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行動隊の6人が、14階マイクロ通信室の[[ベランダ]]を占拠し、[[赤旗]]を垂らすなどしたのち、そこから[[パラボラアンテナ]]の鉄骨をよじ登った。16階のテラスにたどり着くと、管制室の窓ガラスを[[バール]]で破壊してそこから室内に侵入した。なお、機動隊員7人が行動隊よりも先にテラスにいたが、反対側にいたため事態に気づかず降りてしまい、侵入を防ぐことができなかった<ref> 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、258頁</ref>。 |
行動隊の6人が、14階マイクロ通信室の[[ベランダ]]を占拠し、[[赤旗]]を垂らすなどしたのち、そこから[[パラボラアンテナ]]の鉄骨をよじ登った。16階のテラスにたどり着くと、管制室の窓ガラスを[[バール]]で破壊してそこから室内に侵入した。なお、機動隊員7人が行動隊よりも先にテラスにいたが、反対側にいたため事態に気づかず降りてしまい、侵入を防ぐことができなかった<ref> 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、258頁</ref>。 |
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管制塔の占拠に成功した行動隊は、管制室内のあらゆる管制用機器を破壊し、管制室にあった書類を割れた窓から外にばら撒くなどした。このため[[航空交通管制]]や[[飛行計画]]を送る |
管制塔の占拠に成功した行動隊は、管制室内のあらゆる管制用機器を破壊し、管制室にあった書類を割れた窓から外にばら撒くなどした。このため[[航空交通管制]]や[[飛行計画]]を送る[[無線設備]]などが作動不能となり、開港予定日までには到底修復しえない状態となった。 |
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その間に管制官らは、管制塔上空に駆けつけた[[警視庁]]の[[ヘリコプター]]から垂らしたハーネスで吊り上げられて、管制塔屋上から脱出したが、行動隊は[[人質]]を捕る事を厳しく禁じられていたため、これを見逃した。 |
その間に管制官らは、管制塔上空に駆けつけた[[警視庁]]の[[ヘリコプター]]から垂らしたハーネスで吊り上げられて、管制塔屋上から脱出したが、行動隊は[[人質]]を捕る事を厳しく禁じられていたため、これを見逃した。 |
2017年8月2日 (水) 04:33時点における版
成田空港管制塔占拠事件 | |
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事件現場となった新東京国際空港管制塔 | |
場所 | 日本 千葉県成田市 |
座標 | |
標的 | 新東京国際空港管制塔 |
日付 |
1978年(昭和53年)3月26日 1978年3月25日夜 – 1978年3月26日夕方 (日本標準時) |
概要 | 新東京国際空港の管制塔を占拠し、管制機器をバールで破壊した。 |
攻撃手段 | 空港にある地下排水溝を使い空港管理棟へ移動し、そして管制塔へと突入し占拠した。 |
攻撃側人数 | 22人 |
武器 | バール |
死亡者 | 1人(第四インターの活動家) |
負傷者 | 多数 |
行方不明者 | 0人 |
被害者 | 新東京国際空港公団 |
損害 |
新東京国際空港の管制機能が不能に陥り、1978年3月30日開港が不可能となった。 新東京国際空港の開港が1978年5月20日に遅れた。 |
犯人 | 15名 |
容疑 | 和多田粂夫、前田道彦、佐藤一郎、原勲など |
動機 | 新東京国際空港の開設を阻止するため。 |
関与者 |
三里塚芝山連合空港反対同盟 第四インターナショナル日本支部 共産主義者同盟戦旗派 共産主義労働者党 |
