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高松宮 2023年9月19日 (火) 17:01 (UTC) より転記。
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{{Otheruses||公営競技([[競馬]]、[[競輪]]、[[競艇]])のレース|高松宮記念}}
'''菊栄親睦会'''(きくえいしんぼくかい)は、[[皇族]]及び[[旧皇族]](旧宮家)による親睦団体である。
{{日本の氏族
|家名=高松宮
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|家紋名称=高松宮紋章
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[[Image:Takamatsu-no-miya_house_20061221_0014.jpg|thumb|right|250px|正面口]]


'''高松宮'''(たかまつのみや)は、かつて存在した[[皇室]]の[[宮家]]。歴史的には[[高松宮好仁親王]]を初代とし、[[有栖川宮|幸仁親王]]まで3代継承されたところで[[有栖川宮]]に改称された<ref name="ishida">{{Cite journal |和書 |author=石田 実洋|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo053a001.pdf |title=冷泉家時雨亭文庫所蔵『朝儀諸次第』と高松宮家伝来禁裏本 |journal=書陵部紀要 |volume=53 |issue= |publisher=[[宮内庁書陵部]] |date=2002 |pages=7-8}}</ref>。[[1913年]]([[大正]]2年)[[7月6日]]に[[大正天皇]]の第三皇子・'''[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]'''が「高松宮」の宮号を賜り同家の祭祀を承継した。
==概要==
菊栄親睦会は皇室の親族一統による親睦会で、[[皇室]]と最も近い親戚として交流を保ち、皇室を支える役割を担う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nihonbunka.or.jp/knowledge/about|title=皇室とは|accessdate=2021年2月7日|website=日本文化興隆財団|publisher=}}</ref>。


== 構成 ==
[[1947年]]([[昭和]]22年)10月に[[昭和天皇]]の弟である[[秩父宮]]・[[高松宮]]・[[三笠宮]]の3直宮家を除く11宮家が[[臣籍降下#昭和22年10月14日の皇籍離脱(旧皇族)|臣籍降下]](いわゆる皇籍離脱)した際、昭和天皇の指示により、戦前の「皇族親睦会」を「菊栄親睦会」と改称して皇族と旧皇族の親睦を図っている。
{| class="wikitable"
!
!読み
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!続柄
!概要
|-
|[[高松宮宣仁親王]]
|のぶひと
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|}
== 結成 ==
遡ると、戦前に皇族内の親睦会として「皇族親睦会」があり、初回は昭和2年(1927年)5月、[[秩父宮]]邸で開かれた{{Sfn|勝岡|p=76}}。[[第二次世界大戦]]の中断を経て、敗戦後の昭和20年(1945年)9月に茶話会として復活し、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の占領政策についての意見交換などを行う{{Sfn|勝岡|p=76}}。


== 歴史 ==
しかし直後の昭和22年(1947年)10月14日、GHQによる皇室財産の処分及び皇室縮小の方針に抗しかねて、いわゆる[[伏見宮]]系皇族にあたる11宮家51名が[[臣籍降下]]を余儀なくされる。
「高松宮」の号は、有栖川宮の旧称であり、[[高松宮好仁親王|好仁親王]]([[後陽成天皇]]の第7皇子)が「高松宮」を称していた<ref name="ishida" />。その後、良仁親王(のちの[[後西天皇]])が正保4年([[1647年]])に継承<ref name="ishida" />。後西天皇の即位により[[有栖川宮幸仁親王|幸仁親王]]が継承したが、高松宮の称号は[[後水尾天皇]]の叡慮ではないとの理由から有栖川宮に宮号を変更した<ref name="ishida" />。


大正時代になり、有栖川宮の最後の当主[[有栖川宮威仁親王|威仁親王]]が、嗣子[[栽仁王]]に先立たれたまま[[1913年]](大正2年)に危篤となった際、[[大正天皇]]の特旨により、第3皇子[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]](当時8歳)が有栖川宮の祭祀を継承した<ref name="ishida" />。[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]では[[皇族]]の[[養子縁組]]が禁じられていたため、宣仁親王は有栖川宮そのものを相続するのではなく新たな宮家を創設したうえで、有栖川宮の祭祀や土地などの財産、そして一部の旧臣([[家来]])を継承するという形がとられ、[[宮号]]には有栖川宮にゆかりの「高松宮」が与えられた。
{{main|臣籍降下#1947年の11宮家の臣籍降下}}


