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三笠宮 2023年7月30日 (日) 05:30 (UTC) より転記。 タグ: 差し戻し済み 曖昧さ回避ページへのリンク |
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{{Otheruses||公営競技([[競馬]]、[[競輪]]、[[競艇]])のレース|高松宮記念}} |
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{{日本の氏族 |
{{日本の氏族 |
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|家名= |
|家名=三笠宮家 |
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|支流= |
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}} |
}} |
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{{日本の皇室}} |
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[[Image:Takamatsu-no-miya_house_20061221_0014.jpg|thumb|right|250px|正面口]] |
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{{Wikisource|崇仁親王殿下ニ三笠宮ノ稱號ヲ賜ハル|3=宮内省告示}} |
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'''三笠宮'''(みかさのみや)は、[[日本]]の'''[[三笠宮崇仁親王|崇仁親王]]'''の[[宮号]]。 |
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ここでは崇仁親王が設立した'''三笠宮家'''([[直宮家]])についても解説する。現当主は[[崇仁親王妃百合子]]。 |
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'''高松宮'''(たかまつのみや)は、[[日本]]の[[皇室]]における[[宮家]]の一つ。 |
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== |
==概要== |
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三笠宮の宮号は、1935年([[昭和]]10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、[[阿倍仲麻呂]]の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の'''[[春日山 (奈良県)|三笠山]]'''にちなんで命名された。同時に[[大勲位]]に叙せられている。 |
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1913年(大正2年)7月6日、[[大正天皇]]の第三皇子である'''[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]]'''を初代として創設された。 |
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1980年(昭和55年)11月7日、長男の[[寬仁親王]]が結婚を機に寬仁親王家として三笠宮本家から独立。 |
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高松宮の前身である[[有栖川宮]]は、17世紀初頭から続く由緒ある宮家であったが、1913年7月10日、10代[[有栖川宮威仁親王|威仁親王]]が嗣子なくして薨去。[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]では養子縁組が禁じられていたため、断絶する。しかしこの時、宮家歴代の功から、大正天皇の特旨により、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承、宮家の土地などの財産、そして一部の旧臣([[家来]])を相続し、有栖川宮の旧称である'''高松宮'''を名乗った。また、威仁親王の外孫でもある[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]が、宣仁親王の妃となった。 |
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2012年(平成24年)6月6日、寬仁親王が後継者たる男子をもうけないまま薨去。家族である寬仁親王家は三笠宮本家と合流。 |
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宣仁親王に子がいなかったことから、2004年(平成16年)12月18日、喜久子妃の薨去をもって断絶。 |
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2016年(平成28年)10月27日に当主崇仁親王が薨去。それに伴い11月16日、[[皇室経済会議]]により[[崇仁親王妃百合子]]を2代目当主と認定。 |
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; 構成員一覧 |
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{| class="wikitable" |
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現在の三笠宮家は男子([[親王]]・[[王 (皇族)|王]])が不在であり、現行[[皇室典範]]上においては、崇仁親王妃百合子、および寬仁親王妃信子とその子である彬子女王・瑶子女王の薨去、または[[皇籍離脱]]をもって宮家が断絶することになる。これは寛仁親王の傍系にあたる高円宮家においても同様である。 |
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! |
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!読み |
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==構成== |
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{|class="wikitable" style="font-size:small" |
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!名 |
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!性別 |
!性別 |
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!生年月日 |
!生年月日 |
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!現年齢 |
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!続柄 |
!続柄 |
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!概要 |
!概要 |
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|- |
|- |
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|[[崇仁親王妃百合子|崇仁親王妃{{ruby|百合子|ゆりこ}}]] |
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|[[高松宮宣仁親王]] |
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|女性 |
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|のぶひと |
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|1923年6月4日 |
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|男性 |
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|{{年数|1923|6|4}}歳 |
