コンテンツにスキップ

「新田義興」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
カテゴリを追加
編集の要約なし
26行目: 26行目:
北陸で戦う父や兄とは離れて[[上野国]][[新田荘]]に留まっていたが、[[1337年]]([[建武 (日本)|建武]]4年/[[延元]]2年)に[[陸奥国|奥州]]の[[北畠顕家]]が西上すると、これに呼応して上野国で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。奥州軍は[[杉本城の戦い]]に勝利して[[鎌倉]]を占領、さらに西上し[[美濃国]][[青野原の戦い]]で足利方を破る。その後[[伊勢国|伊勢]]・[[大和国|大和]]を経て、[[吉野]]で[[後醍醐天皇]]に謁見する。後醍醐は「尤も義貞が家を興(おこ)すべき人なり」として義興の名を与え、御前で元服させたという(『太平記』)。顕家の死後はその弟[[北畠顕信|顕信]]と共に[[石清水八幡宮|男山]]に進出して京都を攻めるが、[[高師直]]に敗れ撤退した<ref>久保田・81頁</ref>。
北陸で戦う父や兄とは離れて[[上野国]][[新田荘]]に留まっていたが、[[1337年]]([[建武 (日本)|建武]]4年/[[延元]]2年)に[[陸奥国|奥州]]の[[北畠顕家]]が西上すると、これに呼応して上野国で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。奥州軍は[[杉本城の戦い]]に勝利して[[鎌倉]]を占領、さらに西上し[[美濃国]][[青野原の戦い]]で足利方を破る。その後[[伊勢国|伊勢]]・[[大和国|大和]]を経て、[[吉野]]で[[後醍醐天皇]]に謁見する。後醍醐は「尤も義貞が家を興(おこ)すべき人なり」として義興の名を与え、御前で元服させたという(『太平記』)。顕家の死後はその弟[[北畠顕信|顕信]]と共に[[石清水八幡宮|男山]]に進出して京都を攻めるが、[[高師直]]に敗れ撤退した<ref>久保田・81頁</ref>。


[[1338年]]([[暦応]]元年/延元3年)9月、東国再建のために[[伊勢国|伊勢]][[大湊 (伊勢市)|大湊]]から[[後村上天皇|義良]]・[[宗良親王]]、[[北畠親房]]らが船にて東国を目指すと、義興もこれう。し途中で難破し、船団は散り散りになった。この時、義興は北畠父子に同道していたらしく、[[武蔵国]]石濱に流れ着き、その後は行方不明になったという(金勝院流『太平記』)。おそらく上野国に入ったとされる<ref>山本・274頁</ref>。
[[1338年]]([[暦応]]元年/延元3年)9月、東国再建のために[[後村上天皇|義良]]・[[宗良親王]]、[[北畠親房]]らが東国を目指すになり、義興は北条時行と共後醍醐天皇から関東八ヶ国の平定を命じられたという。一行は[[伊勢国|伊勢]][[大湊 (伊勢市)|大湊]]ら海路東国を目指すが暴風雨に遭って船団は散り散りになった。この時、義興は北畠父子に同道していたらしく、[[武蔵国]]石濱に流れ着き、その後は行方不明になったという(金勝院流『太平記』)<ref>山本・274頁</ref>。


[[1341年]](暦応4年/[[興国]]2年)5月頃、[[常陸合戦 (南北朝時代)|常陸合戦]]における活動がみえる。義興は独自に行動し、[[小山朝氏]]の廷尉任官を南朝に申請することで、小山氏を南朝方に誘引しようとしていた。しかし、この行動は北畠親房が南朝から認められていた官職の推挙権を侵害していたために許容される余地はなく、親房が詰問したところ「自分は全く関知しておらず、家中に不審な輩がいれば追い出す」との返答を得たと記している(「結城文書」)<ref>久保田・84-85頁</ref>。
[[観応の擾乱]]が起こると、[[鎌倉]]の奪還を目指して上野国で[[北条時行]]らとともに挙兵する。[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]が破綻すると、[[1352年]]([[正平 (日本)|正平]]7年/[[観応]]3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟[[脇屋義治]]と挙兵し([[武蔵野合戦]])、鎌倉を一時占拠した。義興は鎌倉から逃げ延びた尊氏を追って武蔵野の人見原・金井原・小手指原で戦った。だが足利軍の反撃にあって鎌倉を追われた<ref>山本・278頁</ref>。