宣仁親王は、[[徳川慶喜]]の孫娘であり、威仁親王の外孫でもある[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]と結婚したが、夫妻の間に子はなかった。
[[昭和天皇]]としては今回の臣籍降下は占領政策による不本意なものであり、皇室としては11宮家([[旧皇族]])とは従来と変わらず交流をすることを希望したことから{{Sfn|勝岡|p=80}}、同日付で皇族親睦会にかわる、皇族と旧皇族の合同の新たな親睦会を結成。天皇より「'''菊栄親睦会'''」と命名される。その目的は、「会員の親睦・知識の増進及び人格の修養を図り、必要に応じて相互扶助を行うこと」とされた{{Sfn|勝岡|p=85}}。


[[1987年]]([[昭和]]62年)[[2月3日]]に[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]、また[[2004年]]([[平成]]16年)[[12月18日]]には妃[[宣仁親王妃喜久子|喜久子]]がそれぞれ[[崩御#薨去|薨去]]し、廃絶となった。
== 会員資格 ==
2019年(令和元年)頃、令和改元に際し、以下の通り改正された{{Sfn|伏見|p=156}}。
;名誉会員{{efn|下記の他、令和時代における第1皇女である[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]について、会員(2に該当)である伏見博明は、敬宮が名誉会員に「含まれない」ことを認めている{{Sfn|伏見|p=156}}。一方、「含まれる」と報じる例もある<ref>{{Cite journal|author=永井貴子|year=2021|title=どうなる眞子さまと小室さんの「新婚生活」 皇族らが集う「菊栄親睦会」入りで晩餐会出席も?|journal=週刊朝日}}</ref>。}}
*[[天皇]]、[[皇后]]、[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]、[[上皇后]]
;会員
#名誉会員以外の皇族
#1947年 (昭和22年) 10月14日に臣籍降下した[[旧皇族]]とその配偶者、元[[王公族]]とその配偶者(※子孫は、当主(祭祀継承者)とその配偶者に限る)
#上記より後に皇籍を離れた者とその配偶者{{efn|一例として、平成時代における第1皇女だった[[黒田清子]](2005年(平成17年)に降嫁)が該当し、夫の[[黒田慶樹]]とともに会員である{{Sfn|伏見|p=156}}。}}


== 運営 ==
== 宮邸 ==
[[画像:Residence_of_prince_takamatsu.jpg|250px|right|thumb|高輪皇族邸(旧高松宮邸)の正門アップ]]
皇室と旧皇族との交際は、宮中行事への参列や、個々の宮家ごとの拝謁などで度々行われていたが、その他にも、旧皇族との親睦自体を目的とした会合もたびたびおこなわれた。
宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き、[[1904年]](明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1922年に[[威仁親王妃慰子]]が薨去したあとは[[東京市]][[麹町区]]三年町(現・[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承する。


昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣[[公邸|官邸]]に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・[[港区 (東京都)|港区]]高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は1891年(明治24年)、[[明治天皇]]第六皇女・[[恒久王妃昌子内親王|常宮昌子内親王]]と第七皇女・[[成久王妃房子内親王|周宮房子内親王]]の住まいに定められ、1915年(大正4年)から1924年(大正13)までは皇太子[[昭和天皇|裕仁親王]]の[[東宮御所]]だった。
なお、菊栄親睦会およびこれらの活動について宮内庁は、「皇室の方々の私的な御交際」とした上で「皇族方の公私にわたるお世話をしているということから、同会のお手伝いをしている」「こうした御交際について、特段の法的な位置づけがあるものではない」と答弁している<ref name="kokkai-2021-0226">{{cite conference |url =https://kokkai.ndl.go.jp/txt/120405266X00220210226 |date = 2021-2-26 |title = 衆議院予算委員会第一分科会 |volume = 第2号 |conference = 第204回国会 }} [[池田憲治]]宮内庁次長答弁</ref>。