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|1905年(明治38年){{0}}1月{{0}}3日 |
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|[[三笠宮崇仁親王]]妃 |
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|[[大正天皇]]第三皇男子 |
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|1987年(昭和62年){{0}}2月{{0}}3日薨去<br>(満82歳没) |
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|[[ |
|[[寬仁親王妃信子|寬仁親王妃{{ruby|信子|のぶこ}}]] |
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|きくこ |
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|女性 |
|女性 |
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| |
|1955年4月9日 |
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|{{年数|1955|4|9}}歳 |
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|[[公爵]][[徳川慶久]]次女 |
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|[[寬仁親王]]妃 |
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|2004年(平成16年)12月18日薨去<br>(満92歳没) |
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|2013年に合流 |
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|- |
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|[[彬子女王|{{ruby|彬子|あきこ}}女王]] |
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|女性 |
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|1981年12月20日 |
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|{{年数|1981|12|20}}歳 |
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|[[寬仁親王]]第一女子 |
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|2013年に合流 |
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|[[瑶子女王|{{ruby|瑶子|ようこ}}女王]] |
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|女性 |
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|1983年10月25日 |
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|{{年数|1983|10|25}}歳 |
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|[[寬仁親王]]第二女子 |
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|2013年に合流 |
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|} |
|} |
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== 系図 == |
== 系図 == |
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<!--[[Image:Taisyoutennou kinjyoutennou.png|500px]]--> |
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<div style="font-size:70%; text-align:center"> |
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{{familytree/end}} |
{{familytree/end}} |
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</div> |
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===離脱・薨去=== |
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== 宮邸 == |
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{|class=wikitable style="font-size:small" |
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[[画像:Residence_of_prince_takamatsu.jpg|250px|right|thumb|高輪皇族邸(旧高松宮邸)の正門アップ]] |
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!名 |
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宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き、[[1904年]](明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1922年に[[威仁親王妃慰子]]が薨去したあとは[[東京市]][[麹町区]]三年町(現・[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承する。 |
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!性別 |
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!生年月日 |
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!続柄 |
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!概要 |
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|- |
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|[[三笠宮崇仁親王|三笠宮{{ruby|崇仁|たかひと}}親王]] |
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|男性 |
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|1915年12月2日 |
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|[[大正天皇]]第四皇男子 |
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|2016年[[崩御#薨去|薨去]] |
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|[[近衞甯子|{{ruby|甯子|やすこ}}内親王]] |
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|女性 |
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|1944年4月26日 |
