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'''北上町十三浜'''(きたかみち じゅうさんはま)は、[[宮城県]][[石巻市]]にある[[大字]]であり、旧本吉郡'''追波浜'''・'''月浜'''・'''吉浜'''・'''立神浜'''・'''長塩谷浜'''・'''白浜'''・'''小室浜'''・'''大室浜'''・'''小泊浜'''・'''相川浜'''・'''小指浜'''・'''大指浜'''・'''小滝浜'''、旧[[本吉郡]]'''十三浜'''、旧[[桃生郡]]'''[[十三浜村]]'''、旧桃生郡[[北上町|北上村]]'''十三浜'''、旧桃生郡北上町'''十三浜'''に相当する。古くは'''館崎村'''と称されたこともあった。郵便番号は987-1101<ref name="postal"></ref>。[[2024年]]([[令和]]6年)2月時点では[[住居表示]]未実施<ref name="address">{{cite web|url=https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10304000/4849/4849.html|publisher=石巻市|title =住居表示申請について|date=2022-04-06|access-date=2024-02-26}}</ref>。石巻市の住民基本台帳によると、2024年6月末での人口は886人、世帯数は356世帯である<ref name="population"/>。
'''北上町十三浜'''(きたかみちょう じゅうさんはま)は、[[宮城県]][[石巻市]]にある[[大字]]であり、旧本吉郡'''追波浜'''・'''月浜'''・'''吉浜'''・'''立神浜'''・'''長塩谷浜'''・'''白浜'''・'''小室浜'''・'''大室浜'''・'''小泊浜'''・'''相川浜'''・'''小指浜'''・'''大指浜'''・'''小滝浜'''、旧[[本吉郡]]'''十三浜'''、旧[[桃生郡]]'''[[十三浜村]]'''、旧桃生郡[[北上町|北上村]]'''十三浜'''、旧桃生郡北上町'''十三浜'''に相当する。古くは'''館崎村'''と称されたこともあった。郵便番号は987-1101<ref name="postal"></ref>。[[2024年]]([[令和]]6年)2月時点では[[住居表示]]未実施<ref name="address">{{cite web|url=https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10304000/4849/4849.html|publisher=石巻市|title =住居表示申請について|date=2022-04-06|access-date=2024-02-26}}</ref>。石巻市の住民基本台帳によると、2024年6月末での人口は886人、世帯数は356世帯である<ref name="population"/>。


=== 地理 ===
=== 地理 ===

2024年7月16日 (火) 12:11時点における版

千葉県作成所

日本 > 千葉県 > 安房郡 > 鋸南町 > 石巻敎祖/sandbox
岩井袋
大字
令和5年5月14日撮影の岩井袋隧道。
日本の旗 日本
都道府県 千葉県の旗 千葉県
市町村 安房郡鋸南町
人口情報2023年令和5年)[1]
 人口 145 人
 世帯数 87 世帯
面積
  0.355779891 km²
人口密度 407.56 人/km²
設置日 1889年(明治22年)
郵便番号 299-2116[2]
市外局番 0470[3]
ナンバープレート 袖ケ浦
運輸局住所コード 要追記[4]
ウィキポータル 日本の町・字
千葉県の旗 ウィキポータル 千葉県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示

岩井袋(いわいふくろ[5]、いわいぶくろ[6])は、千葉県安房郡鋸南町大字であり、旧安房郡勝山町岩井袋および、1889年(明治22年)以前の平郡[注 1]岩井袋村と同一の区域である。2023年現在の人口は145人で、世帯数は87世帯。郵便番号は272-0826[2]

歴史

沿革

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により加知山村、下佐久間村、岩井袋村、竜島村が合併し、勝山村が成立。これに伴い、岩井袋は勝山村の大字になる。
  • 1896年(明治29年)1月20日 - 勝山村が町制を施行し勝山町(初代)となる。
  • 1897年(明治30年)4月1日 - 平郡が安房郡に編入。
  • 1955年(昭和30年)3月10日 - 佐久間村と勝山町が合併し、改めて勝山町(2代目)が新設。
  • 1959年(昭和34年)3月30日 - 保田町と勝山町が合併し鋸南町が成立。これに伴い、岩井袋は鋸南町の大字になる。
  • 2019年 - 令和元年房総半島台風(ファクサイ)が来襲。当地に被害をもたらす(後述)。