高松宮邸となった高輪御殿には[[1931年]](昭和6年)、[[内匠寮|宮内省]]内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観は[[チューダー様式]]、内装は折衷様式とし、1階は公室として謁見室、大食堂、新食堂(茶会・晩餐会用)などが、2階は私室として殿下御書斎、妃殿下御居間などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、[[近江神宮]]に移築)を鎮座した。
; 定例の陪食・賜茶の会


幸い、[[太平洋戦争]]の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には[[港区立高松中学校]]や都営高輪一丁目アパートなどが建てられた。
概ね年2回~2年に1回の割合で、皇居に旧皇族が召かれて、天皇・皇后との会食を行う{{Sfn|勝岡|pp=108-111}}。また、皇室の慶事(皇族の婚姻等)に合わせて内祝いとして開催されることもある{{Sfn|勝岡|p=111}}。


また本館は[[1949年]](昭和24年)、[[貿易庁]]の迎賓施設「[[光輪閣]]」として改装。かつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった[[川添浩史]]を支配人に据え、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の高官や大公使などを接待したり結婚披露宴を催す施設に転用された。夏季は、邸内の[[プール]]を近隣の子供たちに開放した時期もあった。
; 皇族主催の親睦会


光輪閣を出た宣仁親王夫妻は木造平屋建ての和館で起居していたが、光輪閣が老朽化によって[[1972年]](昭和47年)に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、[[2004年]](平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。また和館は[[仁和寺]]に移築され、貴賓室「高松宮記念書院」として使用されている(非公開)。現在、宮邸敷地および邸宅は'''[[高輪皇族邸]]'''として無人のまま[[宮内庁]]の管理下におかれている。
昭和50年代ごろから始められた形式で、老齢に達した昭和天皇にかわる形で、天皇・皇后の慶事を、皇太子同妃が主催して祝う形式がとられた・皇居・吹上御苑内の花蔭亭が使用され、皇族・旧皇族に加えて、侍従職等も交じっての余興が多く行われる特色がある{{Sfn|勝岡|pp=111-114}}。


1995年(平成7年)に「競輪・競艇などに名義貸しをして毎年1000万円近くの謝礼を受けていた」ことが国会で問題視された。当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明した。
; 菊栄親睦会大会


[[2017年]](平成29年)12月、[[2019年]]4月の[[明仁|明仁上皇]]の譲位後に設置される予定の[[仙洞御所]]改修(従来の[[東宮御所]]を、[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]の宮廷に転用)までの御假寓「'''仙洞仮御所'''」として高輪皇族邸が使用されることが発表された。
皇室の慶事や重大事があった際に、親睦会の主催で特別に開催される。皇居外で行われるのが通例であり、天皇・皇后が招待される形をとる。皇族・旧皇族から数名が幹事となり、皇族・旧皇族の正会員に加えて、その親族も参列し、総勢100名近くに達することもある{{Sfn|勝岡|p=91}}。立食形式で和洋の料理、デザート、飲み物などがふるまわれ、[[寿司]]や[[天ぷら]]がその場で提供されるという{{Sfn|伏見|pp=158-160}}。


職員住宅だった敷地の南東部分は喜久子妃の薨去後に売却され [[住友不動産]]が[[2007年]]、高級分譲賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に[[高松宮妃癌研究基金]]の本部事務所が入居し、事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。
2年~5年に1回のペースで開かれるが、平成に入ると明仁天皇が公務で多忙であったこともあり、開催頻度は減少した{{Sfn|伏見|p=157}}。直近で開催された大会は、2014年(平成26年)5月18日の「天皇陛下傘寿奉祝菊栄親睦会大会」である<ref name="kokkai-2021-0226"/>。[[令和]]になってからは、令和2年(2020年)6月に予定されていた{{Sfn|伏見|p=157}}、徳仁天皇即位奉祝の大会が[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の感染拡大]]の影響で取り止めとなって、一度も開催されていない。

== 別邸 ==
高松宮家は有栖川宮家から翁島別邸([[福島県]][[耶麻郡]][[猪苗代町|翁島村]]他)、葉山別邸([[神奈川県]][[三浦郡]][[葉山町|葉山村]])と麻布御用地(東京市[[麻布区]]、現在の東京都港区麻布盛岡町他)を引き継いだが、麻布御用地は[[1934年]](昭和9年)、東京市に払い下げられ、[[有栖川宮記念公園]]として整備された。翁島別邸も[[1952年]](昭和27年)に福島県に払い下げられ、現在は[[天鏡閣]]および[[福島県迎賓館]]として公開されている。