[[観応の擾乱]]が起こると、[[鎌倉]]の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]が破綻すると、[[1352年]]([[正平 (日本)|正平]]7年/[[観応]]3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟[[脇屋義治]]と挙兵し([[武蔵野合戦]])、鎌倉を一時占拠した。義興は鎌倉から逃げ延びた尊氏を追って武蔵野の人見原・金井原・小手指原で戦った。だが足利軍の反撃にあって鎌倉を追われた<ref>山本・278頁</ref>。
1352年(正平7年/観応3年)、長楽寺に対して義興が発給した、狼藉を禁止する趣旨の文書が残っている<ref name="minegishi">峰岸・134頁</ref>。この文書発給は足利尊氏・室町幕府の意向に沿う方向に改変されている長楽寺を、新田氏側に取り戻そうとして出されたと考えられる<ref>山本・280頁</ref>。また、[[水野致秋]]に宛てられた8通の発給文書に貼付されている[[花押]]が長楽寺宛ての文書のそれと類似しており、これらも義興が発給したものであろうと推定される<ref name="minegishi"/>。

1352年(正平7年/観応3年)、長楽寺に対して義興が発給した、狼藉を禁止する趣旨の文書が残っている<ref name="minegishi">峰岸・134頁</ref>。この文書発給は足利尊氏・室町幕府の意向に沿う方向に改変されている長楽寺を、新田氏側に取り戻そうとして出されたと考えられる<ref>山本・280頁</ref>。また、[[水野致顕|水野致秋]]に宛てられた8通の発給文書に貼付されている[[花押]]が長楽寺宛ての文書のそれと類似しており、これらも義興が発給したものであろうと推定される<ref name="minegishi"/>。


尊氏が没した半年後の[[1358年]]([[正平 (日本)|正平]]13年/[[延文]]3年)、時期到来とばかりに挙兵、鎌倉を目指した。これに対し尊氏の子で[[鎌倉公方]]の[[足利基氏]]と[[関東管領]]の[[畠山国清]]は、[[竹沢右京亮]]と[[江戸長門|江戸遠江守]]にこの迎撃を命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、『[[太平記]]』によると一族の[[蒲田忠武]]も首謀者のひとりとして参加していたとされる。[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[11月11日]])、義興と主従13人は、[[多摩川]]の[[矢口]]の渡しで謀殺された{{efn|義興謀殺の場所については、現在の大田区か、もしくは稲城市の矢野口の2説がある。<ref>峰岸・134頁</ref>}}<ref>『中世武蔵人物列伝』114頁</ref>。享年28。
尊氏が没した半年後の[[1358年]]([[正平 (日本)|正平]]13年/[[延文]]3年)、時期到来とばかりに挙兵、鎌倉を目指した。これに対し尊氏の子で[[鎌倉公方]]の[[足利基氏]]と[[関東管領]]の[[畠山国清]]は、[[竹沢右京亮]]と[[江戸長門|江戸遠江守]]にこの迎撃を命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、『[[太平記]]』によると一族の[[蒲田忠武]]も首謀者のひとりとして参加していたとされる。[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[11月11日]])、義興と主従13人は、[[多摩川]]の[[矢口]]の渡しで謀殺された{{efn|義興謀殺の場所については、現在の大田区か、もしくは稲城市の矢野口の2説がある。<ref>峰岸・134頁</ref>}}<ref>『中世武蔵人物列伝』114頁</ref>。享年28。

2024年6月6日 (木) 13:54時点における版

 
新田義興
「矢ノ口渡合戦にて義興戦死図」(歌川国芳画)
時代 南北朝時代
生誕 元徳3年/元弘元年(1331年
死没 正平13年/延文3年10月10日1358年11月11日
改名 徳寿丸(幼名)→義興
墓所 群馬県太田市由良町の威光寺
官位 左兵衛佐、左近衛将監従五位下、贈従三位
氏族 新田氏
父母 父:新田義貞、母:天野時宣の娘
兄弟 義顕義興義宗千葉介氏胤妻、他
不明
テンプレートを表示

新田 義興(にった よしおき)とは、南北朝時代武将新田義貞の次男。

生涯

幼名は徳寿丸。その生母について『鑁阿寺新田・足利両氏系図』によれば上野国一宮抜鉾神社の神主・天野時宣の娘とされる。義貞の長男義顕金ヶ崎城の戦いにて自害したが、義興は出自が低い側室の子であることから重用されず、三男の義宗の方が地位が上であった[注釈 1][2]

