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'''ジャポニスム'''({{lang-fr|'''Japonisme'''}})、あるいは'''ジャポニズム'''({{lang-en|'''Japonism'''}})とは、[[ヨーロッパ]]で見られた日本趣味・日本心酔のこと。[[フランス]]を中心としたヨーロッパでの潮流であったため、ここではフランス語読みである「ジャポニスム」に表記を統一する。
'''ジャポニスム'''({{lang-fr-short|'''[[:fr:Japonisme|Japonisme]]'''}})、あるいは'''ジャポニズム'''({{lang-en-short|'''[[w:Japonism|Japonism]]'''}})とは、[[ヨーロッパ]]で見られた日本趣味・日本心酔のこと。[[フランス]]を中心としたヨーロッパでの潮流であったため、ここではフランス語読みである「ジャポニスム」に表記を統一する。


[[19世紀]]中頃の万国博覧会([[国際博覧会]])へ出品などをきっかけに、日本美術([[浮世絵]]、[[琳派]]、工芸品など)が注目され、[[印象派]]や[[アール・ヌーヴォー]]の作家たちに影響を与えた。
[[19世紀]]中頃の万国博覧会([[国際博覧会]])へ出品などをきっかけに、日本美術([[浮世絵]]、[[琳派]]、工芸品など)が注目され、[[印象派]]や[[アール・ヌーヴォー]]の作家たちに影響を与えた。

2012年12月16日 (日) 10:54時点における版

ジャポニスム: Japonisme)、あるいはジャポニズム: Japonism)とは、ヨーロッパで見られた日本趣味・日本心酔のこと。フランスを中心としたヨーロッパでの潮流であったため、ここではフランス語読みである「ジャポニスム」に表記を統一する。

19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵琳派、工芸品など)が注目され、印象派アール・ヌーヴォーの作家たちに影響を与えた。

概要

ジャポニスムは画家を初めとして、作家・詩人たちにも大きな影響を与えた。たとえばゴッホによる歌川広重の『名所江戸百景』の模写モネの着物を着た少女が非常に有名であり、ドガを初めとした画家の色彩感覚、人物や風景の構図にも影響を与えている。和歌なども翻訳され、例えば扇子に記したマラルメの4行詩はその影響とされる。

ジャポニスムはオリエンタリズム(オリエンタリスム、東洋趣味)から生じた結果ではあるが、たんなる一時的な流行に終わらなかった。14世紀以降、西欧では何度か大きな文化的な変革が起きた。西洋近代を告げるルネサンスにおいては自然回帰運動が起き、芸術の世界では具象をありのままに捉えようとする近代的パースペクティヴが発展し、写実性を求める動きが次第に強まり、19世紀中頃にクールベらによって名実ともに写実主義が定着した。19世紀後半からは写実主義が衰え、印象主義を経て抽象主義などのモダニズムに至る変革が起きた。この変革の最初の段階で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニスムであったと考えられている。ジャポニスムは単なる流行にとどまらず、それ以降1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となったのである。

昨今では日本漫画アニメーションなどがフランスなどで高い人気を博しており、「現代のジャポニスム」といわれている。なお、ルイ・ヴィトンのダミエキャンバスやモノグラム・キャンバスも当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様家紋の影響もかかわっているとされる。

歴史

ジャポネズリーの時代

フランスの画家ジェームズ・ティソ James Tissot (1836–1902) による1869–70年の作品。屏風を眺める婦人が描かれている。
ルノワール『うちわを持つ少女』1881年
日本の日傘をもつフランスの舞台女優サラ・ベルナール (1844年–1923年)。1881年撮影

ジャポネズリーとは、異国趣味としての日本趣味のことである。オリエント中国などの物産と同様に、当初は日本の工芸品も見た目の物珍しさで評価されていた。ジャポネズリーはジャポニスムの一部、あるいは前段階として解釈されている。

嘉永年間、黒船来航により開国した日本に、西洋からの商船が押し寄せた。当時発達しつつあった写真技術と印刷技術により、日本の様子が西洋に広く知られるようになった。他の美術工芸品とともに浮世絵という版画ヨーロッパアメリカでまたたく間に人気を博するようになった。