また、[[鳩彦王妃允子内親王|富美宮允子]]・[[東久邇聡子|泰宮聡子]]両内親王の避暑地として[[1895年]](明治28年)に設けられた宮ノ下御用邸(神奈川県[[足柄下郡]][[箱根町]])を[[1933年]](昭和8年)から宮ノ下別邸として所有。この別邸は[[1946年]](昭和21年)に[[富士屋ホテル]]へ譲渡され、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。

葉山別邸は[[1987年]](昭和62年)、宣仁親王の薨去に伴う[[相続税]]支払いのため[[住友信託銀行]]に売却され、跡地には[[2003年]](平成15年)に[[神奈川県立近代美術館]]・葉山館が開館した。[[西園寺公望]]の別荘だった[[坐漁荘]]([[静岡県]][[庵原郡]][[興津町 (静岡県)|興津町]]、現在の[[静岡市]][[清水区]]、建物は[[1970年]]に[[博物館明治村]]へ移築)も一時期、高松宮が所有していた。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|18em}}

==参考文献==
* {{Cite book|和書|author= 伏見博明|title= 旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて|publisher = [[中央公論新社]] |date=2022-01-26|isbn =978-4120054952|ref={{SfnRef|伏見}}}}
* {{Cite journal | 和書 | author = 勝岡寛次 | authorlink = 勝岡寛次 | title = 菊栄親睦会の基礎的研究 | journal = 日本国史学 | volume = 17 | issue = | publisher = 日本国史学会 | date = 2021-08-01 | pages = 74-127 | isbn = 978-4-89992-077-9 | ref = {{SfnRef|勝岡}}}}
{{参照方法|date=2021年6月|section=1}}
* [[谷部金次郎]]『昭和天皇と鰻茶漬 陛下一代の料理番』[[河出書房新社]]、2015年
* 皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』[[KADOKAWA]]、2019年


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[旧皇族]]
* [[宮家一覧]]
*[[霞会館]]
* [[有栖川宮]]
* [[高松宮殿下記念世界文化賞]]
* [[高松宮妃癌研究基金]]
* [[高松宮記念]]
* [[高松宮家本源氏物語]]

== 外部リンク ==
* [https://www.kunaicho.go.jp/about/history/history13.html 旧高松宮家] - 宮内庁


{{天皇項目}}
{{宮家一覧}}
{{DEFAULTSORT:きくえいしんほくかい}}

2024年6月22日 (土) 05:52時点における版

高松宮
家紋
高松宮紋章
家祖 高松宮宣仁親王
大正天皇第三皇子)
種別 皇族宮家
出身地 東京府東京市麹町区三年町
(現:東京都千代田区永田町
東京府東京市芝区高輪西台町
(現:東京都港区高輪
主な根拠地 東京都
凡例 / Category:日本の氏族
正面口

高松宮(たかまつのみや)は、かつて存在した皇室宮家。歴史的には高松宮好仁親王を初代とし、幸仁親王まで3代継承されたところで有栖川宮に改称された[1]1913年大正2年)7月6日大正天皇の第三皇子・宣仁親王が「高松宮」の宮号を賜り同家の祭祀を承継した。

構成

読み 性別 生年月日 続柄 概要
高松宮宣仁親王 のぶひと 男性 1905年(明治38年)01月03日 大正天皇第三皇男子 1987年(昭和62年)02月03日薨去
(満82歳没)
宣仁親王妃喜久子 きくこ 女性 1911年(明治44年)12月26日 公爵徳川慶久次女 2004年(平成16年)12月18日薨去
(満92歳没)

歴史

「高松宮」の号は、有栖川宮の旧称であり、好仁親王後陽成天皇の第7皇子)が「高松宮」を称していた[1]。その後、良仁親王(のちの後西天皇)が正保4年(1647年)に継承[1]。後西天皇の即位により幸仁親王が継承したが、高松宮の称号は後水尾天皇の叡慮ではないとの理由から有栖川宮に宮号を変更した[1]

