「坂東八平氏」の版間の差分
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'''坂東八平氏'''(ばんどうはちへいし)は、[[平安時代]]中期に坂東([[関東地方]])に土着して[[武家]]となった[[平氏|桓武平氏]]流の[[平良文]]を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「'''八平氏'''」と呼ばれた。 |
'''坂東八平氏'''(ばんどうはちへいし)は、[[平安時代]]中期に坂東([[関東地方]])に土着して[[武家]]となった[[平氏|桓武平氏]]流の[[鎮守府将軍]][[平良文]]を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「'''八平氏'''」と呼ばれた。 |
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== 概要 == |
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主に[[秩父氏]]、[[上総氏]]、[[千葉氏]]、[[中村氏 (相模国)|中村氏]]、[[三浦氏]]、[[鎌倉氏]]の他、これらの諸氏から派生した[[土肥氏]]、[[梶原氏]]、[[大庭氏]]、[[長尾氏]]などが入るが、数え方はその時々の各氏族の勢力により、様々である。 |
坂東八平氏は主に[[秩父氏]]、[[上総氏]]、[[千葉氏]]、[[中村氏 (相模国)|中村氏]]、[[三浦氏]]、[[鎌倉氏]]の他、これらの諸氏から派生した[[土肥氏]]、[[梶原氏]]、[[大庭氏]]、[[長尾氏]]などが入るが、数え方はその時々の各氏族の勢力により、様々である。 |
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なお、[[室町時代]]に栄えた八つの氏族、いわゆる[[関東八屋形]]とは無関係である(なお、両方共通してその名を挙げられるのは千葉氏のみである)。 |
なお、[[室町時代]]に栄えた八つの氏族、いわゆる[[関東八屋形]]とは無関係である(なお、両方共通してその名を挙げられるのは千葉氏のみである)。 |
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通常として、桓武平氏の一族は、[[親王任国]]制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る、親王の血族・下級貴族として土着した。特に[[大掾氏]]・[[伊佐氏]]・[[鹿島氏#平姓鹿島氏|鹿島氏]](広義的には[[城氏 (平氏)|城氏]]・[[関氏]]・[[伊勢氏]]も含む)などは有力[[在庁官人]]であり、同時に[[軍事貴族]]でもあった。そのため、一般の[[武士団]]とは別格であった。 |
通常として、桓武平氏の一族は、[[親王任国]]制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る、親王の血族・下級貴族として土着した。特に[[大掾氏]]・[[伊佐氏]]・[[鹿島氏#平姓鹿島氏|鹿島氏]](広義的には[[城氏 (平氏)|城氏]]・[[関氏]]・[[伊勢氏]]も含む)などは有力[[在庁官人]]であり、同時に[[軍事貴族]]でもあった。そのため、一般の[[武士団]]とは別格であった。 |
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==桓武平氏への疑問== |
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=== 房総平氏 === |
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房総平氏(ぼうそうへいし)は、坂東八平氏の中で[[平忠常]]を祖とする氏族である。上総・下総に亘る房総半島に基盤を持ち、多くの氏族が輩出した。特に有名なのが上総氏と千葉氏である。なお、安房国にはその勢力が見られないことから、「両」総平氏と称すべきとの見解もある。平忠常は[[下総国]][[相馬郡]]を拠点とし、上総・下総・常陸の広範囲に領土を有し、上総介、武蔵押領使 に任官した。これが房総平氏の発生である。さらに諸流派に分かれ、 |
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主な一族に佐賀氏、[[上総氏]]、[[原氏]]、[[逸見氏]]、[[椎名氏]]、[[千葉氏]]とその支流[[相馬氏]]などがいる。 |
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=== 秩父平氏 === |
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秩父平氏(ちちぶへいし)は、坂東八平氏の中で[[平忠頼]]の子で、[[平将門]]の娘を母に持つ[[平将恒]]が[[武蔵国]]秩父郡において[[秩父氏]]を称したことに始まる。将恒の息子である[[秩父武基]]、秩父武常、小山田大夫常任(恒時とも)は[[前九年の役]]に従軍し、秩父武常と小山田常任は討ち死にした。秩父武基は秩父牧の別当職に就任。さらに秩父武基の息子である[[秩父武綱]]は[[前九年の役]]で戦功を挙げた[[石川有光]]の長女を妻とし、[[後三年の役]]に従軍して先陣を務めたことで発展した。秩父平氏(秩父党)は[[源平の争乱]]において、初めは[[平家]]方に属して[[三浦氏]]の[[衣笠城]]を落とし[[源頼朝]]の進軍を妨げたが、後に頼朝に従って[[鎌倉幕府]][[御家人]]となった。 |