地理

北は下佐久間や竜島、南東は南房総市久枝と接し、西部は東京湾に面する。

小字

施設

  • 岩井袋野球場
  • 岩井袋コミュニティセンター

交通

令和5年5月14日撮影の岩井袋隧道

隧道

  • 岩井袋隧道

鉄道

域内に鉄道は走っていない。最寄駅はJR内房線安房勝山駅岩井駅が挙げられる。

バス

  • 山交バス
    • 朝日町役場・寒河江駅線[7]
  • 朝日町営バス
    • 朝日町・山形市間直行線[7]
    • 寒河江市・朝日町直行線[7]

寺社仏閣

  • 豊龍神社:宮宿の市街地北西の丘の上に所在し、豊玉姫大神を祭神とする[8]明和年間に出羽松山藩医の羽柴玄倫の著した宗古録によれば、844年承和11年)に延暦寺の僧である安慧が出羽国を巡り歩き、この地に講場を開いた際に、龍の神霊を鎮め祀って、この地の鎮守とし、別当宝筺山東守寺を建立したとされる[8]。なお、豊龍神社付近では、経筒を納める容器として用いられたと推測される12世紀末の珠洲系陶器が出土した[8]。境内には、幹囲約9メートル、樹高約40メートルの大杉があり、山形県の天然記念物に指定されている[8]
  • 熊野山福昌寺:曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来である[9]。当初は、鳥屋ヶ森館主岸美作守義満が巣林寺(現在の尾花沢市に所在)七世第鷹俊最を招き、永禄元年頃に根古屋に寺を建立し、山号を三宝山と称したとされる[9]。しかし、最上義光が鳥屋ヶ森館を攻略したとき、寺は兵火にかかったため、三本木に移転し、山号を三本山と改めた[8]。その後、1589年天正17年)に宮宿付近の開拓の進展に伴い、熊野権現社地へと移り、山号を現在の熊野山に改めた。

祭り

  • 朝日町ワイン祭り:エコミュージアムコアセンター創遊館にて毎年9月頃開催される[10]。入場券は完全前売制で、朝日町ワインのほか、バーベキューやぶどう踏み競争、抽選会を楽しめる引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています

人物

関連項目

参考文献

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 6 山形県』角川書店〈2版〉、1992年6月30日。ISBN 4040010604 
  • 吉田東伍『『大日本地名辞書』第七巻奥羽』冨山房〈9〉、1990年3月20日。ISBN 4-572-00033-6 
  • 長井政太郎『『日本歴史地名大系』第六巻山形県の地名』平凡社、1990年2月26日。ISBN 4-582-49006-9 

外部リンク

仙北作成所

日本 > 宮城県 > 本吉郡 > 南三陸町 > 石巻敎祖/sandbox
志津川
大字
地図北緯38度40分49.616秒 東経141度27分44.996秒 / 北緯38.68044889度 東経141.46249889度 / 38.68044889; 141.46249889座標: 北緯38度40分49.616秒 東経141度27分44.996秒 / 北緯38.68044889度 東経141.46249889度 / 38.68044889; 141.46249889
座標位置:南三陸町役場
日本の旗 日本
都道府県 宮城県の旗 宮城県
市町村 本吉郡南三陸町
地域 志津川地域
設置日 1889年(明治22年)4月1日
郵便番号 986-0700[2]
市外局番 0225[11]
ナンバープレート 宮城
運輸局住所コード 04815-0066[12]
ウィキポータル 日本の町・字
宮城県の旗 ウィキポータル 宮城県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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志津川(しづがわ、英語: Shizugawa)は、宮城県本吉郡南三陸町大字であり、旧本吉郡志津川町志津川地区[注 2]に相当する[13]郵便番号は986-0700[2]。大崎市ホームページによると2022年令和4年)4月1日時点での域内の人口は194人であり、世帯数は○○人である。

地理

南三陸町にある4つの大字の一つであり、入谷、戸倉、歌津とともに南三陸町を構成する[13]

河川

小字

志津川の擁する小字は以下の通りである[12]

  • 黒崎
  • 内山
  • 大久保
  • 上保呂毛
  • 下保呂毛
  • 田尻畑
  • 竹川原
  • 中瀬町
  • 廻館
  • 秋目川
  • 熊田
  • 小森
  • 御前下
  • 廻館前
  • 塩入
  • 汐見町
  • 助作
  • 城場
  • 上の山
  • 五日町
  • 十日町
  • 南町
  • 本浜町
  • 大沢
  • 磯の沢
  • 平井田
  • 新井田
  • 天王山
  • 天王前
  • 大森
  • 大森町
  • 袖浜
  • 沼田
  • 平磯
  • 深田
  • 蒲の沢
  • 平貝
  • 北の又
  • 権現
  • 立沢
  • 米広
  • 大上坊
  • 大畑
  • 松井田
  • 内井田
  • 志津川町
  • 植松
  • 小田
  • 荒坂
  • 清水浜
  • 阿曽
  • 森山
  • 細浦
  • 蛇王
  • 西田
  • 旭ヶ浦

