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「三上氏 (地下家)」の版間の差分

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2024年6月27日 (木) 08:58時点における版

氏族 > 日本の氏族 >  > 秦氏 > 三上氏 (地下家)
三上氏
家紋
本姓 忌寸
家祖 三上長用
種別 地下家
出身地 不明
主な根拠地 山城国
著名な人物 三上景文
凡例 / Category:日本の氏族

三上氏(みかみし)は、平安時代から江戸時代にかけての武家

地下家として近衛府下北面官人となっている。


概要

地下家伝』では、寛平3年(892年)2月7日に左将曹に任じられた三上長用が祖とされる。長用以降の

公長
 
 
 
公里
 
 
 
良佐
 
 
 
兼時
 
 
 
兼重
 
 
 
近行
 
 
 
近重
 
 
 
兼方
 
 
 
兼親
 
 
 
兼信
 
 
 
兼清
 
 
 
兼平
 
 
 
兼国
 
 
 
頼次
 
 
 
兼峯
 
 
 
頼武
 
 
 
頼峯
 
 
 
頼兼
 
 
 
兼有
 
 
 
武供
 
 
 
武文
 
 
 
武俊
 
 
 
武元
 
 
 
武房
 
 
 
武成
 
 
 
武数
 
 
 
武将
 
 
 
兼枝
 
 
 
兼任

までは名前と一部の官職のみが伝わっている。兼任からは

 
 
 
武広
 
 
 
武友
 
 
 
武一
 
 
 
一氏
 
 
 
武俊
 
 
 
武益
 
 
 
武重

と続き、武重の子の武喜近衛府に、養子の武景河端景慶の子)が下北面に仕えた三上氏の祖である。三上景文は下北面・三上景弘の養子で粟津義清の子[1]

脚注

  1. ^ 三上景文『地下家伝 第14 - 20日本古典全集 ; 第6期)[1] (日本語)』(日本古典全集刊行会、1937年昭和12年))

関連項目