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初登板初勝利の新人投手について
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[[広島県立尾道商業高等学校|尾道商業高校]]では3年春の中国大会で優勝。[[日本体育大学硬式野球部|日本体育大学]]([[首都大学野球連盟]]所属・MVP・ベストナイン受賞)時代に通算31勝、[[1994年]]にマークした連続イニング無失点48回2/3は、[[2011年]][[菅野智之]]に破られるまで同リーグの記録だった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/04/26/kiji/K20110426000703430.html 53回連続0封!菅野、新記録も「信じられない」サヨナラ負け ― スポニチ ]</ref>。同年、大学野球日本代表に選出され、[[河原純一]]投手([[駒澤大学硬式野球部|駒大]])と二枚エースとして、[[日米大学野球選手権大会]]でMVPを獲得。[[1994年]][[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]で[[広島東洋カープ]]に同球団初の逆指名選手として入団。この年のドラフトは不作の年といわれ、[[富岡久貴]]([[東京ガス硬式野球部]])と[[河原純一]]([[駒澤大学]])と山内らが目玉選手だったが、地元出身選手をどうしても獲得したい広島・[[渡辺秀武]][[スカウト]]は、山内が大学4年に上がる前の3月に『今年のカープの1位は山内で行く!』と新聞マスコミに発表。山内はその後、日米大学野球でMVPを獲得するなど大活躍。すると読売ジャイアンツと[[中日ドラゴンズ]]が金銭面で好条件を突きつけたが、山内は広島入りした<ref>『[[野球小僧 (雑誌)|野球小僧]]、2006年12月号</ref>。
[[広島県立尾道商業高等学校|尾道商業高校]]では3年春の中国大会で優勝。[[日本体育大学硬式野球部|日本体育大学]]([[首都大学野球連盟]]所属・MVP・ベストナイン受賞)時代に通算31勝、[[1994年]]にマークした連続イニング無失点48回2/3は、[[2011年]][[菅野智之]]に破られるまで同リーグの記録だった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/04/26/kiji/K20110426000703430.html 53回連続0封!菅野、新記録も「信じられない」サヨナラ負け ― スポニチ ]</ref>。同年、大学野球日本代表に選出され、[[河原純一]]投手([[駒澤大学硬式野球部|駒大]])と二枚エースとして、[[日米大学野球選手権大会]]でMVPを獲得。[[1994年]][[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]で[[広島東洋カープ]]に同球団初の逆指名選手として入団。この年のドラフトは不作の年といわれ、[[富岡久貴]]([[東京ガス硬式野球部]])と[[河原純一]]([[駒澤大学]])と山内らが目玉選手だったが、地元出身選手をどうしても獲得したい広島・[[渡辺秀武]][[スカウト]]は、山内が大学4年に上がる前の3月に『今年のカープの1位は山内で行く!』と新聞マスコミに発表。山内はその後、日米大学野球でMVPを獲得するなど大活躍。すると読売ジャイアンツと[[中日ドラゴンズ]]が金銭面で好条件を突きつけたが、山内は広島入りした<ref>『[[野球小僧 (雑誌)|野球小僧]]、2006年12月号</ref>。


右肘を高く上げる独特の投球フォームが、[[ピンク・レディー]]の楽曲『[[UFO (ピンク・レディーの曲)|UFO]]』の振り付けに似ていたことから「'''UFO投法'''」のニックネームで親しまれた。[[1995年]]は初登板で初先発初勝利を挙げると、5月には4勝で[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を獲得。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場した。広島の新人として初登板初勝利を挙げた選手は、当時史上4人目であった<ref>[[杉浦竜太郎]]、[[大田垣喜夫]]、[[佐々岡真司]]に次いで山内が4人目。</ref>。[[2011年]]現在は8人が記録している<ref>山内の後、[[黒田博樹]]、[[小林幹英]](救援勝利)、[[齊藤悠葵]]、[[福井優也]]が記録した</ref>。
右肘を高く上げる独特の投球フォームが、[[ピンク・レディー]]の楽曲『[[UFO (ピンク・レディーの曲)|UFO]]』の振り付けに似ていたことから「'''UFO投法'''」のニックネームで親しまれた。[[1995年]]は初登板で初先発初勝利を挙げると、5月には4勝で[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を獲得。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場した。広島の新人として初登板初勝利を挙げた選手は、当時史上4人目であった<ref>[[杉浦竜太郎]]、[[大田垣喜夫]]、[[佐々岡真司]]に次いで山内が4人目。</ref>。[[2014年]]現在、9人が記録している<ref>山内の後、[[黒田博樹]]、[[小林幹英]](救援勝利)、[[齊藤悠葵]]、[[福井優也]]、[[九里亜蓮]]が記録した</ref>。


この年は14勝を挙げて[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に選ばれた。[[1996年]]も2桁勝利を挙げて活躍したが、故障の影響と変則投法を他球団に研究されたことで以降は成績が下がり、[[1999年]]に右肘を手術。その後は中継ぎなどで登板したが、全盛期の球威は戻らず29歳の若さで[[2002年]]シーズン終了後に引退した。現役時代、[[読売ジャイアンツ]]に対してはめっぽう強く、プロデビューからジャイアンツ戦無傷の10連勝という快挙を成し遂げ一時期ジャイアンツキラーと云われた。
この年は14勝を挙げて[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に選ばれた。[[1996年]]も2桁勝利を挙げて活躍したが、故障の影響と変則投法を他球団に研究されたことで以降は成績が下がり、[[1999年]]に右肘を手術。その後は中継ぎなどで登板したが、全盛期の球威は戻らず29歳の若さで[[2002年]]シーズン終了後に引退した。現役時代、[[読売ジャイアンツ]]に対してはめっぽう強く、プロデビューからジャイアンツ戦無傷の10連勝という快挙を成し遂げ一時期ジャイアンツキラーと云われた。