歴史

沿革

  • 2005年(平成17年)10月1日 - 本吉郡志津川町が同郡歌津町と合併し、同郡南三陸町を設置するに伴い、大字志津川が成立[13]
  • 2011年(平成23年)3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。

交通

鉄道

東北地方太平洋沖地震による被害を受けるまでは、JR気仙沼線志津川駅が鉄道駅として設置されていたが、現在は廃止されている。最寄駅は気仙沼駅柳津駅が挙げられる。

バス

道路

学区

域内の児童は大崎市立岩出山小学校大崎市立岩出山中学校に進学する[14]

災害

参考文献

石巻町丁作成

日本 > 宮城県 > 石巻市 > 石巻敎祖/sandbox
北上町十三浜
大字
地図北緯38度34分3.590秒 東経141度25分32.174秒 / 北緯38.56766389度 東経141.42560389度 / 38.56766389; 141.42560389座標: 北緯38度34分3.590秒 東経141度25分32.174秒 / 北緯38.56766389度 東経141.42560389度 / 38.56766389; 141.42560389{{#coordinates:}}: 各ページで primary のタグは複数指定できません
日本の旗 日本
都道府県 宮城県の旗 宮城県
市町村 石巻市
地域 北上地域
人口情報2024年6月末現在[1]
 人口 886 人
 世帯数 356 世帯
面積
  34.57879339 km²
人口密度 25.62 人/km²
設置日 2005年(平成17年)4月1日
郵便番号 986-0201[2]
市外局番 0225[15]
ナンバープレート 宮城
運輸局住所コード[12] 04501-1766
ウィキポータル 日本の町・字
宮城県の旗 ウィキポータル 宮城県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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北上町十三浜(きたかみちょう じゅうさんはま)は、宮城県石巻市にある大字であり、旧本吉郡追波浜月浜吉浜立神浜長塩谷浜白浜小室浜大室浜小泊浜相川浜小指浜大指浜小滝浜、旧本吉郡十三浜、旧桃生郡十三浜村、旧桃生郡北上村十三浜、旧桃生郡北上町十三浜に相当する。古くは館崎村と称されたこともあった。郵便番号は987-1101[2]2024年令和6年)2月時点では住居表示未実施[16]。石巻市の住民基本台帳によると、2024年6月末での人口は886人、世帯数は356世帯である[1]

地理

北上町十三浜は石巻市の北東部、北上地域の北部に位置し、北は本吉郡南三陸町戸倉と、西部で北上町女川と、南西部で釜谷と接し、東部および南部で太平洋追波湾にのぞむ地である。

十三浜は、その名の通り、追波浜、月浜、吉浜、立神浜、長塩谷浜、白浜、小室浜、大室浜、小泊浜、相川浜、小指浜、大指浜、小滝浜の計13の小漁村からできている[17]。このうち、追波浜、月浜、吉浜はまとめて三ヶ浜とも呼称され、立神浜、長塩谷浜、白浜、小室浜、大室浜、小泊浜、相川浜、小指浜、大指浜、小滝浜はまとめて十ヶ浜とも呼称される[17][18]

山林

安永風土記によると、十三浜に所在する山々は以下の通りであったと記されている[19]

  • 追波浜 - 太崎、柴峰、今志籠山、藤柄巻山、細尾峰山
  • 吉浜 - 伐場山、大中崎山、小中崎山、小森貝山
  • 月浜 - 朴の木窪、袖萩峰、高小屋峰、片井ノ峰、高森山、穴荷付場、堂平山、赤似田澤山、坂ノ峰山、眞那板倉山、棚末山、神明山、丸森山、大桑木山、坪懸山
  • 立神浜 - 堂高山、牛追峰
  • 長塩谷浜 - 平路木山、萱窪山、東澤山、小松森山、似田ノ澤峰山、大岩山
  • 白浜 - 大平山
  • 相川浜 - 大愛宕山、紅松山、芦澤山
  • 小滝浜 - 大鳥屋山、大山

河川

小字

2024年7月現在における北上町十三浜の小字は以下の通りである[12]

