれる」とは表現しない[4]。こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの価値判断解釈が埋め込まれてしまっているのである[4]。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが[4]、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある、と池上良正は指摘した[4][10]。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストが)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきたしまった[4]といった内容のことを池上は指摘した。

古代ギリシャ

哲学

プラトンはその著作『パイドロス』の中で「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。

ヒポクラテス

ヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と唱えた[11]

諸宗教

アブラハムの宗教であるユダヤ教キリスト教イスラム教にも、預言者が登場する。これは神が宿ったものともいえる。(預言福音啓示[要出典]


キリスト教

新約聖書の福音書で「つかれた」と訳されるギリシア語: δαιμονίζομαιの語は、パウロ書簡にはでてこない[12][13]

ルーダンの憑依事件en:Loudun possessions)について、神学者のミッシェル・セルトーが、神学精神分析学社会学文化人類学をクロスオーバーさせつつ分析している。[14]

イスラム教

神道・古神道

大相撲も、皇室奉納される神事であり、横綱はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。

祓い

昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。

関連

ピクネットによる説明

歴史

憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。

すでに人類の歴史の初期段階から、忘我状態に入りなにかしら価値ある情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることは、知られていた[11]

部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移ったような気配だと感じた。[11]

初期文明では憑依はいつも「神の介入」と見なされた[11]

西洋のキリスト教のもとでは、憑依に対する見解は時代とともに変化してきている。聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でもキリスト教でも宗派によって、見解は異なりはする[11]。(→#キリスト教

また、近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えばイヴリン・ウォーは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べた[11]。この事例では、酒と治療薬の組み合わせが引き金となったらしい[11]

最近の世代では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得て”ウォークイン”状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいるのである[11]


ヘブライ語聖書(旧約聖書)

ヘブライ語聖書旧約聖書)にも憑依の記述はある、とピクネットは説明した[11]

古代イスラエルでは、その状態はに乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として、ずうずうしく、また悪賢く、のさばり出たのに違いない、と考えられた[11]、とピクネットは説明した。

キリスト教

初期のキリスト教徒は憑依を次のように見なした、とピクネットは言う。

聖パウロにおいて、病気の治癒、予言、その他の奇跡を約束して下さった聖霊が憑くような現象は、きわめて望ましい。」[11]

憑依に関連する能力として、「霊の見分け」が認められていた、つまり悪霊を見破ることである[11]とピクネットは言う。

だが、キリスト教においてもやがて、憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり[11]、特に、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ[11]、そこまでいかない場合でも、憑依は悪魔祓いの対象とされた[11]、とピクネットは説明した。

憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害されることが次第に多くなっていった[11]、とピクネットは言う。

1630年代、フランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件は、憑依の歴史的記録として、かつ証拠文献が豊富な例として有名である[11]。この事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった[11]。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。

「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。[11]

A.K.エステルライヒが1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が5つも6つもつめかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた[11]

その後、カトリック教徒の中の実践的な人々のあいだでは、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失った[11]、とピクネットは言う。

だが、英国国教会は今でも悪魔祓いを専門とする牧師団を抱えている[11]、とピクネットは指摘した。


医学と憑依

医学においては森田正馬(森田療法で有名)は祈祷性精神病を研究した。医学領域では、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種と解釈したほうがよいと判断することがある。

ただし、沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、"治療される対象として病院に隔離・監禁すべき"とする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた[15]、ともされる。

沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続している[16]ともされている。

ピクネットによる説明

医学領域や心理学の領域で、憑依を二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方は多い[11]、とピクネットは説明する。例えば次のような考え方である。

「『自分』というのは単一ではない。複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている。あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねている[11]

ただし、この説明のしかたでは、憑依の中でも人々にもっとも親しまれている形態、つまり霊媒行為について、うまく説明できない、と言い、霊媒行為の場合、「筆頭格」のそれは、明らかに何か異なる実在のように見えることが多い[11]とし、また霊媒はトランス状態になると、その人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報までも提供するのである[11]とピクネットは説明する。

医療関連項目


参考文献

  • リン・ピクネット『超常現象の事典』青土社、1994年。ISBN ISBN 978-4791753079 
  • 羽仁礼『超常現象大事典』成甲書房、2001年、p.76頁。ISBN 978-4880861159 

出典

  1. ^ 『広辞苑』第四版、第五版
  2. ^ a b c d e f g 羽仁礼『超常現象大事典』成甲書房、2001年、p.76頁。ISBN 978-4880861159 
  3. ^ 『広辞苑』第四版、第五版
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 池上良正「第五章」『死者の救済史: 供養と憑依の宗教学』角川学芸出版、2003年、p.157-194頁。ISBN 4047033545 
  5. ^ p.159
  6. ^ 秋葉降『朝鮮巫俗の現地研究』
  7. ^ p.159
  8. ^ 『憑霊信仰論』伝統と現代社、1982年
  9. ^ 川村邦光『憑依の視座』青弓社、1997年
  10. ^ p.167
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z リン・ピクネット『超常現象の事典』青土社、1994年、p.220-222頁。ISBN 978-4791753079 
  12. ^ 山崎ランサム和彦『平和の神の勝利』プレイズ出版 p.47
  13. ^ 『聖書語句大辞典』教文館
  14. ^ ミシェル・ド・セルトー『ルーダンの憑依』みすず書房 2008。原書はMichel de CERTEAU, LA POSSESSION DE L’OUDUN. PARIS, JULLIARD, 1970.
  15. ^ 塩月亮子、2006「憑依を肯定する社会:沖縄の精神医療史とシャーマニズム」(宗教研究、<特集>第六十四回学術大会紀要)
  16. ^ 塩月亮子 同上
  17. ^ 謎の憑依現象を追え!

関連項目

神以外の憑依

関連書

外部リンク