2014年9月21日 (日) 04:33時点における版

山内 泰幸
広島東洋カープ コーチ #80
2008年6月28日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県東広島市
生年月日 (1973-03-16) 1973年3月16日(51歳)
身長
体重
179 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1994年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 1995年4月11日
最終出場 2002年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 広島東洋カープ (2003 - )

山内 泰幸(やまうち やすゆき、1973年3月16日 - )は、広島県東広島市寺家出身の元プロ野球選手投手)・野球解説者。現在は、広島東洋カープの一軍投手コーチ。

来歴・人物

尾道商業高校では3年春の中国大会で優勝。日本体育大学首都大学野球連盟所属・MVP・ベストナイン受賞)時代に通算31勝、1994年にマークした連続イニング無失点48回2/3は、2011年菅野智之に破られるまで同リーグの記録だった[1]。同年、大学野球日本代表に選出され、河原純一投手(駒大)と二枚エースとして、日米大学野球選手権大会でMVPを獲得。1994年ドラフト広島東洋カープに同球団初の逆指名選手として入団。この年のドラフトは不作の年といわれ、富岡久貴東京ガス硬式野球部)と河原純一駒澤大学)と山内らが目玉選手だったが、地元出身選手をどうしても獲得したい広島・渡辺秀武スカウトは、山内が大学4年に上がる前の3月に『今年のカープの1位は山内で行く!』と新聞マスコミに発表。山内はその後、日米大学野球でMVPを獲得するなど大活躍。すると読売ジャイアンツと中日ドラゴンズが金銭面で好条件を突きつけたが、山内は広島入りした[2]

右肘を高く上げる独特の投球フォームが、ピンク・レディーの楽曲『UFO』の振り付けに似ていたことから「UFO投法」のニックネームで親しまれた。1995年は初登板で初先発初勝利を挙げると、5月には4勝で月間MVPを獲得。オールスターゲームにも出場した。広島の新人として初登板初勝利を挙げた選手は、当時史上4人目であった[3]2014年現在、9人が記録している[4]

この年は14勝を挙げて新人王に選ばれた。1996年も2桁勝利を挙げて活躍したが、故障の影響と変則投法を他球団に研究されたことで以降は成績が下がり、1999年に右肘を手術。その後は中継ぎなどで登板したが、全盛期の球威は戻らず29歳の若さで2002年シーズン終了後に引退した。現役時代、読売ジャイアンツに対してはめっぽう強く、プロデビューからジャイアンツ戦無傷の10連勝という快挙を成し遂げ一時期ジャイアンツキラーと云われた。

2003年から2005年まで3年間三軍投手コーチを務めた後、2006年から2009年までの4年間は二軍投手コーチを務め、2010年からは一軍投手コーチを務める。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1995 広島 34 21 5 1 1 14 10 0 -- .583 671 163.1 145 14 67 1 3 123 5 0 61 55 3.03 1.30
1996 46 10 2 2 0 11 8 0 -- .579 492 117.2 102 14 43 2 1 107 2 1 57 51 3.90 1.23
1997 28 25 3 1 1 7 11 0 -- .389 672 152.0 172 23 47 2 3 120 6 1 90 88 5.21 1.44
1998 27 15 2 0 0 4 7 0 -- .364 425 93.2 104 16 44 2 1 67 4 1 58 54 5.19 1.58
1999 17 7 0 0 0 4 4 0 -- .500 252 55.0 71 10 23 3 0 36 2 0 40 36 5.89 1.71
2000 9 9 2 0 0 2 1 0 -- .667 225 52.1 58 6 18 0 1 21 1 0 24 23 3.96 1.45
2001 20 5 0 0 0 3 3 1 -- .500 171 41.0 37 8 13 1 1 31 1 0 25 23 5.05 1.22
2002 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 2.0 3 0 0 0 0 3 0 0 1 1 4.50 1.50
通算:8年 184 92 14 4 2 45 44 1 -- .506 2916 677.0 692 91 255 11 10 508 21 3 356 331 4.40 1.40
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

  • 初登板・初勝利:1995年4月11日、阪神戦(甲子園)4-2 先発登板し、6回1/3を1失点
  • 初完投・初完封:1995年6月11日、ヤクルト戦(福島)2-0 被安打8 奪三振6 四死球4
  • オールスターゲーム出場:2回 (1995年、1997年)

背番号

  • 16 (1995年 - 2002年)
  • 80 (2003年 - )

関連情報

出演

三軍コーチ時代の2005年には広島テレビ(HTV)の番組「進め!スポーツ元気丸」のコメンテーターや同局ローカルプロ野球中継のゲスト解説で顔を出すことがあった。

これは、前年まで解説者として出演していた小林聖始中日ドラゴンズの投手コーチに就任し、読売ジャイアンツ投手コーチ辞任に伴い同局の解説者に復帰した池谷公二郎日本テレビ系列の全国中継も担当することから「進め!スポーツ元気丸」に出演できない場合があるために、広島の厚意もあり、三軍コーチのため通常ベンチ入りしない山内が抜擢されたものと思われる。なお、ローカル中継については、解説者起用に当たり日本テレビが広島テレビとの調整を図ったため、池谷が全て出演していた。

2006年には、山本浩二が広島監督辞任に伴い同局の解説者に復帰し、現役を引退した野村謙二郎も解説者に加わり、人的な余裕が出来たこと(2人とも、池谷同様日本テレビ兼任)、二軍コーチへの異動に伴いコーチ業に専念するため番組を降板している。

脚注

関連項目

外部リンク