コンテンツにスキップ

「諫早家崇」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
リンク調整
 
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[肥前国]][[高来郡]][[諫早市|諫早]]に生まれる。明治4年([[1871年]])にドイツに留学し、明治13年([[1880年]])より外務省、[[太政官]]、[[参事院 (日本)|参事院]]等に勤務する。
[[肥前国]][[高来郡]][[諫早市|諫早]]に生まれる。明治4年([[1871年]])にドイツに留学し、明治13年([[1880年]])より外務省、[[太政官 (明治時代)|太政官]]、[[参事院 (日本)|参事院]]等に勤務する。


[[1890年]](明治23年)に養父が[[貴族院 (日本)#勅任議員|貴族院多額納税者議員]]となり、家崇も[[1893年]](明治26年)10月10日に多額納税者議員に就任し<ref>『官報』第3087号、明治26年10月11日。</ref>[[1898年]](明治31年)8月4日まで在任{{R|貴参}}<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、9頁。</ref>。[[1897年]](明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。[[1904年]](明治37年)7月10日、[[貴族院 (日本)#華族議員|貴族院男爵議員]]に選出され<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。</ref>、1912年(明治45年)に59歳で没するまで在任した{{R|貴参}}<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。</ref>。墓所は諫早氏代々の墓がある諫早市天祐寺。
[[1890年]](明治23年)に養父が[[貴族院 (日本)#勅任議員|貴族院多額納税者議員]]となり、家崇も[[1893年]](明治26年)10月10日に多額納税者議員に就任し<ref>『官報』第3087号、明治26年10月11日。</ref>[[1898年]](明治31年)8月4日まで在任{{R|貴参}}<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、9頁。</ref>。[[1897年]](明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。[[1904年]](明治37年)7月10日、[[貴族院 (日本)#華族議員|貴族院男爵議員]]に選出され<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。</ref>、1912年(明治45年)に59歳で没するまで在任した{{R|貴参}}<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。</ref>。墓所は諫早氏代々の墓がある諫早市天祐寺。

2024年5月11日 (土) 01:07時点における最新版

諫早 家崇(いさはや いえたか、嘉永7年4月20日1854年5月16日) - 1912年明治45年)1月24日[1])は、明治時代の華族男爵)。14代諫早邑主諫早茂孫の長男。叔父諫早一学(茂孫の次々代邑主)の養子。千吉郎。

経歴

[編集]

肥前国高来郡諫早に生まれる。明治4年(1871年)にドイツに留学し、明治13年(1880年)より外務省、太政官参事院等に勤務する。

1890年(明治23年)に養父が貴族院多額納税者議員となり、家崇も1893年(明治26年)10月10日に多額納税者議員に就任し[2]1898年(明治31年)8月4日まで在任[1][3]1897年(明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[4]、1912年(明治45年)に59歳で没するまで在任した[1][5]。墓所は諫早氏代々の墓がある諫早市天祐寺。

栄典

[編集]

親族

[編集]

室は鍋島直彬の娘神代子。子に諫早家興諫早不二雄

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』63頁。
  2. ^ 『官報』第3087号、明治26年10月11日。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、9頁。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。
  6. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。

参考文献

[編集]
  • 日本史大辞典(講談社)
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
男爵
諫早家初代
1897年 - 1912年
次代
諫早家興