ジャポニスムの第一段階は日本の美術品、特に浮世絵版画の熱狂的な収集から始まる。その最初の例はフランスパリであった。1856年頃、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で『北斎漫画』を目にした。それらは磁器の輸送の際に詰め物に使われていたものだったという [1]1860年から1861年にかけて出版された日本についての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されている。

シャルル・ボードレールは、1861年に手紙を書いている。「かなり前になりますが、私は1箱の日本の工芸品を受け取り、それらを友人たちと分け合いました……」。その翌年にはラ・ポルト・シノワーズ(「中国の門」、La Porte Chinoise)という浮世絵を含むいろいろな日本製品を売る店がリヴォリ通りというパリで最もおしゃれな商店街に開店した。

1871年には、カミーユ・サン=サーンスが作曲し、ルイ・ガレが台本を書いたオペラ『ラ・プランセス・ジョーヌ』(『黄色人の王女』、La Princesse jaune)が公開されたが、その物語はオランダ人の少女が芸術家のボーイフレンドが熱中している浮世絵に嫉妬するというものだった。

ブラックモンによる浮世絵の古典的名作の最初の発見にもかかわらず、当初ヨーロッパに輸入された大半の浮世絵は、同時代である18601870年代の絵師によるものだった。それ以前の巨匠たちが紹介され、評価されるのはもう少しあとのことになる。また、同時期のアメリカのインテリたちは、江戸の版画などは低俗で一時の流行に過ぎず、雪舟周文などのような日本の洗練された宗教的、国家的遺産とは区別されるべきものだと主張した。

1870年代と1880年代、多くのフランスのコレクターや作家、芸術評論家が日本に渡った。その結果、ヨーロッパ、特にフランスにおいて日本の美学に関する出版物と工芸品がさらに広く知られるようになった。中でも、自由主義経済学者アンリ・チェルヌースキ、批評家テオドール・デュレ、数年間江戸に住んで医学を教授した英国のコレクターのウィリアム・アンダーソンがその代表者である。現在でも、アンダーソンのコレクションは大英博物館で見ることができる。ジャポニスムの広がりに伴って、林忠正のような日本人美術商もパリで開業し始めた。1878年パリ万博では、数多くの日本の工芸品が展示され人気を博した。

ジャポネズリーからジャポニスムへ

マネ《エミール・ゾラの肖像》はジャポネズリーの代表的なものであると考えられる。この作品はマネ自身の日本趣味を表しており[2]、人物の後ろに浮世絵などの日本の絵画がちりばめられているが、この作品そのものには日本の絵画の表現方法が顕著に取込まれているわけではない。ゴッホの『タンギー爺さん』も同様の感覚によるものであるとも考えられる。このように日本の芸術の評価は異国趣味の一つに過ぎなかったが、浮世絵などで使われていた日本独特の空間表現や色彩感覚が、次第にヨーロッパの芸術家に取り入れられ「〜イスム」となっていく。

葛飾北斎喜多川歌麿を含む日本の画家の作品は絶大な影響をヨーロッパに与えた。日本では文明開化が起こり、浮世絵などの出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受けていた。日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナールマネロートレックメアリー・カサットドガルノワールホイッスラーモネゴッホカミーユ・ピサロポール・ゴーギャンクリムトその他多数いる。

ありとあらゆる分野が影響を受けたが、当然、版画が特に影響を受けた。ヨーロッパで主流だったのはリトグラフであって、木版画ではなかったが、日本の影響を抜きにして、ロートレックのリトグラフやポスターについて語ることなど考えられない。木版画によるジャポニスムの作品が作られるようになるのは、モノクロではあったものの、ポール・ゴーギャンフェリックス・ヴァロットンが最初となる。

英国への日本美術の伝達にはホイッスラーが重要な役割を果たした。当時パリは日本の物産の集散地として知られており、ホイッスラーは滞在中に優れたコレクションを蓄積した。

Paris Illustré Le Japon vol. 4, May 1886, no. 45-46
ゴッホによる Paris Illustré Le Japon vol. 4 表紙の花魁のトレース (1887年)

ヴァン・ゴッホのいくつかの作品は浮世絵のスタイルを模倣したり、それ自体をモチーフにしたりしている。たとえばタンギー爺さん(あるアートショップのオーナー)の肖像画には、背景に6つの浮世絵が描かれている。また彼は、1886年渓斎英泉の浮世絵をパリの雑誌『パリ・イリュストレ』(Paris Illustré)で見つけた後、1887年に《花魁》を描いている。ゴッホはこの時すでにアントウェルペンで浮世絵版画を収集していた。