防御者 |
警察庁 警視庁 千葉県警察 福岡県警察など |
対処 |
活動家168人を逮捕 新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法の制定 |
謝罪 | なし |
賠償 | 4384万円(利息を含めて計1億300万円)を賠償金として法務省に支払った。 |
成田空港管制塔占拠事件(なりたくうこうかんせいとうせんきょじけん)[1]とは、1978年(昭和53年)3月26日に発生した、空港反対派農民を支援する極左暴力集団が集団的実力闘争を行い、開港間近の新東京国際空港(現:成田国際空港)に乱入して管制塔の機器等の破壊活動を行った事件である。この事件により、新東京国際空港の開港が約2か月遅れ、同年5月20日となった。
事件の経緯
1976年に福田赳夫内閣が成立。「内政の最重要課題として成田開港に取り組む」と表明し、1977年11月に開港予定日を1978年3月30日とした。
それに対して三里塚芝山連合空港反対同盟と支援グループは「開港絶対阻止」を掲げて、政府への対決姿勢を示した。支援グループのうちの新左翼党派である第四インター[2]は、「空港包囲・突入・占拠」による開港阻止の計画を固めるとともに「福田政府打倒」をスローガンに掲げ、「三里塚を闘う青年学生共闘」を結成。プロ青同[3]も「三里塚を闘う青年先鋒隊」、共産主義者同盟戦旗派(荒派)は「労共闘」を組織し、「1978年3月30日開港阻止」を企て、取り組みを強めていった。1977年5月6日の「岩山大鉄塔抜き打ち撤去」の抗議として空港旧第5ゲート周辺で空港反対派と機動隊が大規模に衝突した5月8日のいわゆる「5.8闘争」[4]や、翌年2月の芝山町横堀(よこぼり)地区のB滑走路南端アプローチエリア予定地に航空妨害を目的に当時の金額で一億円をかけて建設した「横堀要塞」における篭城戦の前面に立っていく。
第四インターの三里塚現地闘争団の指導的幹部の一人だった和多田粂夫は、空港各所でのゲリラおよび大衆的な空港包囲・突入闘争と連動して地下排水溝から空港敷地に潜入し、管理棟に附属する管制塔へと突入、これを占拠する作戦を立案する。第四インターが立案したこの作戦に、共産主義者同盟戦旗派(荒派)と共産主義労働者党は、呼びかけにこたえ、三派共同の行動として空港突入が準備された。この三派はヘルメットが共に赤色だったため、「赤ヘル三派」とも呼ばれた。
3月25日夜、「赤ヘル三派」から選抜された前田道彦をリーダーとする22人編成[5]の行動隊が、排水溝から空港内への突入を図る。排水溝に入る際に7人が機動隊に捕捉され[6]排水溝に入れなかった。排水溝から空港内に潜入した15人は、翌日午後1時を期して地上に突入するべく排水溝内で夜を過ごす。
3月26日午前9時半、成田空港開港にともない移転廃校となった旧芝山町立菱田小学校跡地にて、「赤ヘル三派」や黄色いヘルメットの部落解放同盟の青年部隊約1000人等を中心とする「開港阻止決戦・空港包囲大行動 総決起集会」が4000人の参加で開催された(三里塚「廃港」要求宣言の会、三里塚闘争に連帯する会、三月開港阻止労働者現地行動調整委員会の三者共催)。同日正午から三里塚芝山連合空港反対同盟主催の集会が三里塚第一公園で予定されていたことから、「分裂集会」という批判も他の新左翼党派などから寄せられたが、反対同盟幹部(代表の戸村一作、行動隊長の熱田一、婦人行動隊長の長谷川たけ、同副隊長の小川むつ)や、部落解放同盟中央統制委員長の米田富などは批判を無視して、この「空港突入総決起集会」で発言する。また、沖縄で石油備蓄基地=CTS建設反対運動を行っていた「金武湾を守る会」も登壇して連帯の挨拶を行った。参加者たちは集会後、正午前後に空港に向けて移動を始めた。
またこれとは別に、前日から再び「横堀要塞」に立て篭もって[7]、機動隊との攻防を開始する部隊もあった。