北陸で戦う父や兄とは離れて上野国新田荘に留まっていたが、1337年建武4年/延元2年)に奥州北畠顕家が西上すると、これに呼応して上野国で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。奥州軍は杉本城の戦いに勝利して鎌倉を占領、さらに西上し美濃国青野原の戦いで足利方を破る。その後伊勢大和を経て、吉野後醍醐天皇に謁見する。後醍醐は「尤も義貞が家を興(おこ)すべき人なり」として義興の名を与え、御前で元服させたという(『太平記』)。顕家の死後はその弟顕信と共に男山に進出して京都を攻めるが、高師直に敗れ撤退した[3]

1338年暦応元年/延元3年)9月、東国再建のために義良宗良親王北畠親房らが東国を目指すことになり、義興は北条時行と共に後醍醐天皇から関東八ヶ国の平定を命じられたという。一行は伊勢大湊から海路東国を目指すが、暴風雨に遭って船団は散り散りになった。この時、義興は北畠父子に同道していたらしく、武蔵国石濱に流れ着き、その後は行方不明になったという(金勝院流『太平記』)[4]

1341年(暦応4年/興国2年)5月頃、常陸合戦における活動がみえる。義興は独自に行動し、小山朝氏の廷尉任官を南朝に申請することで、小山氏を南朝方に誘引しようとしていた。しかし、この行動は北畠親房が南朝から認められていた官職の推挙権を侵害していたために許容される余地はなく、親房が詰問したところ「自分は全く関知しておらず、家中に不審な輩がいれば追い出す」との返答を得たと記している(「結城文書」)[5]

観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。正平一統が破綻すると、1352年正平7年/観応3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵し(武蔵野合戦)、鎌倉を一時占拠した。義興は鎌倉から逃げ延びた尊氏を追って武蔵野の人見原・金井原・小手指原で戦った。だが足利軍の反撃にあって鎌倉を追われた[6]

1352年(正平7年/観応3年)、長楽寺に対して義興が発給した、狼藉を禁止する趣旨の文書が残っている[7]。この文書発給は足利尊氏・室町幕府の意向に沿う方向に改変されている長楽寺を、新田氏側に取り戻そうとして出されたと考えられる[8]。また、水野致秋に宛てられた8通の発給文書に貼付されている花押が長楽寺宛ての文書のそれと類似しており、これらも義興が発給したものであろうと推定される[7]

尊氏が没した半年後の1358年正平13年/延文3年)、時期到来とばかりに挙兵、鎌倉を目指した。これに対し尊氏の子で鎌倉公方足利基氏関東管領畠山国清は、竹沢右京亮江戸遠江守にこの迎撃を命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、『太平記』によると一族の蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加していたとされる。10月10日11月11日)、義興と主従13人は、多摩川矢口の渡しで謀殺された[注釈 2][10]。享年28。

主従13人の人物はハッキリしていないが、「太平記」や「十寄神社」によれば、渋川井伊氏の井伊弾正左衛門直秀伊予畠山城主の由良兵庫助由里、伊予川之江城主の土肥三郎左衛門義昌、上州羽沢主城の市河五郎、由良新左衛門、世良田右馬助義周・大嶋周防守義遠・進藤孫六左衛門・堺壱岐権守・南瀬口六郎という。

その後江戸遠江守、竹沢右京亮らは入間川御陣の足利基氏のもとへ馳せ参じ、忠功抜群として関東管領の畠山国清に褒賞され、それぞれ数カ所の恩賞地を拝領したが、江戸某が義興の怨霊により狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために神として祭ったという記述が、『太平記』にある。後に新田大明神として尊崇される。人形浄瑠璃の『神霊矢口渡』は、この事件を扱ったものである。東急多摩川線武蔵新田駅の「新田」は、新田大明神を祭った新田神社に由来する。

1909年明治42年)9月11日従三位を追贈された[11]

脚注

注釈

  1. ^ 父の義貞からは疎まれていたようであり[1]、また、北畠顕家の軍勢に同行していたことが、顕家に対抗意識を抱いていた義貞の不興を買ったといわれる。[1]
  2. ^ 義興謀殺の場所については、現在の大田区か、もしくは稲城市の矢野口の2説がある。[9]

出典

  1. ^ a b 『中世武蔵人物列伝』113頁
  2. ^ 峰岸・133頁
  3. ^ 久保田・81頁
  4. ^ 山本・274頁
  5. ^ 久保田・84-85頁
  6. ^ 山本・278頁
  7. ^ a b 峰岸・134頁
  8. ^ 山本・280頁
  9. ^ 峰岸・134頁
  10. ^ 『中世武蔵人物列伝』114頁
  11. ^ 『群馬県史』第1巻

参考文献

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、新田義興に関するカテゴリがあります。