  • 相川
  • 石生
  • 猪の沢
  • 追場
  • 大指
  • 大室
  • 追波前
  • 上大平
  • 上ノ山
  • 狐谷地
  • 小指
  • 小滝
  • 小田
  • 小泊
  • 小室
  • 崎山
  • 山居
  • 島越
  • 下大平
  • 下山
  • 菖蒲田
  • 白浜
  • 滝入
  • 畳石
  • 立神
  • 月浜
  • 月浜前
  • 壺穴
  • 長塩谷
  • 浪田
  • 東田
  • 松ノ坂
  • 祭田
  • 丸山
  • 吉浜
  • 吉浜前

明治期の小字

宮城県各村字調書によると明治17,18年頃の十三浜の小字は以下の通りである[21]

  • 追波浜
    • 小田
    • 狐谷地
    • 川中瀬
    • 菖蒲田
    • 追波前
    • 祭田
    • 追場
  • 吉浜
    • 島越
    • 吉浜
  • 月浜
    • 東田
    • 月浜
  • 立神浜
    • 立神
  • 長塩谷浜
    • 長塩谷
  • 白浜
    • 大平(おおだいら)
    • 白浜
    • 下山
  • 小室浜
    • 上ノ山
    • 小室
  • 大室浜
    • 大室
    • 猪沢
  • 小泊浜
    • 小泊
  • 相川浜
    • 崎山
    • 相川浜
    • 大平(おおひら)
  • 小指浜
    • 浪田
    • 小指
  • 大指浜
    • 山居
    • 大指
    • 松ノ阪
  • 小滝浜
    • 石生
    • 小滝
    • 畳石

歴史

集落は豊臣秀吉が実施した検地や刀狩りといった施策が実施されるに伴って成立したといわれる[17]。安永風土記によると、追波川河口に位置していた十三浜の地は、国防・公易上の観点から仙台藩の直轄地となっていた[22]。そして、追波の地の丘の上に館があったことから、十三浜村は館崎村と称されていたこともあったとされる[22]

安永風土記によると1774年(安永3年)時点で十三浜村は、人口2,234人(うち男1,188人、女1,046人)、429世帯、馬数347、船数268を擁する村であったと記されている[23]

江戸期、十三浜には百姓や家中という身分を持つ傍ら、商売や物作りをする職人がいた[24]。相川浜や長塩谷浜、立神浜には塩煮とよばれる塩を作る職人がいたとされる[24] 。中でも相川浜における製塩は塩煮場2ヶ所、塩蔵2棟、製塩従事者38名と大規模なものであったとされる[25]。相川浜での塩作りの由来は、1729年(享保14年)の大室浜佐々木家文書によると、親が持高少分なので塩煮を行っていたが、困窮により継続できなくなり、塩煮の権利を相川浜の者が買い取り、それを相続したことから、大室浜の百姓が相川浜で塩作りをし始めたということであるとされる[24]

名称の由来

十三浜

十三浜の名称は追波浜、月浜、吉浜、立神浜、長塩谷浜、白浜、小室浜、大室浜、小泊浜、相川浜、小指浜、大指浜、小滝浜の計13の小漁村からできていることに由来する[17][22]

追波浜

追波の名称は1618年(元和4年)に伊達政宗が藩内北方の巡視をした際、当地に至り、現在の追波川の河口を望んで、

館崎に登りて見れば朝日さし綾に寄せ来る追ひ波の浜

と詠んだことに由来する[22]

吉浜

川村孫兵衞重吉が北上川の新川を鹿又石巻の間に開鑿して以来、追波川の水量が減少し、河口に広大な砂州が現れ、従来の海岸に面していた現在の追波、吉浜、月浜などに当たる地域が北上川沿いの地となり、その後、吉浜にあたる地域に蘆(ヨシ)が多く茂ったので蘆浜と命名された[22]。その後に蘆浜が吉浜と雅字に書き換えたことが吉浜の名称の由来である[26]

月浜

昔、月浜の地に砦を築いたことから築浜といったのを雅字である月浜に書き換えたことを由来とする[26]

小室・大室

真柏(俗称モロ)の大木が当地に生い茂っていたことから、室(モロが転訛)の名がおこり、大室・小室の地名となったとされる[22]

相川

相川の地名の由来は諸説ある[27]。奥州藤原氏が栄えていたころから産金地として著名であった当地の金鉱が佐渡の相川を思わせるような優秀ぶりであったことから相川と命名されたという説と川の合流地点であったから相川と命名されたという説が存在する[27][28]