空港は内部への過激派侵入を防ぐため周囲を囲む高さ3mのネットフェンスと9カ所のゲートにより厳重に守られていたうえ、全国から動員した1万4千人の機動隊及び空港公団が配置した警備員による警備体制を敷いていた。これに対して和多田は機動隊の主力を空港敷地外の「要塞戦」などに分散させ、その隙を突いて手薄になった空港を包囲・突入し、管制塔を占拠する作戦を立てていた。
管制塔占拠
菱田小学校跡地を出た集団は、横堀要塞の支援に向かうグループ、東側に10キロメートルほど迂回して第8ゲートからの空港への突入を目指すグループ、空港東側旧第6ゲート方向(現芝山千代田駅方向)へ迂回するグループの三集団に別れた。
「横堀要塞」周辺は千葉県警察機動隊など、反対同盟主催の決起集会会場に近い空港西側は警視庁機動隊などが警備にあたり、管制塔周辺などの空港中枢部は、九州管区動員の福岡県警察などが警備にあたっていた。
午後1時前には横堀要塞近くでデモ隊が火炎瓶などで機動隊と衝突、同じ頃、空港東側の航空保安協会研修センターや空港旧第6ゲートなども攻撃された。
東峰十字路周辺では県道を封鎖するようにトラックを放置し、これに放火した。
直後に陽動部隊として活動家や火炎瓶と廃油入りのドラム缶を積載したトラック2台がパトカーを火炎瓶などで追い立てるかたちで空港に向かった。トラックはパトカーに乗っていた警官からの拳銃射撃を受けつつも、旧第9ゲートに逃げ込んだパトカーに続いて空港内へ突入した。活動家が荷台から火炎瓶を投げつつトラックは更に門扉を破壊して管制塔のある管理棟ビル敷地に突っ込んでいったが、搭載していたドラム缶が倒れて引火し、炎上した荷台に乗っていた活動家が巻き込まれた。
同時刻に突入予定の第8ゲート部隊は、横堀要塞を大きく東に迂回する中で遅れ、午後1時20分頃、横堀要塞北側の松翁交差点で要塞包囲の千葉県警察機動隊と衝突した。
一方、午後1時5分頃、地下の赤ヘル部隊15人が京成成田空港駅(この時点では開業前。現・東成田駅)近くのマンホールから空港内道路に這い出した。直後、数人の制服警官が発見し「(空港構内から)出ろ!出ろ!」と、赤ヘル部隊に拳銃を向けたものの、最後の1人がマンホールを出た瞬間に「走れ!」と赤ヘル部隊が号令を出して逃走し、警察官からの発砲は一発もなかった。赤ヘル部隊と警官が衝突する中、警官の後方では、第9ゲート部隊のトラックに対処すべく、機動隊の部隊が走り抜けていった。赤ヘル部隊は、拳銃を向けた警官の追跡を強引に振り切って、新東京国際空港管理棟敷地内に突入した。
同じ頃、管理棟玄関前は、第9ゲート部隊のトラックの炎上と消火作業・逮捕活動によって混乱していた。その隙をつき行動隊は管理棟へ侵入した。行動隊のうち5人が殿となり、管制塔1階で警官・機動隊と対峙して時間を稼ぐ中、10人がマスメディアが降りてきたエレベーターを使い、乗り継いで上層階へ向かった後、管制室につながる階段を駆け上った。
管制塔15階へ登る途中に、施錠された鉄製の扉があり、更に勤務していた航空管制官が、中でバリケードを築いたため、扉をこじ開ける事が出来ず、行動隊は火炎瓶を投げつけて、これを延焼させた。管制室に火災の煙が充満したため、中に居た管制官5人は、非常用ハッチで屋上への脱出を余儀なくされた。
行動隊の6人が、14階マイクロ通信室のベランダを占拠し、赤旗を垂らすなどしたのち、そこからパラボラアンテナの鉄骨をよじ登った。16階のテラスにたどり着くと、管制室の窓ガラスをバールで破壊してそこから室内に侵入した。なお、機動隊員7人が行動隊よりも先にテラスにいたが、反対側にいたため事態に気づかず降りてしまい、侵入を防ぐことができなかった[8]。 管制塔の占拠に成功した行動隊は、管制室内のあらゆる管制用機器を破壊し、管制室にあった書類を割れた窓から外にばら撒くなどした。このため航空交通管制や飛行計画を送る無線設備などが作動不能となり、開港予定日までには到底修復しえない状態となった。
