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[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]に伴い父と共に7歳で上京、明治25年([[1892年]])、20歳の時に兄の[[尚寅]]と共に帰郷した。その後、翌年の明治26年([[1893年]])、[[太田朝敷]]、[[護得久朝惟]]、豊見城盛和、[[高嶺朝教]]らと共に琉球新報を設立し、明治32年([[1899年]])には沖縄銀行を設立した。他にも沖縄広運の設立、[[桃原農園]]を設立し[[パイナップル]]などの[[果樹]]、[[観賞用植物]]等を移入した。 |
[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]に伴い父と共に7歳で上京、明治25年([[1892年]])、20歳の時に兄の[[尚寅]]と共に帰郷した。その後、翌年の明治26年([[1893年]])、[[太田朝敷]]、[[護得久朝惟]]、豊見城盛和、[[高嶺朝教]]らと共に琉球新報を設立し、明治32年([[1899年]])には沖縄銀行を設立した。他にも沖縄広運の設立、[[桃原農園]]を設立し[[パイナップル]]などの[[果樹]]、[[観賞用植物]]等を移入した。 |
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[[1904年]](明治37年)7月、貴族院男爵議員に選出され<ref>『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁 |
[[1904年]](明治37年)7月、貴族院男爵議員に選出され<ref>『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁</ref>、[[1915年]](大正4年)6月19日に辞職した<ref>『官報』第866号、大正4年6月22日</ref>。 |
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松山御殿は敷地約4千坪あり、家族16人、使用人20数名で暮らしていた。尚順には6人の男子と10人の女子がいたが、[[沖縄戦]]で本人、妻、長男一家、三男、四男、孫の尚忠昭、尚忠正が亡くなった。享年72。 |
松山御殿は敷地約4千坪あり、家族16人、使用人20数名で暮らしていた。尚順には6人の男子と10人の女子がいたが、[[沖縄戦]]で本人、妻、長男一家、三男、四男、孫の尚忠昭、尚忠正が亡くなった。享年72。 |
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== 栄典 == |
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* [[1896年]](明治29年)[[6月30日]] - [[男爵]]<ref>『官報』第3901号「授爵叙任及辞令」1896年7月1日 |
* [[1896年]](明治29年)[[6月30日]] - [[男爵]]<ref>『官報』第3901号「授爵叙任及辞令」1896年7月1日</ref> |
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* [[1902年]](明治35年)[[6月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日 |
* [[1902年]](明治35年)[[6月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日</ref> |
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* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[勲四等]][[旭日小綬章]]<ref>『帝国議会会議録』「第24議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」</ref> |
* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[勲四等]][[旭日小綬章]]<ref>『帝国議会会議録』「第24議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」</ref> |
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* [[1909年]](明治42年)[[6月30日]] - [[従四位]]<ref>『帝国議会会議録』「第26議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」</ref> |
* [[1909年]](明治42年)[[6月30日]] - [[従四位]]<ref>『帝国議会会議録』「第26議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」</ref> |
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一方で趣味人としても知られ、名筆であったと言われる。建築家の[[伊東忠太]]、画家の[[藤田嗣治]]、民芸家の[[柳宗悦]]、陶芸家の[[河井寛次郎]]などとも交流があった。また美食家としても有名で、後年、「驚異の美食家」「グルメ男爵」などと呼ばれた。特に[[泡盛]]についての造詣が深く、彼の遺稿集でも泡盛について多くの言及を行っている。なお、同じ遺稿集で、「首里城明け渡し・人物群像」という題で、首里城明け渡しについて、当時6歳であった思い出、[[松田道之]]をみた思い出、その時の父[[尚泰]]の態度などを語っている<ref>山城善三 |
一方で趣味人としても知られ、名筆であったと言われる。建築家の[[伊東忠太]]、画家の[[藤田嗣治]]、民芸家の[[柳宗悦]]、陶芸家の[[河井寛次郎]]などとも交流があった。また美食家としても有名で、後年、「驚異の美食家」「グルメ男爵」などと呼ばれた。特に[[泡盛]]についての造詣が深く、彼の遺稿集でも泡盛について多くの言及を行っている。なお、同じ遺稿集で、「首里城明け渡し・人物群像」という題で、首里城明け渡しについて、当時6歳であった思い出、[[松田道之]]をみた思い出、その時の父[[尚泰]]の態度などを語っている<ref>山城善三『沖縄事始め・世相史事典』(月刊沖縄社、1983年)pp.92-93、なお、原本は昭和12年月刊琉球とある</ref>。 |
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娘・根岸常子によれば、尚順は現在の国頭郡本部町伊豆味に、別荘を所有していたという<ref>兒玉絵里子 |
娘・根岸常子によれば、尚順は現在の国頭郡本部町伊豆味に、別荘を所有していたという<ref>兒玉絵里子「組踊立方 二代目親泊興照(初代 親泊久玄)――芸と心」(『民族藝術』vol.30、2014年3月)</ref>。 |
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=== 家訓 === |