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|[[崇仁親王]]第一女子 |
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|1966年婚姻 |
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|- |
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|[[寬仁親王|{{ruby|寬仁|ともひと}}親王]] |
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|男性 |
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|1946年1月5日 |
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|崇仁親王第一男子 |
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|2012年薨去 |
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|[[桂宮宜仁親王|{{ruby|宜仁|よしひと}}親王]] |
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|男性 |
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|1948年2月11日 |
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|崇仁親王第二男子 |
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|1988年桂宮家創設、2014年薨去 |
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|[[千容子|{{ruby|容子|まさこ}}内親王]] |
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|女性 |
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|1951年10月23日 |
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|崇仁親王第二女子 |
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|1983年婚姻 |
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|- |
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|[[高円宮憲仁親王|{{ruby|憲仁|のりひと}}親王]] |
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|男性 |
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|1954年12月29日 |
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|崇仁親王第三男子 |
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|1984年[[高円宮|高円宮家]]創設、2002年薨去 |
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|} |
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==当主== |
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昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣[[公邸|官邸]]に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・[[港区 (東京都)|港区]]高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は1891年(明治24年)、[[明治天皇]]第六皇女・[[恒久王妃昌子内親王|常宮昌子内親王]]と第七皇女・[[成久王妃房子内親王|周宮房子内親王]]の住まいに定められ、1915年(大正4年)から1924年(大正13)までは皇太子[[昭和天皇|裕仁親王]]の[[東宮御所]]だった。 |
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初代当主・[[三笠宮崇仁親王]]は、1915年([[大正]]4年)12月2日に[[大正天皇]]と[[貞明皇后]]の四男として誕生。[[御称号]]は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、[[子爵]][[高木正得]]の次女・[[崇仁親王妃百合子|百合子]]と結婚し、以下の子女をもうけた。 |
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*[[近衞甯子|甯子内親王]]:[[日本赤十字社]]社長・[[近衞忠煇|近衛忠煇]]夫人。[[お印]]は[[クスノキ|楠]]。 |
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高松宮邸となった高輪御殿には[[1931年]](昭和6年)、[[内匠寮|宮内省]]内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観は[[チューダー様式]]、内装は折衷様式とし、1階は公室として謁見室、大食堂、新食堂(茶会・晩餐会用)などが、2階は私室として殿下御書斎、妃殿下御居間などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、[[近江神宮]]に移築)を鎮座した。 |
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*[[寬仁親王]]:三笠若宮(生誕時から2012年まで)。お印は[[カシワ|柏]]。 |
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*[[桂宮宜仁親王|宜仁親王]]:[[桂宮]]。お印は[[カツラ (植物)|桂]]。 |
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*[[千容子|容子内親王]]:[[茶道]][[裏千家]]第16代家元・[[千宗室 (16代)|千宗室]]夫人。お印は[[カエデ|楓]]。 |
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*[[高円宮憲仁親王|憲仁親王]]:[[高円宮]]。お印は[[ヒイラギ|柊]]。 |
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5人の子女は、名前が「<span style="speak:none">[[宀部|宀]]</span>(うかんむり)」、お印が「<span style="speak:none">[[木部|木]]</span>(きへん)」と、それぞれ同じ漢字の部首で統一されている。 |
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幸い、[[太平洋戦争]]の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には[[港区立高松中学校]]や都営高輪一丁目アパートなどが建てられた。 |
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2016年(平成28年)、崇仁親王薨去に伴い、[[崇仁親王妃百合子]]が三笠宮家の当主となった。 |
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また本館は[[1949年]](昭和24年)、[[貿易庁]]の迎賓施設「[[光輪閣]]」として改装。かつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった[[川添浩史]]を支配人に据え、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の高官や大公使などを接待したり結婚披露宴を催す施設に転用された。夏季は、邸内の[[プール]]を近隣の子供たちに開放した時期もあった。 |
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==寬仁親王家== |