その間に管制官らは、管制塔上空に駆けつけた警視庁のヘリコプターから垂らしたハーネスで吊り上げられて、管制塔屋上から脱出したが、行動隊は人質を捕る事を厳しく禁じられていたため、これを見逃した。
第9ゲート突入と管理棟ビル敷地内でのトラック炎上、続く行動隊の管制室占拠により、管理棟に隣接する新東京国際空港警察署内にあった警備本部が算を乱して避難してしまったうえ、反対派が妨害電波に乗せてピンク・レディーの曲を流したために、警察無線が使えなくなり、警備側の指揮系統は極度の混乱に陥った。
午後1時40分頃[9]、第8ゲート部隊も松翁交差点から機動隊宿舎の横を抜けてゲートまで到着し、部隊の先頭に配置していたスクレイパーを装着した改造トラックでゲートを破壊・突破すると、300人の部隊が指揮者の号令の下、空港の奥深くまで雪崩込んだ。空港内の各所で火炎瓶が投げられ、これに対して機動隊の隊列に並んで空港署の制服警官が拳銃を構えて応戦する事態となった。
管理棟周辺での数十分の衝突ののち、反対派の大部隊の多くは第8ゲートから空港敷地外へ撤収した。行動隊ではまず管制塔1階組が制服警官らによって逮捕された。この時、警官1人が火炎瓶で火傷を負った[10]。夕方になって、管制室の6人、14階の4人も逮捕された。管制室の行動隊員たちは、窓を割って管制室に突入した機動隊員を前に、全員で腕組みをし、革命歌『インターナショナル』を合唱しながら逮捕された。
最終的に逮捕者は、管制塔突入部隊、空港突入の大部隊、「横堀要塞」篭城部隊[11]、空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて計168人に及んだ。
陽動部隊のトラックに乗っていた、活動家の1人である山形大学生の新山幸男は、荷台炎上に巻き込まれて自らの服に引火して、大やけどを負ったまま逮捕されたが、2ヵ月後に死亡する。
また、同時刻頃、三里塚第一公園では三里塚芝山連合空港反対同盟主催の集会が開催され、15000人が結集していた。2時過ぎには集会を打ち切り、集会参加者は機動隊などの規制を受けぬままデモ行進に出発する。反対同盟の青年行動隊は、この集会に参加していた中核派などの新左翼党派に空港に突入するよう要請したが聞き入れられず、全体のデモ隊は空港の南北にわかれて空港フェンス沿いの枯れ草を放火しながら移動した。一部は、空港内で機動隊と衝突し、引き上げてきた部隊と合流した。
余波
内閣総理大臣福田赳夫はこの事態を「残念至極」と語り、3月28日の新東京国際空港関係閣僚会議で3月30日開港の延期が正式決定された。運輸大臣福永健司が発表すると同時に、運輸省が新空港開港延期に関わるノータムを全世界の航空関係機関に発出した。
当然、航空関係の事業者や利用者は多大な影響を被ることとなったが、空港公団の用地交渉に応じて移転に際して離農した元農民らは第二の働き口として店舗営業や警備業等の空港関連事業に就いたものが多く、開港の延期はその出鼻をくじいた形となった。
日本国政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」を制定したほか、国会においても「新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法」(現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)が議員立法により成立した。
この管制塔の占拠を実行し、3月30日開港を文字通り「粉砕」した闘争について、革マル派は「福田を追い落とすために仕組まれた自民党内部の抗争を反映した警察の不作為の作為による陰謀事件」と機関紙『解放』で論評した。あるいは日本共産党は「政府・警察のトロツキスト泳がせ政策の結果であり、成田空港は"ハイジャック予備軍"に包囲された空港になってしまった」と政府を非難し、「団結小屋の全面撤去と"トロツキスト暴力集団"の徹底取締り」を要求した。共産党の機関紙『しんぶん赤旗』では、推理小説家小林久三が「ほとんど、なすがままに暴力集団の侵入を許した警察の動きはなんだったのか」と思わせぶりなコメントを寄せた。当時革マル派との「内ゲバ戦争」を優先して、「集団戦」ではなく主に空港施設へのゲリラを戦術にしていた中核派は、この管制塔占拠を当初は称賛するが、1980年代に入り三里塚闘争の方針をめぐって第四インターとの対立を深めると「"管制塔占拠"は機動隊に追われ逃げ込んだ先にたまたま管理棟があっただけの偶然の産物」と一転して否定的な評価を下すようになる。
