コンテンツにスキップ

「勝鬨橋」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Beagle (会話 | 投稿記録)
m →‎歴史: 1回あたりの跳開時間
Beagle (会話 | 投稿記録)
m →‎歴史: 回数補足、段落入れ替え
11行目: 11行目:
明治期より架橋の計画は何度かあったものの実現せずにいた。[[1905年]]([[明治]]38年)1月18日、[[日露戦争]]における旅順陥落祝勝記念として有志により「[[隅田川の渡し|勝鬨の渡し]]」が設置された。[[築地]]と、対岸の[[月島]]の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島には[[石川島播磨重工業|石川島造船所]]の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、[[1929年]]([[昭和]]4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によりようやく架橋が実現することとなった。
明治期より架橋の計画は何度かあったものの実現せずにいた。[[1905年]]([[明治]]38年)1月18日、[[日露戦争]]における旅順陥落祝勝記念として有志により「[[隅田川の渡し|勝鬨の渡し]]」が設置された。[[築地]]と、対岸の[[月島]]の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島には[[石川島播磨重工業|石川島造船所]]の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、[[1929年]]([[昭和]]4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によりようやく架橋が実現することとなった。


建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航可能とした。高架橋とする案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。
勝鬨橋の工事は[[1933年]]に着工し、[[1940年]]に完成を見た。1940年に「[[神武天皇即位紀元|皇紀]]2600年」を記念して月島地区で開催予定であった[[国際博覧会]]へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工を行った。結果的に博覧会は[[日中戦争]]の激化などもあって軍部の反対により中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、[[1947年]]から[[1968年]]まで橋上を[[東京都電|都電]]が通行していた。


勝鬨橋の工事は[[1933年]]に着工し、[[1940年]]に完成を見た。1940年に「[[神武天皇即位紀元|皇紀]]2600年」を記念して月島地区で開催予定であった[[国際博覧会]]へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工を行った。結果的に博覧会は[[日中戦争]]の激化などもあって軍部の反対により中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、[[1947年]]から[[1968年]]まで橋上を[[東京都電|都電]]が通行していた。
建設当時は隅田川を航行する船舶が多かったため、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航可能だった。高架橋とする案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。


設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。[[1955年]]頃は年800回ほど跳開していたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次第に跳開する回数は減少した。[[1967年]]に通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、[[1970年]][[11月29日]]を最後に跳開されることはなくなり、[[1980年]]には電力供給も停止された。
設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ[[1953年]]ごろまで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次第に跳開する回数は減少し、[[1964年]]以降は年間100回を下回るようになった。[[1967年]]に通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、[[1970年]][[11月29日]]を最後に跳開されることはなくなり、[[1980年]]には電力供給も停止された。


橋のたもとの築地側には、「かちどき橋の資料館」が[[2005年]][[4月]]に開館し、勝鬨橋に関する情報を得ることができる(開館日:火・木・金・土。入場無料)。また、定期的に橋梁設備の見学会が行われている。
橋のたもとの築地側には、「かちどき橋の資料館」が[[2005年]][[4月]]に開館し、勝鬨橋に関する情報を得ることができる(開館日:火・木・金・土。入場無料)。また、定期的に橋梁設備の見学会が行われている。

2006年8月8日 (火) 17:14時点における版

ファイル:Kachidokibashi01.JPG
勝鬨橋
夜景:勝鬨橋のとその周辺 聖路加より撮影

勝鬨橋(かちどきばし)とは、東京都中央区にある隅田川に架かる晴海通り東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。

日本では珍しい可動橋(跳開橋)であるが、現在では機械部への電力供給も無く、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させようとの市民運動や都の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用(約10億円)がかかること、また現在は多数の道路交通量があることから、実現のめどは立っていない。

歴史

明治期より架橋の計画は何度かあったものの実現せずにいた。1905年明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島には石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったことで、1929年昭和4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によりようやく架橋が実現することとなった。

建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能とした。高架橋とする案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。

勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年に完成を見た。1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工を行った。結果的に博覧会は日中戦争の激化などもあって軍部の反対により中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947年から1968年まで橋上を都電が通行していた。

設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ1953年ごろまで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次第に跳開する回数は減少し、1964年以降は年間100回を下回るようになった。1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に跳開されることはなくなり、1980年には電力供給も停止された。

橋のたもとの築地側には、「かちどき橋の資料館」が2005年4月に開館し、勝鬨橋に関する情報を得ることができる(開館日:火・木・金・土。入場無料)。また、定期的に橋梁設備の見学会が行われている。

なお、橋は1998年より夜間ライトアップされている。

2006年4月24日には、東京都が依託した土木学会の調査研究小委員会により、勝鬨橋の開閉に問題は無いとの報告が出た。2006年現在の東京都知事はナショナリスト的発言が多い石原慎太郎であり、日本の鼓舞を兼ねた開橋の実現へ向けての計画の進捗の期待は高い。

構造

橋の両端部はアーチ橋となっており、中央部が上方に開く構造となっている。開く角度は最大70度、約70秒で全開になる。片側だけ開く操作も可能である。橋を操作するモーターなどの機械は、中央部の橋梁に収められており、それに供給する電力のために専用の変電設備(現:かちどき橋の資料館)が設けられている。

橋梁上には、4つの小屋が設けられており、それぞれ運転室、見張室、宿直室などとなっている。橋の操作は運転室で行う。

橋の可動部は、軸上に載せられた橋本体(片側だけで重量900t)と軸を挟んで乗せられているカウンターウェイト(重量1,100t)で構成されている。これを橋梁内部にある直流モーターとギアで動かすようになっている。橋が開く際は、警報サイレンの後、橋のたもとの信号が赤になり、橋上の往来を停止させていた。

橋の概要

  • 構造形式
中央部 跳開型可動橋
両側 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
可動部 双葉跳開型(可動支間長 44m)
  • 橋長 246m
  • 幅員 22m
  • 着工 1933年昭和8年)6月
  • 竣工 1940年(昭和15年)6月14日
  • 施工主体 東京都・銭高組
  • 橋桁製作
月島側アーチ橋 石川島造船所
築地側アーチ橋 横河橋梁製作所
跳開橋 川崎車両
橋脚 宮地鉄工所
可動部(機械)渡辺製鋼所 (電気)小穴製作所

隣の橋

(上流)―中央大橋佃大橋勝鬨橋―(下流)

関連項目

単行本71巻及びこち亀・読者が選んだ傑作選、またはこち亀千両箱に収録され、後にはアニメ化までされた「勝鬨橋ひらけの巻」がある。また、その他にも同作品の映画・アニメなどで、度々勝鬨橋が登場している(大原部長は勝鬨橋の開いたところから落ちたことがあり、その時に橋を開けた犯人の一人が両津勘吉であった。両津自身も、幼年期に橋の割れる部分を覗いていて転落したり、高校生時代に開橋中の橋をNE600で飛び越えようとして失敗・墜落した(単行本96巻5話目「両さんの免許証の巻」)ことなどがある)。
1999年4月公開。隅田川を東京湾に向かい逃亡するテロリストの船を阻止するため、開いた勝鬨橋を海上保安庁第三管区海上保安本部の巡視船「やしま」(PLH22)が通過、直後隅田川を封鎖するシーンが見られる。
このミステリ漫画でも、勝鬨橋が登場し、トリックの素材として使われている。