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== 参考文献 == |
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*『松山王子 尚順遺稿』 |
*『松山王子 尚順遺稿』尚順遺稿刊行会、1969年、[[藤田嗣治]]が寄稿。 |
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*『[[松山 (那覇市)|松山]]御殿物語―明治・大正・昭和の松山御殿の記録』 |
*松山御殿物語刊行会編『[[松山 (那覇市)|松山]]御殿物語―明治・大正・昭和の松山御殿の記録』ーダーインク、2002年。ISBN 4899820313 |
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*高木凛『[[沖縄料理|大琉球料理]]帖』とんぼの本、[[新潮社]]、2009年。 |
*高木凛『[[沖縄料理|大琉球料理]]帖』とんぼの本、[[新潮社]]、2009年。 |
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*知名茂子『松山御殿の日々』ボーダーインク、2011年。 |
*知名茂子『松山御殿の日々』ボーダーインク、2011年。 |
2020年6月12日 (金) 11:42時点における版
しょう じゅん 尚 順 | |
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生誕 |
尚泰王 第四王子 尚順 1873年5月2日 ![]() |
死没 | 1945年6月17日(72歳没) |
死因 | 戦死(沖縄戦) |
住居 | 松山御殿(那覇市首里桃原町) |
国籍 |
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別名 |
松山王子 松山御殿 松山御殿一世 鷺泉(雅号) |
民族 | 琉球民族 |
職業 |
王族 貴族 実業家 |
肩書き |
貴族院 男爵議員(1904 - 1915) 琉球新報 創設者 沖縄銀行 創設者 沖縄広運 創設者 桃原農園 創設者 |
配偶者 | 真子(伊是名朝睦長女) |
親 |
尚泰王 松川按司 |
栄誉 |
男爵 正五位、従四位 勲四等旭日小綬章 |
尚 順(しょう じゅん、1873年5月2日 - 1945年6月17日)は、最後の琉球国王・尚泰王の四男。男爵で貴族院議員。琉球新報、沖縄銀行(日本の華族界における十五銀行(別名、華族銀行)に相当する銀行で、現在の沖縄銀行とは無関係)の創立者。
生涯
尚順は、明治6年(1873年)5月2日(旧暦4月6日)、尚泰王の第四王子として生まれた。母は松川按司。松山王子、松山御殿(まちやまうどぅん)と呼ばれた。雅号は鷺泉。室は真子(伊是名朝睦長女)。
琉球処分に伴い父と共に7歳で上京、明治25年(1892年)、20歳の時に兄の尚寅と共に帰郷した。その後、翌年の明治26年(1893年)、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和、高嶺朝教らと共に琉球新報を設立し、明治32年(1899年)には沖縄銀行を設立した。他にも沖縄広運の設立、桃原農園を設立しパイナップルなどの果樹、観賞用植物等を移入した。
1904年(明治37年)7月、貴族院男爵議員に選出され[1]、1915年(大正4年)6月19日に辞職した[2]。
松山御殿は敷地約4千坪あり、家族16人、使用人20数名で暮らしていた。尚順には6人の男子と10人の女子がいたが、沖縄戦で本人、妻、長男一家、三男、四男、孫の尚忠昭、尚忠正が亡くなった。享年72。
栄典
- 1896年(明治29年)6月30日 - 男爵[3]
- 1902年(明治35年)6月20日 - 正五位[4]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[5]
- 1909年(明治42年)6月30日 - 従四位[6]
人物
一方で趣味人としても知られ、名筆であったと言われる。建築家の伊東忠太、画家の藤田嗣治、民芸家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎などとも交流があった。また美食家としても有名で、後年、「驚異の美食家」「グルメ男爵」などと呼ばれた。特に泡盛についての造詣が深く、彼の遺稿集でも泡盛について多くの言及を行っている。なお、同じ遺稿集で、「首里城明け渡し・人物群像」という題で、首里城明け渡しについて、当時6歳であった思い出、松田道之をみた思い出、その時の父尚泰の態度などを語っている[7]。
娘・根岸常子によれば、尚順は現在の国頭郡本部町伊豆味に、別荘を所有していたという[8]。
家訓
尚順の遺稿に加え、松山御殿の人々の著作や関連する文章を収録した書籍『松山御殿物語』によると尚順家の家訓は以下の5つである。
「 |
人一倍、勉強しなさい。 |
」 |
親族
家督は尚順の息子で次男尚誠が継いだ。尚誠は弟(尚順の六男)尚詮に財産を管理するように頼み、尚詮は兄に代わり『松山御殿』の財産を管理した。その傍らで父の遺志を継ぎ、戦争で灰燼に帰した桃原桃園の復興に着手した。尚詮の妻は琉球大学名誉教授の尚弘子。尚誠の長男である尚厚(桃原農園社長)が、松山御殿の財産を引き継いでいる。尚誠の長女は、白光真宏会第二代会長の西園寺昌美。
『松山御殿の日々』を著した知名茂子は、尚順の六女。1917年生まれ。1938年に首里の旧家・知名家に嫁ぎ、台湾へ赴任。戦後帰沖し、三男一女を育てる。茂子によると、尚順は子供たちの教育方針として、「父は男爵だが、お前たちに身分はない。使用人は父の使用人で、お前たちの使用人ではない」と常日頃語っていたという。
脚注
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁
- ^ 『官報』第866号、大正4年6月22日
- ^ 『官報』第3901号「授爵叙任及辞令」1896年7月1日
- ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日
- ^ 『帝国議会会議録』「第24議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」
- ^ 『帝国議会会議録』「第26議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」
- ^ 山城善三『沖縄事始め・世相史事典』(月刊沖縄社、1983年)pp.92-93、なお、原本は昭和12年月刊琉球とある
- ^ 兒玉絵里子「組踊立方 二代目親泊興照(初代 親泊久玄)――芸と心」(『民族藝術』vol.30、2014年3月)
参考文献
- 『松山王子 尚順遺稿』尚順遺稿刊行会、1969年、藤田嗣治が寄稿。
- 松山御殿物語刊行会編『松山御殿物語―明治・大正・昭和の松山御殿の記録』ーダーインク、2002年。ISBN 4899820313
- 高木凛『大琉球料理帖』とんぼの本、新潮社、2009年。
- 知名茂子『松山御殿の日々』ボーダーインク、2011年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
関連項目
外部リンク
爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 尚家(分家)初代 1886年 - 1945年 |
次代 尚誠 |