一方で、事件当日は開港直前の施設[12]を取材するために来ていた多数のマスコミが現場におり、襲撃の様子は全世界に発信された。ソ連のタス通信(現イタルタス通信)は、この事件に関して「日本の全進歩勢力は、成田空港に反対している」と配信し、ソ連国営放送の報道でも空港反対派に肯定的なニュアンスで反対派と機動隊の衝突場面を何度も流した。イギリスの『ガーディアン』紙は「世界で最も血塗られた空港。こんな空港の開港を見届けたいと思っているのは福田内閣だけ」と日本国政府を批判した。また、当時レバノンのPLOキャンプを取材していたジャーナリストの広河隆一は、「管制塔占拠」の報を聞いたパレスチナのゲリラ戦士たちが、歓喜の声とともに空に祝砲を撃ったことを目撃している。もっともPLO日本事務所は1978年4月に「ナリタで起こっていることとパレスチナの問題はなんらの関連も共通点もない」とする声明を発表した。
1971年頃には三里塚現地闘争に駆けつけた経験もある漫画家赤塚不二夫は、1978年当時週刊文春で連載していた『ギャグゲリラ』において、成田闘争をモチーフにして空港反対運動に好意的な作品を管制塔占拠事件の前後短期間に6本掲載している。また、作曲家の高橋悠治は、「管制塔占拠」をニュースでみて即興で『管制塔のうた』を作詞・作曲したという。この曲は、「関西三里塚闘争に連帯する会」が製作した「管制塔占拠闘争」の記録映画『大義の春』で使用され、映画中では中山千夏が歌っている(下記リンク参照)。
第四インターの現地闘争指導部にいた柘植洋三が明かしたことによると、桜田武日本経済団体連合会(経団連)専務理事は、労働運動家である西村卓司に「(問題の根本は)政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らか(略)解決の道を政府にも強く要求仕る所存に候」と手紙を書き、西村を通じて「休戦」を含めた事態の収拾のために反対同盟代表の戸村一作に会談を申し入れていた。会談は実現して、戸村ら数人の反対同盟幹部と経団連側は土光敏夫経団連会頭、中山素平興業銀行頭取、今里廣記日本経済団体連合会広報委員長、秦野章参議院議員、五島昇日本商工会議所会頭が出席した。この会談で「5月20日再開港一年延期による休戦」で合意し、財界が福田内閣にこの合意の実現のために働きかける、とした。しかし、この合意は5月10日に行われた福永運輸相と戸村代表の会談(この会談自体は平行線のまま終わる)によって、無力化することになった(柘植洋三『3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末』)。
5月20日の「出直し開港」の日にも、「滑走路人民占拠」をスローガンにした「赤ヘル三派」を中心に空港周辺の各所で空港反対派が機動隊と衝突したが侵入を阻止され、成田空港は開港した。反対同盟は「100日戦闘宣言」を発し、開港後もアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やして黒煙を上げるなどして、しばし航空ダイヤを乱す妨害活動を行った。
管制塔を占拠した15人と計画立案した和多田、共産同戦旗派の首謀者と認定された佐藤一郎は起訴され、全体計画の首謀者に認定された和多田と行動隊リーダーの前田が航空危険罪などで10年以上の懲役をはじめ、全員が懲役の実刑判決を受け、刑務所で服役した後、刑期満了で全員が出所した。被告の1人である原勲は、1982年4月に長期拘禁からくるノイローゼの発作によって、釈放された数日後に自殺した。