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光輪閣を出た宣仁親王夫妻は木造平屋建ての和館で起居していたが、光輪閣が老朽化によって[[1972年]](昭和47年)に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、[[2004年]](平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。また和館は[[仁和寺]]に移築され、貴賓室「高松宮記念書院」として使用されている(非公開)。 |
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崇仁親王第一男子・寬仁親王は生前、将来的に「三笠宮」の宮号を継承すると考えられていた存在であったが、現行制度では宮号は宮家の当主に授けられるものとされているので、当主ではなかった寬仁親王を「三笠宮寬仁親王」と呼称することは、厳密に考えれば誤用であるといえる。なお、かつて宮家の後嗣は「'''○○若宮'''」と呼ばれていたが、宮家自体の数の減少や、宮家に男子が生まれることがほとんどなくなったため、現在は一般的な呼称ではない。 |
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なお、寬仁親王は宮号は賜っていなかったものの、'''[[寬仁親王]]家'''として三笠宮本家から独立した生計を営んでおり、同家の当主となっていた。寬仁親王の薨去に伴い、同家の当主は不在となった。宮内庁は2013年6月10日、寬仁親王の薨去時にさかのぼって寬仁親王家が廃されたものとして扱い、同家の成員については職員や皇族費はそのままで三笠宮家に合流することを発表した。同年7月31日には、当主のいなくなった寬仁親王邸を「三笠宮東邸」に改めることになった。 |
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喜久子妃の薨去後は、宮邸敷地および邸宅は'''[[高輪皇族邸]]'''として無人のまま[[宮内庁]]の管理下におかれている。2020年から2022年の間、[[明仁|明仁上皇]]および[[美智子|美智子上皇后]]が[[仙洞御所]]の改修の期間仮住まいし、「'''仙洞仮御所'''」と称された。 |
|||
[[秩父宮|秩父宮家]]や[[高松宮|高松宮家]](共に絶家となるまで)、また[[高円宮|高円宮家]]では親王の薨去後に親王妃が当主となっており、それが事実上慣例化していた。しかし寬仁親王家では後継の当主が定まらず、[[寬仁親王妃信子|信子妃]]も、また喪主を務めた[[彬子女王]]も当主にはならなかった。 |
|||
職員住宅だった敷地の南東部分は喜久子妃の薨去後に売却され [[住友不動産]]が[[2007年]]、高級分譲賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に[[高松宮妃癌研究基金]]の本部事務所が入居し、事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。 |
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{|class="wikitable" |
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!名 |
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; 別邸 |
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!性別 |
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高松宮家は有栖川宮家から翁島別邸([[福島県]][[耶麻郡]][[猪苗代町|翁島村]]他)、葉山別邸([[神奈川県]][[三浦郡]][[葉山町|葉山村]])と麻布御用地(東京市[[麻布区]]、現在の東京都港区麻布盛岡町他)を引き継いだが、麻布御用地は[[1934年]](昭和9年)、東京市に払い下げられ、[[有栖川宮記念公園]]として整備された。翁島別邸も[[1952年]](昭和27年)に福島県に払い下げられ、現在は[[天鏡閣]]および[[福島県迎賓館]]として公開されている。 |
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!生年月日 |
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!続柄 |
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また、[[鳩彦王妃允子内親王|富美宮允子]]・[[東久邇聡子|泰宮聡子]]両内親王の避暑地として[[1895年]](明治28年)に設けられた宮ノ下御用邸(神奈川県[[足柄下郡]][[箱根町]])を[[1933年]](昭和8年)から宮ノ下別邸として所有。この別邸は[[1946年]](昭和21年)に[[富士屋ホテル]]へ譲渡され、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。 |
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!概要 |
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|- |
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|寬仁親王|{{ruby|寬仁|ともひと}}親王 |
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|男性 |
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|[[1946年]][[1月5日]] |
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|[[崇仁親王]]第一男子 |
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|[[2012年]]薨去 |
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|- |
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|[[寬仁親王妃信子|寬仁親王妃{{ruby|信子|のぶこ}}]] |
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|女性 |
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|[[1955年]][[4月9日]] |
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|寬仁親王妃 |
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|[[2013年]]に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |
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|- |
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|[[彬子女王|{{ruby|彬子|あきこ}}女王]] |
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|女性 |
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|[[1981年]][[12月20日]] |
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|寬仁親王第一女子 |
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|2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |
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|- |
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|[[瑶子女王|{{ruby|瑶子|ようこ}}女王]] |
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|女性 |
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|[[1983年]][[10月25日]] |