小滝

葛西氏がこの地を支配していたころ、武山十郎右衛門という者が桃生郡大川村長面の小滝から当地に移住してきたので、小滝を命名された[27]

沿革

  • 寛政8年(1796年)6月 - 中国広東省の船が大室浜の沖合に漂流[29]
  • 天保3年(1832年) - 三ヶ浜と釜谷浜との間で瀬場論争が発生する[18]
  • 明治元年12月7日(1869年1月19日) - 高崎藩大河内輝昭の支配下に置かれる[30][31]
  • 明治2年
    • 7月20日(1869年8月27日) - 桃生県の管轄となる[31]
    • 8月13日(1869年9月18日) - 桃生県が石巻県に改称[31]
  • 明治3年9月28日(1870年10月22日) - 石巻県廃止[31]。登米県の管轄となる[31]
  • 明治4年
    • 11月2日(1871年12月13日) - 登米県廃止[31]。一関県の管轄となる[31]
    • 12月13日(1872年1月22日) - 一関県が水沢県に改称[31]
  • 明治5年4月(1872年) - 大区小区制施行に伴い、水沢県第19大区2小区十三浜となる[32]
  • 1874年(明治7年)4月 - 水沢県第5大区7小区十三浜村となる[32]
  • 1875年(明治8年)
    • 11月22日 - 水沢県が磐井県に改称[31]
  • 1876年(明治9年)4月18日 - 磐井県が廃止[31]。宮城県の管轄となる[31]
  • 1889年(明治22年)
  • 4月1日 - 町村制施行に伴い、本吉郡十三浜村成立[32]。役所は白浜に置かれた[25]
  • 1896年(明治29年)6月15日 - 明治三陸地震が発生し、被災[33]
  • 1937年(昭和12年)3月6日 - 十三浜消防組発足[34]
  • 1939年(昭和14年)4月1日 - 十三浜警防団発足[34]
  • 1947年(昭和22年)8月1日 - 十三浜消防団発足[34]
  • 1960年(昭和35年)10月9日 - 集中豪雨が当地を襲い、長塩谷橋と相川橋が流失[35]
  • 1962年(昭和37年)4月1日 - 桃生郡北上村が町制を施行するに伴い、北上村十三浜が北上町十三浜となる[36]
  • 1966年(昭和41年)9月 - 豪雨で月浜と吉浜の集落が被害を受ける[37]
  • 2006年(平成18年) - 石巻市役所北上総合支所が新築される[38]
  • 2020年(令和2年)10月10日 - 北上にっこり地区拠点施設の完成式挙行[39]

統計

人口

2024年令和6年)6月末時点での域内の人口は以下の通りである[1]

小字 世帯数
相川 4世帯 3人 3人 6人
石生 14世帯 23人 22人 45人
猪の沢 5世帯 5人 6人 11人
大指 17世帯 16人 29人 45人
大室 34世帯 44人 40人 84人
上大平 22世帯 26人 24人 50人
上ノ山 22世帯 31人 26人 57人
小指 3世帯 3人 2人 5人
小田 79世帯 66人 73人 139人
小滝 20世帯 36人 38人 74人
小泊 18世帯 19人 25人 44人
小室 1世帯 0人 1人 1人
崎山 56世帯 73人 57人 130人
山居 4世帯 8人 2人 10人
島越 1世帯 0人 1人 1人
下山 1世帯 2人 1人 3人
菖蒲田 7世帯 14人 5人 19人
畳石 7世帯 8人 7人 15人
月浜 13世帯 16人 10人 26人
壺穴 1世帯 1人 0人 1人
長塩谷 7世帯 7人 6人 13人
浪田 17世帯 21人 15人 36人
東田 6世帯 4人 9人 13人
松ノ坂 13世帯 19人 28人 47人
祭田 1世帯 3人 2人 5人
吉浜 5世帯 5人 1人 6人
合計 356世帯 453人 433人 886人

高齢化率

施設

東日本大震災以降、北上町十三浜は石巻市北上地区復興応援隊設置事業に基づいて、施設の高台移転や団地の建設などが実施された[40]

北上にっこり地区拠点施設

北上町にっこり団地

北上町にっこり団地は北上町に古くから残る自治の仕組みである契約講を「住民主体でのまちづくり」という形で継承した復興団地である[41]

石巻市北上総合支所・北上公民館複合施設(小田93-4)[42]

石巻市北上総合支所と北上公民館を擁する施設である[43]。東日本大震災で被災し全壊した旧北上総合支所庁舎に代わり、石巻市北上地区の行政を執行するために2022年3月に設置された。鉄骨造・一部鉄筋コンクリート造3階建ての施設で、敷地面積は8,564.55m2で建物面積は2,672.53m2(うち北上総合支所庁舎1,266.61m2、北上公民館1,405.92m2)である[43]

境界論争

長面浜との境界論争

江戸期から北上川を挟んだ村々の境界論争は起きており、文化年間に三ヶ浜と対岸の釜谷浜との間で論争が発生したときは仙台藩によって北上川の中央を境界とする裁定が下され、間にあった中洲の中央に境界を示す18の塚が設置されていた[44]。その後、そのうちの18番目の塚の位置をめぐって三ヶ浜と長面浜との対立が勃発し、文久期に改めて18番目の塚が設置され、そこから河口を見通した線を双方の境界とすることが確定されたという[45]。しかし、1873年(明治6年)に水沢県・宮城県の官員が出張のうえで見分を行ったところ、かつて設定されていた見通しの境界線がずれていたことが判明し、三ヶ浜と長面浜との境界を、従来の境界線に基づいて定めるのか、本来の境界線に基づいて定めるのかで論争が発生した[45]

1874年(明治7年)に水沢県・宮城県の担当者によって作成された内済案によれば、この論争の発生原因の一つとして、北上川下流域における川様の変化[注 3]が挙げられるとしている[45]

三ヶ浜側は「寄洲は19世紀になってから形成された新しいものであり、それ以前まで行われてきた自分たちの漁業権や寄洲の利用権を認めるべきだ」と主張し、長面浜は「寄洲は19世紀以前から長期にわたって存在しており、その位置関係からしても長面浜分とすることが適当だ」と主張した[46]。争論は四年間続き、三ヶ浜・長面浜ともそれぞれ所持する過去の古文書や地誌を証拠として提示し、自らの主張の正当化を図った[47]

最終的に、1874年(明治7年)7月に水沢県・宮城県の担当者によって、条件付きで18番目の塚から河口を見通して北上川の中央を郡境(三ヶ浜と長面浜の境)とすることが確定した[48]。なお、条件とは「寄洲における双方住民の所有地は従来通りとすること」「当該水域における漁業については納税と操業の旧慣を持つ三ヶ浜、特に追波浜の権利を認めること」「追波浜がサケ網を操業する際には、桃生郡側の川岸で網引きしても構わないこと」「長面浜など桃生郡の村々が当該水域で操業をしたいときには追波浜と直接示談を行い、入漁料を支払って操業を行うこと」を指す[48]

神割崎をめぐる境界論争

江戸期、村の様子を書いた安永風土記には各村の東西南北の境界が記されており、その中で十三浜村の風土記には名石四ツとあり、釣シ石、建石、坊主石、神割石が記載されていた[23]。神崎石に関しては

小瀧浜
一 神崎石 高拾六丈 上幅三間下幅壱間
右石当郡長清水浜海境二岩有之往古長清水浜と十三ヶ浜論所之砌此岩神力を以一夜ニ相分り候ニ不神崎石と申唱候事

とあり、村境の記載は

北ハ当郡長清水浜境神崎石迄

となっている[23]。反面、隣接する長清水浜の風土記には

長清水浜
一神割崎 高壱丈六尺 上幅三間下幅壱周
右ハ当郡十三浜街道ニ有之往古十三浜と当浜と論所ニ罷成不相訳候処神力ヲ以一夜之内に相分候ニ付神割崎と申伝候事

とあり、村境の記載は

南ハ当郡十三浜之内小滝浜境当浜分苗代田神割崎より

となっている[23]

明治期となり、曖昧になっていた神割崎の地の境界を確定させる必要が出てきた[49]。しかし、幾度か、話し合いの場が設けられたにも関わらず、結論はなかなか出なかった[50]。最終的に、1980年(昭和55年)から10年計画で始まる北上町国土調査事業の最終段階で境界を確定するということになり、1989年(平成元年)に北上町・志津川町の両町の職員、漁業関係者の立ち会いのもと、境界が確定された[50]

交通

鉄道

域内に鉄道駅はない。

道路

一般国道

バス

  • 北上地区住民バス
    • 北上線 - 平日のみ運行[52]

交通史

当地と石巻を結ぶ巡航船が就航していた[53]

産業

橋浦地区の中心産業が農業であるのに対し、十三浜における中心産業は漁業である[54][55]

1960年代中ごろから開始されたワカメ養殖を中心にコンブやホタテを組み合わせた養殖業が盛んである[56]