音楽に関しては、ジャコモ・プッチーニの有名な『蝶々夫人』がジャポニスムの影響を受けている。また、ウィリアム・ギルバートアーサー・サリヴァンによる有名なオペレッタ『ミカド』は、ロンドンナイツブリッジで行われた日本の展示会から着想を得たものである。

これらのアーティストは、多くの日本美術の特徴を取り入れた。ジャポニスムの流行った当時、欧米のアーティストは日本美術の不規則性と非対称性に大変関心を寄せた。西洋のものとは異なる遠近法が用いられており、中心が中央から外れて構成されている。また写実的陰影法も無く、鮮やかな色彩で平面構成がなされている。これらの要素は19世紀までの画家にとって前提であったローマン・グレコ様式(Roman-Greco art)の正反対、まさに対極にあるものであった。西洋の画家たちが近代的な表現技法に行き詰まりを感じているなか、日本のアートは彼らの心理を、伝統に束縛された慣習から解き放ったひとつの契機となったのである。

浮世絵は線で構成されており、何も無い空間と図柄のある部分にくっきりと分かれ、立体感がほとんど無い。これらの特徴はアール・ヌーボーに影響を与えた。浮世絵の直線と曲線による表現方法は、その後、世界中の全ての分野の絵画、グラフィックで当たり前のように見ることができるようになった。これらの浮世絵から取り入れられた形状と色彩構成は、現代アートにおける抽象表現の成立要素のひとつと考えられる。ジャポニスムによって、その後の家具衣料から宝石に到るまであらゆる工芸品のグラフィックデザインに、日本的な要素が取り入れられるようになった。

ジャポニスムの影響

『テーブルの隅』 ファンタン=ラトゥール 1872年
リトグラフのポスター ロートレック 1892年
『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』 歌川広重 1856年

左上の絵は19世紀中頃の写実主義のフランスの画家、アンリ・ファンタン=ラトゥールの『テーブルの隅』という絵である。左下は世紀末のフランス画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックポスター画である。ロートレックはジャポニスムの影響を強く受けた画家の一人である。このロートレックのポスターは現代人の目には特別なものには映らないが、当時の西洋人にとってはかなり斬新な表現方法を使った絵であった。

まず、ロートレックの絵にはテーブルのラインが画面を真っ二つに切るように斜めに入っている。ジャポニスム以前の絵画では、このように大胆に斜めのラインが入ることは珍しく、ファンタン=ラトゥールの絵のように水平に入るのが普通であった。これは右の広重の浮世絵に見られるような構図がインスピレーションになっていると考えられている。

また、ファンタン=ラトゥールの絵では遠近法と陰影、細部の描写により立体感を表現しているが、ロートレックの方は平面の組み合わせで描写され、立体感の表現は全く放棄されている。人物や物体の輪郭が線で表現されるのも、ジャポニスム以前のヨーロッパではあまり見られない表現方法であった。色使いも大胆で鮮明な原色が画面のかなりの面積を占めており、油彩とリトグラフという比較障害があるとしても、ファンタン=ラトゥールの絵とは好対照である。

左の絵では比較しにくいが、ジャポニスム以前の絵画では、地平線の位置が画面中央付近から下部に水平に表現されるのが普通であった。ジャポニスム以降は地平線が画面上部に描かれたり、あるいは背景全部が地面または床になることが普通に見られるようになる。このようなジャポニスムの影響は、20世紀に入るとヨーロッパのあらゆる視覚表現に普遍的に見られるようになり、これはジャポニスムでこちらはそうではない、と区別することが意味を成さなくなっていく。

ギャラリー

関連項目

脚注

  1. ^ Wikipedia(English):Japonism” (English). en.wikipedia.org. 2009年4月24日閲覧。
  2. ^ 《エミール・ゾラの肖像》は、マネのアトリエで描かれた作品であり、画中の日本の絵画もマネのコレクションである(出典:『マネ 近代絵画の誕生』 (「知の再発見」双書(137)) フランソワーズ・カシャン 創元社 74頁 ISBN 9784422211978)。

参考図書