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|寬仁親王第二女子 |
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|2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |
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|} |
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==脚注== |
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葉山別邸は[[1987年]](昭和62年)、宣仁親王の薨去に伴う[[相続税]]支払いのため[[住友信託銀行]]に売却され、跡地には[[2003年]](平成15年)に[[神奈川県立近代美術館]]・葉山館が開館した。[[西園寺公望]]の別荘だった[[坐漁荘]]([[静岡県]][[庵原郡]][[興津町 (静岡県)|興津町]]、現在の[[静岡市]][[清水区]]、建物は[[1970年]]に[[博物館明治村]]へ移築)も一時期、高松宮が所有していた。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{Reflist}} |
{{Reflist}} |
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== |
==関連項目== |
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* |
*[[三笠山]] |
||
* [[有栖川宮]] |
|||
* [[高松宮殿下記念世界文化賞]] |
|||
* [[高松宮妃癌研究基金]] |
|||
* [[高松宮記念]] |
|||
* [[高松宮家本源氏物語]] |
|||
== |
==外部リンク== |
||
* |
*[https://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/05/activity05.html 三笠宮家のご活動] - [[宮内庁]] |
||
{{宮家一覧}} |
{{宮家一覧}} |
||
{{Imperial-stub}} |
|||
{{デフォルトソート:みかさのみや}} |
2024年6月22日 (土) 06:40時点における版
三笠宮家 | |
---|---|
家祖 |
三笠宮崇仁親王 (大正天皇第4皇男子) |
種別 | 皇族(宮家) |
出身地 | 東京都 |
著名な人物 |
三笠宮崇仁親王 寬仁親王(第1男子) 甯子内親王(第1女子) 宜仁親王(第2男子) 容子内親王(第2女子) 憲仁親王 |
支流、分家 |
桂宮 高円宮 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
皇室 |
---|
|
ここでは崇仁親王が設立した三笠宮家(直宮家)についても解説する。現当主は崇仁親王妃百合子。
概要
三笠宮の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名された。同時に大勲位に叙せられている。
1980年(昭和55年)11月7日、長男の寬仁親王が結婚を機に寬仁親王家として三笠宮本家から独立。
2012年(平成24年)6月6日、寬仁親王が後継者たる男子をもうけないまま薨去。家族である寬仁親王家は三笠宮本家と合流。
2016年(平成28年)10月27日に当主崇仁親王が薨去。それに伴い11月16日、皇室経済会議により崇仁親王妃百合子を2代目当主と認定。
現在の三笠宮家は男子(親王・王)が不在であり、現行皇室典範上においては、崇仁親王妃百合子、および寬仁親王妃信子とその子である彬子女王・瑶子女王の薨去、または皇籍離脱をもって宮家が断絶することになる。これは寛仁親王の傍系にあたる高円宮家においても同様である。
構成
名 | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 続柄 | 概要 |
---|---|---|---|---|---|
崇仁親王妃 |
女性 | 1923年6月4日 | 101歳 | 三笠宮崇仁親王妃 | |
寬仁親王妃 |
女性 | 1955年4月9日 | 69歳 | 寬仁親王妃 | 2013年に合流 |
女性 | 1981年12月20日 | 42歳 | 寬仁親王第一女子 | 2013年に合流 | |
女性 | 1983年10月25日 | 40歳 | 寬仁親王第二女子 | 2013年に合流 |
系図
大正天皇 | 貞明皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三笠宮崇仁親王 | 百合子妃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甯子内親王(近衞甯子) | 寬仁親王 | 信子妃 | 桂宮宜仁親王 | 容子内親王(千容子) | 高円宮憲仁親王 | 久子妃 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彬子女王 | 瑶子女王 | 承子女王 | 典子女王(千家典子) | 絢子女王(守谷絢子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
離脱・薨去
名 | 性別 | 生年月日 | 続柄 | 概要 |
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三笠宮 |
男性 | 1915年12月2日 | 大正天皇第四皇男子 | 2016年薨去 |
女性 | 1944年4月26日 | 崇仁親王第一女子 | 1966年婚姻 | |
男性 | 1946年1月5日 | 崇仁親王第一男子 | 2012年薨去 | |
男性 | 1948年2月11日 | 崇仁親王第二男子 | 1988年桂宮家創設、2014年薨去 | |
女性 | 1951年10月23日 | 崇仁親王第二女子 | 1983年婚姻 | |
男性 | 1954年12月29日 | 崇仁親王第三男子 | 1984年高円宮家創設、2002年薨去 |
当主
初代当主・三笠宮崇仁親王は、1915年(大正4年)12月2日に大正天皇と貞明皇后の四男として誕生。御称号は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、子爵高木正得の次女・百合子と結婚し、以下の子女をもうけた。
- 甯子内親王:日本赤十字社社長・近衛忠煇夫人。お印は楠。
- 寬仁親王:三笠若宮(生誕時から2012年まで)。お印は柏。
- 宜仁親王:桂宮。お印は桂。
- 容子内親王:茶道裏千家第16代家元・千宗室夫人。お印は楓。
- 憲仁親王:高円宮。お印は柊。
5人の子女は、名前が「宀(うかんむり)」、お印が「木(きへん)」と、それぞれ同じ漢字の部首で統一されている。
2016年(平成28年)、崇仁親王薨去に伴い、崇仁親王妃百合子が三笠宮家の当主となった。
寬仁親王家
崇仁親王第一男子・寬仁親王は生前、将来的に「三笠宮」の宮号を継承すると考えられていた存在であったが、現行制度では宮号は宮家の当主に授けられるものとされているので、当主ではなかった寬仁親王を「三笠宮寬仁親王」と呼称することは、厳密に考えれば誤用であるといえる。なお、かつて宮家の後嗣は「○○若宮」と呼ばれていたが、宮家自体の数の減少や、宮家に男子が生まれることがほとんどなくなったため、現在は一般的な呼称ではない。
なお、寬仁親王は宮号は賜っていなかったものの、寬仁親王家として三笠宮本家から独立した生計を営んでおり、同家の当主となっていた。寬仁親王の薨去に伴い、同家の当主は不在となった。宮内庁は2013年6月10日、寬仁親王の薨去時にさかのぼって寬仁親王家が廃されたものとして扱い、同家の成員については職員や皇族費はそのままで三笠宮家に合流することを発表した。同年7月31日には、当主のいなくなった寬仁親王邸を「三笠宮東邸」に改めることになった。
秩父宮家や高松宮家(共に絶家となるまで)、また高円宮家では親王の薨去後に親王妃が当主となっており、それが事実上慣例化していた。しかし寬仁親王家では後継の当主が定まらず、信子妃も、また喪主を務めた彬子女王も当主にはならなかった。
名 | 性別 | 生年月日 | 続柄 | 概要 |
---|---|---|---|---|
男性 | 1946年1月5日 | 崇仁親王第一男子 | 2012年薨去 | |
寬仁親王妃 |
女性 | 1955年4月9日 | 寬仁親王妃 | 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |
女性 | 1981年12月20日 | 寬仁親王第一女子 | 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 | |
女性 | 1983年10月25日 | 寬仁親王第二女子 | 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |