「玉川勝太郎」の版間の差分
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
11行目: | 11行目: | ||
== 2代目 == |
== 2代目 == |
||
{{落語家 |
|||
| 芸名 =2代目 {{ruby|玉川|たまがわ}} {{ruby|勝太郎|かつたろう}} |
|||
| 画像ファイル = Tamagawa Katsutaro.JPG |
|||
| 画像サイズ = |
|||
| 画像コメント = 巨漢のエピソードが残る。 |
|||
| 本名 = 石渡 金久 |
|||
| 別名 = |
|||
| 出身地 = |
|||
| 死没地 = |
|||
| 生年 = 1896 |
|||
| 生月 = 5 |
|||
| 生日 = 1 |
|||
| 没年 = 1969 |
|||
| 没月 = 8 |
|||
| 没日 = 13 |
|||
| 師匠 = [[玉川勝太郎#初代|初代玉川勝太郎]] |
|||
| 弟子 = |
|||
| 名跡= |
|||
| 出囃子 = |
|||
| 活動期間 = |
|||
| 活動内容 = |
|||
| 配偶者 =玉川花江 |
|||
| 家族 = |
|||
| 所属 = |
|||
| 公式サイト = |
|||
| 主な作品 = |
|||
| 受賞歴 = |
|||
| 備考 = |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
[[File:Tamagawa Katsutaro.JPG|thumb|left|二代目玉川勝太郎。巨漢のエピソードが残る。|180px]] |
|||
中でも『[[天保水滸伝]]』([[正岡容]]作)の外題付け「〽利根の川風、袂に入れて…」の名調子は、[[レコード]]に吹き込まれて一世を風靡した。その長く尾をひいて歌う哀調の節は、勝太郎が自宅で飼っていた[[カナリア#品種|ローラーカナリア]]の鳴き声にヒントを得て作られたものである<ref>『独習で上達する浪曲の習い方』 広沢竜造編より</ref><ref>『浪花節一代』 玉川勝太郎自身の一文より</ref>。 |
中でも『[[天保水滸伝]]』([[正岡容]]作)の外題付け「〽利根の川風、袂に入れて…」の名調子は、[[レコード]]に吹き込まれて一世を風靡した。その長く尾をひいて歌う哀調の節は、勝太郎が自宅で飼っていた[[カナリア#品種|ローラーカナリア]]の鳴き声にヒントを得て作られたものである<ref>『独習で上達する浪曲の習い方』 広沢竜造編より</ref><ref>『浪花節一代』 玉川勝太郎自身の一文より</ref>。 |
||
[[1964年]]の帝国劇場で娘婿の福太郎に勝太郎を譲って「玉川勝翁」を名乗り引退、新作にも挑戦した。極度の近視、かつ巨躯で、数々の逸話がある。1969年に脳軟化症で死去。 |
[[1964年]]の帝国劇場で娘婿の福太郎に勝太郎を譲って「玉川勝翁」を名乗り引退、新作にも挑戦した。極度の近視、かつ巨躯で、数々の逸話がある。1969年に脳軟化症で死去。 |
||
妻は曲師で玉川花江。 |
|||
=== 主な弟子 === |
=== 主な弟子 === |
||
26行目: | 51行目: | ||
*[[玉川良一]] |
*[[玉川良一]] |
||
*[[玉川桃太郎]] |
*[[玉川桃太郎]] |
||
*[[玉川勝太郎#3代目| |
*[[玉川勝太郎#3代目|3代目玉川勝太郎]] |
||
=== 映画出演 === |
=== 映画出演 === |
2020年5月7日 (木) 04:05時点における版
初代
玉川 勝太郎(1881年3月10日 - 1926年6月24日)本名は鈴木鎌治郎[1]。
東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)の生まれ。青木昇の弟子で、故あって青木勝太郎から玉川勝太郎となった。小音ながら新内調の節で、「越後伝吉」や「天保水滸伝」など侠客物を得意にし、「玉川勝太郎の浪花節を有するは実に東京の誇りなり」(樋口罔象もうしょう による賛辞)とまで讃えられる。向島言問に寄席「玉川亭」を経営するが失敗し、喉を痛めて千葉県市川に隠棲する。
主な弟子
2代目
2代目 | |
巨漢のエピソードが残る。 | |
本名 | 石渡 金久 |
---|---|
生年月日 | 1896年5月1日 |
没年月日 | 1969年8月13日(73歳没) |
師匠 | 初代玉川勝太郎 |
配偶者 | 玉川花江 |
2代目玉川 勝太郎(1896年5月1日 - 1969年8月13日)本名は石渡 金久。
東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の生まれ。浪曲好きの父の影響で、17歳で初代に入門し玉川次郎、兄弟子の玉川太郎とともに「玉川の両翼」と称される。はじめ治郎、のち次郎で真打。剃髪して袈裟姿で「玉川教風」を号したのち、次郎に戻り1932年に2代目勝太郎を襲名[2]。師匠譲りの関東節で任侠物を磨き上げ、「清水次郎長伝」「国定忠治」などを十八番にした。 中でも『天保水滸伝』(正岡容作)の外題付け「〽利根の川風、袂に入れて…」の名調子は、レコードに吹き込まれて一世を風靡した。その長く尾をひいて歌う哀調の節は、勝太郎が自宅で飼っていたローラーカナリアの鳴き声にヒントを得て作られたものである[3][4]。
1964年の帝国劇場で娘婿の福太郎に勝太郎を譲って「玉川勝翁」を名乗り引退、新作にも挑戦した。極度の近視、かつ巨躯で、数々の逸話がある。1969年に脳軟化症で死去。
主な弟子
映画出演
レコード
41.47.48.49.55.58.71.
3代目
3代目 | |
本名 | 玉川 勝太郎 |
---|---|
生年月日 | 1933年5月20日 |
没年月日 | 2000年10月4日(67歳没) |
師匠 | 2代目玉川勝太郎 |
活動期間 | 1947年 - 2000年 |
所属 | 日本浪曲協会 |
備考 | |
日本浪曲協会会長 | |
3代目玉川 勝太郎(1933年5月20日 - 2000年10月4日)本名は石渡 栄太郎(2代目の娘婿)。
東京・日本橋生まれ。1947年にわかの浦孤舟に入門し[8]、翌年2代目玉川勝太郎門下に移り、「桜丸」から初代福太郎を名乗る[9]。1964年に3代目勝太郎を襲名し、玉川一門のお家芸とも言える任侠物を継承。浪曲不振の時代にあって、日本テレビ「お昼のワイドショー」にて市井の人物の半生を取り上げ浪曲化するコーナー「人間シリーズ」を担当するなど、現代性を足した持ち味であった。1989年に文化庁芸術祭賞受賞。1994年には日本浪曲協会会長。2000年に肝臓癌で死去。