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主な一族には[[源平合戦]]で活躍した[[畠山氏]]とその支流の[[浄法寺氏]]や、[[小山田氏]]、[[稲毛氏]]、[[河越氏]]、キリシタン大名の[[高山右近]]を輩出した[[高山氏]]、[[江戸氏]]とその支流[[喜多見氏]]、[[蒲田氏]]などがいる。 |
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古くは、[[太田亮]]が『[[姓氏家系大辞典]]』で三浦氏の出自を古代の御浦氏に求めており、[[篠田氏]]・[[相馬氏]]・千葉氏に関しても[[多氏]]の出自であるとの説が出されていた。三浦氏・鎌倉氏・長尾氏・梶原氏(広義的には[[長田氏]]を含む)は[[相武国造]]、中村氏は[[師長国造]]の末裔であるという説を主張する学者もいる<ref>[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/KANMUG.HTM 古樹紀之房間 古代及び中世の氏族系譜 桓武平氏概観] - 桓武平氏を称する氏族について。</ref>。 |
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{{要出典範囲|ただしこれらの説に同時代史料の根拠があるわけではなく、在地古代[[豪族]]が[[武士]]化した例はあまり見られないという点から、旧説が正しいという意見も多い。 |
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また、系図の混乱においても原因は様々考えられる。そもそも数百年も前の家系を、混乱・誤伝を避けて伝えるのは困難である。また、戦乱によって裏づけとなるべき資料の焼失も考えられるため、今日まで残存している資料の矛盾・欠落を突いて、「別族の系図仮冒」とすることに対しての異論もある|date=2012年9月}}{{誰|date=2012年9月}}。 |
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たとえば「角川新版日本史辞典」においても、「三浦氏」の項に「関東平氏の一流で」とあり、「千葉氏」にも「関東平氏良文流の豪族」とあって、従来の良文流説を採用している。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2013年5月6日 (月) 15:08時点における版
坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は、平安時代中期に坂東(関東地方)に土着して武家となった桓武平氏流の鎮守府将軍平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれた。
概要
坂東八平氏は主に秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏の他、これらの諸氏から派生した土肥氏、梶原氏、大庭氏、長尾氏などが入るが、数え方はその時々の各氏族の勢力により、様々である。
なお、室町時代に栄えた八つの氏族、いわゆる関東八屋形とは無関係である(なお、両方共通してその名を挙げられるのは千葉氏のみである)。
通常として、桓武平氏の一族は、親王任国制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る、親王の血族・下級貴族として土着した。特に大掾氏・伊佐氏・鹿島氏(広義的には城氏・関氏・伊勢氏も含む)などは有力在庁官人であり、同時に軍事貴族でもあった。そのため、一般の武士団とは別格であった。
坂東八平氏の初期系図には混乱が見られることから、桓武平氏とは無縁の氏族が後世になって仮冒したのではないかとの説が出ている[1]。
房総平氏
房総平氏(ぼうそうへいし)は、坂東八平氏の中で平忠常を祖とする氏族である。上総・下総に亘る房総半島に基盤を持ち、多くの氏族が輩出した。特に有名なのが上総氏と千葉氏である。なお、安房国にはその勢力が見られないことから、「両」総平氏と称すべきとの見解もある。平忠常は下総国相馬郡を拠点とし、上総・下総・常陸の広範囲に領土を有し、上総介、武蔵押領使 に任官した。これが房総平氏の発生である。さらに諸流派に分かれ、
主な一族に佐賀氏、上総氏、原氏、逸見氏、椎名氏、千葉氏とその支流相馬氏などがいる。
秩父平氏
秩父平氏(ちちぶへいし)は、坂東八平氏の中で平忠頼の子で、平将門の娘を母に持つ平将恒が武蔵国秩父郡において秩父氏を称したことに始まる。将恒の息子である秩父武基、秩父武常、小山田大夫常任(恒時とも)は前九年の役に従軍し、秩父武常と小山田常任は討ち死にした。秩父武基は秩父牧の別当職に就任。さらに秩父武基の息子である秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた石川有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで発展した。秩父平氏(秩父党)は源平の争乱において、初めは平家方に属して三浦氏の衣笠城を落とし源頼朝の進軍を妨げたが、後に頼朝に従って鎌倉幕府御家人となった。
主な一族には源平合戦で活躍した畠山氏とその支流の浄法寺氏や、小山田氏、稲毛氏、河越氏、キリシタン大名の高山右近を輩出した高山氏、江戸氏とその支流喜多見氏、蒲田氏などがいる。
脚注
- ^ 『姓氏家系大辞典 第二巻』、「平」の項(3584頁)。
参考文献
- 太田亮 『姓氏家系大辞典 第二巻』 角川書店 1963年、ISBN 4-04-030220-6