また、1995年(平成7年)に確定した空港公団(当時)による損害賠償請求に対して、元被告側は、確定判決を無視して支払いを拒否し続け、損害賠償請求額4384万円に対して利息が5916万円と、計1億300万円にまで膨らんでいった。時効直前の2005年(平成17年)より、給与差し押さえなどの形で強制執行が開始されると、元被告たちは再び結集し、支援者たちと7月から「1億円カンパ運動」を開始。インターネットのウェブサイトを主な媒体にして、かつての活動家世代を中心に、11月までに延べ2千人から1億300万円のカンパ(ただし内訳は、カンパの半分強は16人を含めて関わった諸組織が呼びかけて集約したもの)を集め、11月11日に法務省で完済した[13]。
その他
- 1968年(昭和43年)2月26日に、成田市の新東京国際空港公団分室の前で、三派全学連と機動隊が衝突した際、混乱の隙をついて空港反対派農民2人が「トイレを貸してくれ」と公団分室に侵入して、空港の設計図面を盗み取っていた。この2人は空港建設現場を常時観察し、図面通りに建設しているか確認して、管理棟・管制塔に続く地下道の存在を察知した。農民がこの事を明かしたときに「管制塔占拠」のアイデアが生まれた。
- 当時37歳の和多田粂夫は、60年安保闘争以来の活動家で第四インターの現地闘争団キャップだった。和多田は事件後1年ほど潜伏していたが、別の被告が当事件の裁判を受けていた東京地方裁判所の傍聴席から、自ら名乗り出て逮捕された[14]。「首謀者」として、被告の中で最も重い12年の懲役刑を刑務所で服役して、1992年(平成4年)に出所した。
- 前田道彦は当時26歳で、第四インターの花形活動家だった。16歳頃から街頭闘争に参加していた。空港反対同盟が協力し、学生インター(第四インターの青年組織・共産青年同盟の前身組織の一つ)が組織的にエキストラ出演した足尾鉱毒事件と谷中村の闘いを描いた日本映画『襤褸の旗』(1974年(昭和49年) 監督:吉村公三郎 主演:三國連太郎、西田敏行)で、上京して窮状を訴えようとする農民を弾圧する警官役を演じた。1975年(昭和50年)に、第四インターが「ベトナム革命勝利連帯」を掲げて行った『外務省突入占拠闘争』でも、1年刑務所に服役している。
- この事件で死亡した新山幸男は、当時24歳で第四インター山形大班のキャップだった。活動家として組織内および周辺の学生には「山大のトロツキー」と呼ばれ、山形大で対立していた日本民主青年同盟(民青)には、「ゲバトロ新山」と怖れられていた。当時山形大学で多数派だった民青を制し、少数派だった第四インターの「学内ストライキ」を提起する議案が、学生多数に支持されて可決することもあった。新山は民青のメンバーを暴行したことがあり、組織内の批判に対して「論破してから殴ったのだから内ゲバにはあたらない」とうそぶき、開き直っていた。新山の死後、山形大学で活動をともにしていた管制塔被告の1人である小泉恵司は、裁判で「新山の行為は誤りだった」と批判している。
- 事件のため、郵政省が空港開港日の3月30日に予定していた記念切手の発行を延期した。しかし成田郵便局では、初日カバーの特印押印作業を進めていたことから、3月30日の日付印が問題になった。そのため、初日カバーの製作依頼者に代品の手配や実費の負担などによって所有権を移転したうえで、全部焼却処分にし、多額の損失を被った。結局切手は5月20日に発行されたが、成田郵便局は無事に発行したことを確認してから押印作業を始めた。
