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「定慶」の版間の差分

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* [[舞楽面]]・散手(奈良・[[春日大社]]) [[寿永]]3年([[1184年]]) [[重要文化財]]
* [[舞楽面]]・散手(奈良・[[春日大社]]) [[寿永]]3年([[1184年]]) [[重要文化財]]


他に、興福寺東金堂[[十二神将|十二神将立像]]の一部の像(婆娑羅大将像)や興福寺西金堂安置の[[金剛力士|金剛力士立像]]も、その作風から定慶が制作に関与した可能性が指摘されている。
他に、興福寺東金堂[[十二神将|十二神将立像]]の一部の像(婆娑羅大将像)や興福寺西金堂(現在は興福寺国宝館安置の[[金剛力士|金剛力士立像]]も、その作風から定慶が制作に関与した可能性が指摘されている。


== 参考書 ==
== 参考書 ==

2011年12月2日 (金) 12:39時点における版

定慶(じょうけい、大仏師法師定慶、だいぶっしほうしじょうけい、生没年不詳)は、12世紀後半の慶派仏師。作風から康慶の弟子という説が有力である。彼の名は文献上には現れず、僧綱位にもついた形跡はなく、その活動が興福寺内に限定されていることから、興福寺専属の仏師だったと想像される。作品は康慶の作風の延長上にある高い写実表現を持ち、定慶の運慶にも匹敵する高い実力がうかがわれる。

作品

他に、興福寺東金堂十二神将立像の一部の像(婆娑羅大将像)や興福寺西金堂(現在は興福寺国宝館安置)の金剛力士立像も、その作風から定慶が制作に関与した可能性が指摘されている。

参考書

関連項目