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来日1年目は、長身から投げ下ろす[[速球]]と[[親指]]と[[人差し指]]ではさむ独特の[[フォークボール]]を武器に14勝を挙げ、4試合連続2ケタ奪三振も記録し、[[最優秀防御率]]のタイトルを獲得するなど、前評判の悪かったヤクルトを日本一に導く原動力となる。同年[[9月9日]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成し([[大森剛]]への[[死球]]で[[完全試合]]は逃した)、これによって巨人の自力優勝が消滅した。[[9月30日]]、本拠地・[[明治神宮野球場|神宮球場]]での巨人戦で完封勝利し胴上げ投手となった。このように、'''この年の巨人戦にはめっぽう強く、5勝0敗防御率0.23'''(39回1/3で失点は[[後藤孝志]]のプロ初本塁打(ソロ)のみ)とカモにした。 |
来日1年目は、長身から投げ下ろす[[速球]]と[[親指]]と[[人差し指]]ではさむ独特の[[フォークボール]]を武器に14勝を挙げ、4試合連続2ケタ奪三振も記録し、[[最優秀防御率]]のタイトルを獲得するなど、前評判の悪かったヤクルトを日本一に導く原動力となる。同年[[9月9日]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成し([[大森剛]]への[[死球]]で[[完全試合]]は逃した)、これによって巨人の自力優勝が消滅した。[[9月30日]]、本拠地・[[明治神宮野球場|神宮球場]]での巨人戦で完封勝利し胴上げ投手となった。このように、'''この年の巨人戦にはめっぽう強く、5勝0敗防御率0.23'''(39回1/3で失点は[[後藤孝志]]のプロ初本塁打(ソロ)のみ)とカモにした。 |
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2年目以降は、上から投げ下ろす投球フォームゆえにモーションを盗まれることが多く、打球処理が苦手という弱点を突かれるようになり、故障の影響も響き成績は低迷した。ヤクルト時代、ベンチから[[故意四球|敬遠]]の指示を受けたが「(暴投などをせずに指示通り敬遠をする)自信がない」と敬遠を拒否したことがある。 |
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現在は、[[アリゾナ州]]にあるスポーツ・マネジメント会社 Gaylord Sports Management で[[代理人]]として活動している。主なクライアントは[[ブライアン・アンダーソン (外野手)|ブライアン・アンダーソン]]、[[ブロンソン・アローヨ]]、[[ビル・ホール]]、[[D.J.カラスコ]]、[[ダーネル・マクドナルド]]、[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]など。 |
現在は、[[アリゾナ州]]にあるスポーツ・マネジメント会社 Gaylord Sports Management で[[代理人]]として活動している。主なクライアントは[[ブライアン・アンダーソン (外野手)|ブライアン・アンダーソン]]、[[ブロンソン・アローヨ]]、[[ビル・ホール]]、[[D.J.カラスコ]]、[[ダーネル・マクドナルド]]、[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]など。 |
2014年5月16日 (金) 06:07時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州エルパソ |
生年月日 | 1966年3月30日(58歳) |
身長 体重 |
6' 9" =約205.7 cm 234 lb =約106.1 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1987年 MLBドラフト13巡目 |
初出場 |
MLB / 1991年9月4日 NPB / 1995年4月9日 |
最終出場 |
MLB / 1993年9月14日 NPB / 1998年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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テリー・ブロス(Terrence Paul "Terry" Bross、1966年3月30日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
セント・ジョーンズ大学時代は野球とバスケットボールで活躍。
1987年のMLBドラフト13巡目でニューヨーク・メッツに入団。1991年にメジャーデビューし、同年は8試合に登板。
その後、1993年にサンフランシスコ・ジャイアンツで2試合登板。メジャー通算成績は10試合で計12イニングを投げ、0勝0敗0セーブ、防御率3.00。
1995年に来日してヤクルトスワローズに入団。入団時に年俸4000万円と聞いて「そんなにもらえるのか」と驚いたというほど、当時にしては珍しいハングリー精神の持ち主であった。
来日1年目は、長身から投げ下ろす速球と親指と人差し指ではさむ独特のフォークボールを武器に14勝を挙げ、4試合連続2ケタ奪三振も記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、前評判の悪かったヤクルトを日本一に導く原動力となる。同年9月9日、巨人戦でノーヒットノーランを達成し(大森剛への死球で完全試合は逃した)、これによって巨人の自力優勝が消滅した。9月30日、本拠地・神宮球場での巨人戦で完封勝利し胴上げ投手となった。このように、この年の巨人戦にはめっぽう強く、5勝0敗防御率0.23(39回1/3で失点は後藤孝志のプロ初本塁打(ソロ)のみ)とカモにした。
2年目以降は、上から投げ下ろす投球フォームゆえにモーションを盗まれることが多く、打球処理が苦手という弱点を突かれるようになり、故障の影響も響き成績は低迷した。ヤクルト時代、ベンチから敬遠の指示を受けたが「(暴投などをせずに指示通り敬遠をする)自信がない」と敬遠を拒否したことがある。
1998年に西武ライオンズに移籍するが活躍することは出来ず、翌1999年は一軍登板のないまま退団した。
現在は、アリゾナ州にあるスポーツ・マネジメント会社 Gaylord Sports Management で代理人として活動している。主なクライアントはブライアン・アンダーソン、ブロンソン・アローヨ、ビル・ホール、D.J.カラスコ、ダーネル・マクドナルド、ルイス・ゴンザレスなど。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | NYM | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 39 | 10.0 | 7 | 1 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1.80 | 1.00 |
1993 | SF | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 10 | 2.0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 2 | 9.00 | 2.00 |
1995 | ヤクルト | 32 | 24 | 5 | 3 | 0 | 14 | 5 | 0 | -- | .737 | 646 | 162.1 | 114 | 6 | 57 | 0 | 3 | 139 | 9 | 1 | 43 | 42 | 2.33 | 1.05 |
1996 | 23 | 21 | 2 | 1 | 0 | 7 | 12 | 0 | -- | .368 | 571 | 137.0 | 115 | 16 | 43 | 1 | 3 | 97 | 5 | 0 | 61 | 55 | 3.61 | 1.15 | |
1997 | 23 | 21 | 0 | 0 | 0 | 7 | 8 | 0 | -- | .467 | 524 | 115.1 | 129 | 16 | 56 | 0 | 0 | 89 | 5 | 1 | 73 | 64 | 4.99 | 1.60 | |
1998 | 西武 | 11 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 179 | 45.1 | 35 | 9 | 23 | 0 | 1 | 28 | 3 | 1 | 28 | 27 | 5.74 | 1.28 |
MLB:2年 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 49 | 12.0 | 10 | 2 | 4 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3.00 | 1.17 | |
NPB:4年 | 89 | 73 | 7 | 4 | 0 | 30 | 28 | 0 | -- | .517 | 1920 | 457.0 | 393 | 47 | 179 | 1 | 7 | 353 | 22 | 3 | 205 | 188 | 3.70 | 1.25 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀防御率:1回 (1995年)
表彰
記録
- NPB
- 初登板・初先発・初勝利:1995年4月9日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、5回1失点
- 初完投勝利:1995年4月30日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
- 初完封:1995年8月19日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)
- ノーヒットノーラン:1回 (1995年9月9日、対読売ジャイアンツ22回戦、東京ドーム) ※史上62人目
背番号
- 46 (1991年)
- 37 (1993年)
- 24 (1995年入団時。3月に吉井理人が入団して24を着けたため、29に変更)
- 29 (1995年 - 1997年)
- 33 (1998年 - 1999年)
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- Gaylord Sports Management