大正時代になり、有栖川宮の最後の当主威仁親王が、嗣子栽仁王に先立たれたまま1913年(大正2年)に危篤となった際、大正天皇の特旨により、第3皇子宣仁親王(当時8歳)が有栖川宮の祭祀を継承した[1]旧皇室典範では皇族養子縁組が禁じられていたため、宣仁親王は有栖川宮そのものを相続するのではなく新たな宮家を創設したうえで、有栖川宮の祭祀や土地などの財産、そして一部の旧臣(家来)を継承するという形がとられ、宮号には有栖川宮にゆかりの「高松宮」が与えられた。

宣仁親王は、徳川慶喜の孫娘であり、威仁親王の外孫でもある徳川喜久子と結婚したが、夫妻の間に子はなかった。

1987年昭和62年)2月3日宣仁親王、また2004年平成16年)12月18日には妃喜久子がそれぞれ薨去し、廃絶となった。

宮邸

高輪皇族邸(旧高松宮邸)の正門アップ

宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き、1904年(明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1922年に威仁親王妃慰子が薨去したあとは東京市麹町区三年町(現・東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承する。

昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣官邸に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・港区高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1915年(大正4年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王東宮御所だった。

高松宮邸となった高輪御殿には1931年(昭和6年)、宮内省内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観はチューダー様式、内装は折衷様式とし、1階は公室として謁見室、大食堂、新食堂(茶会・晩餐会用)などが、2階は私室として殿下御書斎、妃殿下御居間などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、近江神宮に移築)を鎮座した。

幸い、太平洋戦争の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパートなどが建てられた。

また本館は1949年(昭和24年)、貿易庁の迎賓施設「光輪閣」として改装。かつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に据え、連合国軍最高司令官総司令部の高官や大公使などを接待したり結婚披露宴を催す施設に転用された。夏季は、邸内のプールを近隣の子供たちに開放した時期もあった。

光輪閣を出た宣仁親王夫妻は木造平屋建ての和館で起居していたが、光輪閣が老朽化によって1972年(昭和47年)に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、2004年(平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。また和館は仁和寺に移築され、貴賓室「高松宮記念書院」として使用されている(非公開)。現在、宮邸敷地および邸宅は高輪皇族邸として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。

1995年(平成7年)に「競輪・競艇などに名義貸しをして毎年1000万円近くの謝礼を受けていた」ことが国会で問題視された。当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明した。

2017年(平成29年)12月、2019年4月の明仁上皇の譲位後に設置される予定の仙洞御所改修(従来の東宮御所を、上皇の宮廷に転用)までの御假寓「仙洞仮御所」として高輪皇族邸が使用されることが発表された。

職員住宅だった敷地の南東部分は喜久子妃の薨去後に売却され 住友不動産2007年、高級分譲賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居し、事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。

別邸

高松宮家は有栖川宮家から翁島別邸(福島県耶麻郡翁島村他)、葉山別邸(神奈川県三浦郡葉山村)と麻布御用地(東京市麻布区、現在の東京都港区麻布盛岡町他)を引き継いだが、麻布御用地は1934年(昭和9年)、東京市に払い下げられ、有栖川宮記念公園として整備された。翁島別邸も1952年(昭和27年)に福島県に払い下げられ、現在は天鏡閣および福島県迎賓館として公開されている。

また、富美宮允子泰宮聡子両内親王の避暑地として1895年(明治28年)に設けられた宮ノ下御用邸(神奈川県足柄下郡箱根町)を1933年(昭和8年)から宮ノ下別邸として所有。この別邸は1946年(昭和21年)に富士屋ホテルへ譲渡され、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。

葉山別邸は1987年(昭和62年)、宣仁親王の薨去に伴う相続税支払いのため住友信託銀行に売却され、跡地には2003年(平成15年)に神奈川県立近代美術館・葉山館が開館した。西園寺公望の別荘だった坐漁荘静岡県庵原郡興津町、現在の静岡市清水区、建物は1970年博物館明治村へ移築)も一時期、高松宮が所有していた。

脚注

  1. ^ a b c d e 石田 実洋「冷泉家時雨亭文庫所蔵『朝儀諸次第』と高松宮家伝来禁裏本」『書陵部紀要』第53巻、宮内庁書陵部、2002年、7-8頁。 

関連項目

外部リンク