- 管制塔占拠事件の前日である、3月25日に行われた警察の作戦会議において、叩き上げのノンキャリアである中村安雄千葉県警察本部長は、現場のプロフェッショナルの判断として、成田空港管制塔の主力警備を主張したが、警察庁警備局のキャリア官僚たちは『団結小屋の警備』を頑なに主張して譲歩しなかった。結局、中村本部長が「それは本庁のご命令でしょうか」と言って、口を閉ざしたという。その結果、警察は過激派の陽動作戦に引っ掛かった形で「横堀要塞」に精鋭部隊を割き、その穴を埋める形で、成田空港内の警備を主に地方から召集された部隊が担うこととなり、そのことが過激派の空港敷地内侵入を許し、管制塔を破壊される要因の一つとなってしまった[15]。
- 第4インター・共青同やプロレタリア青年同盟青年先鋒隊は、ヘルメットのマークや文字を個人特定されないため、シールタイプを採用した(戦旗派は不明)。
- 管制塔を占拠した赤ヘル三派のうち、プロ青同・戦旗派は、管制塔のデッキに自党派の旗を出しアピールすることができたが、第4インター・共青同は旗が無く、管制塔の窓ガラスに、自分達のシンボルである鎌と槌を描いた。
- 地下道のマンホールから過激派の侵入を許した本事件の教訓から、新東京国際空港周辺ではマンホールや排水溝の蓋に至るまで内側から開けられない様に鉄板を溶接する措置が講じられた。
- 事件現場となった管制塔16階は、航空管制官業務が1993年(平成5年)に同じ敷地内に建設された新管制塔に移行してからは、公団職員(現・成田国際空港株式会社社員)が駐機場内の航空機の誘導を行うランプコントロール業務に用いられている。その旧管制塔も、2018年に新ランプタワーが完成した後に解体・撤去される予定である[16]。
脚注
- ^ 成田空港反対派は「管制塔占拠闘争」や「3.26闘争」と称する。警察側では「成田空港管制塔乱入事件」と称する場合がある。
- ^ 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)
- ^ 共産主義労働者党の集団
- ^ ノンセクトの支援者だった東山薫が機動隊のガス弾を頭部に受け死亡
- ^ ベトナム戦争における1968年のテト攻勢の際、アメリカ合衆国大使館占拠事件を実行した南ベトナム解放民族戦線部隊の人数になぞらえたもの。
- ^ うち1人がその場で逮捕、6人は逃れて翌日の第8ゲート突入部隊に参加して港内で逮捕される
- ^ 空港反対同盟幹部の石井武実行役員、北原鉱治事務局長、秋葉哲救援部長らも支援者とともに立て篭もった
- ^ 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、258頁
- ^ この時点で、管制塔は既に占拠されている。
- ^ 被告たちは「床に置いた火炎瓶に警官が足を引っ掛けて炎上させた結果」と主張している。なお『大義の春』にもその炎上の瞬間が記録されているが、火炎瓶自体が映っていないため、どちらの主張が正しいか確認できない。
- ^ 28日にあらかじめ掘ったトンネルから脱出を図るが、掘削の方向を間違えて脱出に失敗し、反対同盟と支援者の41人全員が逮捕された。前日に反対同盟北原・石井および支援者7人が逮捕されている
- ^ コンピュータ処理によって音片を合成した搭乗案内予行演習の声が旅客ターミナルに響くなど、既に空港内部では開港ムードが漂い始めていた。
- ^ 元被告たちは、このカンパ運動を「1億円叩きつけ行動」と称している
- ^ 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、27頁
- ^ 小林道雄『日本警察腐敗の構造』ちくま文庫 p107
- ^ “成田空港の旧管制塔撤去へ 開港直前の1978年 過激派占拠事件があった”. 産経新聞 (産経新聞社). (2016年4月28日) 2017年3月14日閲覧。
参考文献
- 三里塚管制塔被告団 編著『管制塔ただいま、占拠中!被告たちの三里塚三・二六闘争』(柘植書房、1988年)ISBN 4-8068-0171-2
関連項目
外部リンク
- 成田空港 開港 - NHKニュース - NHKアーカイブス
- 旗旗 三里塚(成田)空港への突入・占拠の瞬間 - 映画『大義の春』DVD版宣伝用編集動画