産業史

十三浜を含む北上川下流域はサケ漁が盛んな地であった[57]。そのため、仙台藩は献上用・贈答用に大量かつ高品質のサケを御役鮭として、漁船一艘を単位に一定量徴収していた[57]。このような御役鮭は17世紀前期、伊達政宗の治世のころから賦課されており、例えば1628年(寛永5年)の伊達政宗黒印状によれば、引網・流網でサケ漁を行った場合には船一艘に付き御役鮭5本ずつを納めることが義務づけられていた[57]。御役鮭の納入は義務であったため、サケを漁獲したとしても御役鮭の納入が最優先とされ、それが納入されなければ、獲ったサケを領内外の市場に出すことはできなかった[58]。納入された御役鮭は近隣の御仕込蔵・御仕込所において塩鮭へと加工され、仙台城江戸の仙台藩邸へと送られた[58]。十三浜の場合、寛永期は一艘に付き一律5本の御役鮭が、安永期は一艘に付き一律8本の御役鮭が課されており、時代とともに御役鮭の本数が変化していたことが明らかになっている[59][60]

教育

教育史

  • 明治初期 - 追波、月浜、白浜の三ヶ所でそれそれ白石玄季、高橋要順、小笠原密山が寺子屋式の教育を行っていた[33][61][62]
  • 1873年(明治6年)10月 - 実法院に十ヶ浜小学校が設置される[62]
  • 1875年(明治8年)5月 - 追波、月浜、白浜に所在していた寺子屋を統合し、追波小学校が設置される[33]
  • 1877年(明治10年) - 追波小学校が吉浜小学校に改称[33]。また、白浜小学校設立[33]
  • 1879年(明治12年) - 十ヶ浜小学校が相川小学校に改称[62]
  • 1889年(明治22年) - 吉浜小学校が白浜小学校を吸収合併し、白浜小学校は白浜分教場となる[33]
  • 1890年(明治23年) - 教育勅語発布[33]
  • 1897年(明治30年) - 相川小学校が十三浜相川100番地に移転[62]
  • 1902年(明治35年) - 相川小学校大指分校が設立される[63]
  • 1905年(明治38年) - 吉浜小学校に充用していた江沢寺が焼失し、教育勅語謄本を失う[33]
  • 1941年(昭和16年) - 吉浜小学校が十三浜村吉浜国民学校と、相川小学校が十三浜相川国民学校と改称[64][65]
  • 1947年(昭和22年) - 学制改革により、十三浜吉浜国民学校が十三浜村立吉浜小学校に、十三浜相川国民学校が十三浜村立相川小学校になる[64][65]。また、十三浜村立吉浜中学校および十三浜村立相川中学校が新たに設置される[66]
  • 1949年(昭和24年) - 吉浜小学校を間借りしていた吉浜中学校が十三浜月浜88の2番地に移転し、十三浜村立月浜中学校と改称する[67]
  • 1951年(昭和26年)4月1日 - 農村部で働く青年教育機関として高校の設置を村長が誘致し、津波記念館を改造した校舎を利用して宮城県飯野川高等学校十三浜分校が設置される
  • 1972年(昭和47年)5月1日 - 北上町立月浜中学校がへき地一級校に指定される[68]
  • 1978年(昭和53年)3月 - 北上町立吉浜小学校が十三浜東田50番地3に移転[62]
  • 2011年(平成23年)3月11日 - 石巻市立相川小学校、石巻市立吉浜小学校の校舎水没[62]。両校は石巻市立橋浦小学校を間借りして授業を再開[62]
  • 2013年
    • 4月 - 石巻市立相川小学校および石巻市立吉浜小学校が北上町橋浦に所在する石巻市立橋浦小学校と統合され、石巻市北上小学校が成立する[62]
    • 旧石巻市立相川小学校および旧石巻市立吉浜小学校の校舎が取り壊される[62]

文化財

  • 旧相川診療所 - 2012年8月13日に国登録有形文化財に登録[69]。有限会社熊谷産業が所有する[69]。1961年に建設されて、2011年に改修された建物で、木造平屋建の診療所と同二階建の休憩所をL形に接続する[70]。外壁は下見板張で診療所はペンキ塗とし、屋根は切妻造のスレート葺である[70]。国土の歴史的景観に寄与しているとして国登録文化財に登録された[71]
  • 旧鈴木家住宅板倉 - 2024年3月6日に国登録文化財に登録[69]。有限会社熊谷産業が所有する[69]。1915年に米を蓄える米倉として造られたが、震災後、旧北上町役場跡地に移築されて、2023年現在はレストランとして活用されてる[72]。旧鈴木家住宅板倉の屋根の妻飾りや置屋根の面戸板に施された細かな彫刻、柱を密に並べた板壁などが、大正時代の技術を伝える貴重な建築物として高く評価され、国登録文化財に登録された[72]
  • 旧佐々木家住宅板倉 - 2024年3月6日に国登録有形文化財に指定[69]。有限会社熊谷産業が所有する[69]
  • 相川南部神楽 - 1982年8月1日に市指定無形民俗文化財に指定された[69]
  • 長塩谷南部神楽 - 1982年8月1日に市指定無形民俗文化財に指定された[69]
  • 大室南部神楽 - 1982年8月1日に市指定無形民俗文化財に指定された[69]

長塩谷貝塚[73]

寺社仏閣

釣石神社

追波に所在する神社で祭日は旧暦4月8日と旧暦9月9日[74]

熊野神社(相川)

古くは熊野権現と称していたが、明治期に神仏分離令が出されてから熊野神社と称するようになった[75]

災害

東日本大震災以前の大災害

明治三陸地震

1896年(明治29年)6月15日午後8時過ぎ、三陸沖で地震が発生し、三陸沿岸で大津波が押し寄せた[76]。大指浜で5.43m、小指浜で5.86m、相川浜で6.00m、小泊浜で6.10m、大室浜で4.40m、小室浜で4.60m、長塩谷浜で3.81m、立神浜で4.63mの津波を計測した[77]。なお、1896年(明治29年)7月4日付の奥羽日日新聞によると最も被害が甚大だったのは相川浜であったとされる[78]。実際、相川浜では人口の42%が死亡し、家屋の98%が被害を受けた[79]

被災後、相川浜に相川仮病院が臨時で設置され、宮城病院の佐藤熊之助が院務を担当した[80]。来院する者は、地震で怪我を負った者、津波で汚水が混じった井戸水を飲み胃腸を病んだ者、伝染病に罹った者など多様であった[80]。病院は相川の一民家に設置され、6月18日から7月9日までの19日間開院していた[81]

1896年7月3日時点での人的・物的被害は以下の通りである[79]

集落 流失戸数 潰家戸数 半潰戸数 浸水戸数 総被害戸数 従来の戸数 家屋被害割合 死亡者 死亡率 重傷 軽傷 被害総人口 被害前人口
相川浜 37 0 5 0 42 43 98% 158 42% 6 27 191 376
大指 9 0 1 1 11 17 65% 13 9.3% 4 11 28 139
小指 10 0 1 2 13 15 87% 23 20% 2 15 39 114
小室 0 0 2 3 5 14 36% 0 0% 0 0 0 0
大室 4 3 7 4 18 22 82% 13 6.6% 0 6 19 198
小泊 0 0 3 2 5 7 71% 2 3.3% 0 4 6 60
長塩谷 0 0 2 4 6 12 50% 1 1.2% 0 0 1 82
小滝 0 0 0 0 0 17 0% 1 0.72% 0 0 1 138
月浜 0 0 4 4 8 43 19% 0 0% 0 0 0 310
立神 0 0 1 4 5 13 38% 0 0% 0 0 0 115
白浜 0 0 0 5 5 35 14% 0 0% 0 0 0 187
昭和三陸地震

1933年(昭和8年)3月3日2時に地震が発生し、三陸沿岸に津波が押し寄せた[78]。大指浜で4.8m、小指浜で4.8m、相川浜で4.8m、小泊浜で4.5m、大室浜で3.0m、小室浜で3.0m、白浜で2.1m、立神浜で2.4m、月浜で2.1mの津波を計測した[82]。流出家屋38軒、全潰3軒、半潰17軒、浸水74軒、死者13名、負傷者8名の被害を出した[83]

被災後、朝日新聞社の募集にかかる義援金の一部で罹災部落に記念碑を建設することとなり、「地震があったら津波の用心」の標語が彫刻された碑が相川、小泊、小指、小室、立神の五ヶ所に建設された[84][85]


東日本大震災

三ヶ浜地区では184名が死亡ないし行方不明となり、十ヶ浜地区では52名が死亡ないし行方不明となった[86]。また、庄司らが2015年12月から2016年2月までに実施した調査によると、三ヶ浜地区では96.2%の家屋が被害を受け、十ヶ浜地区では83.0%の家屋が被害を受けたとされる[87]。三ヶ浜と比べて、十ヶ浜地区の家屋の被害割合が少ないのは十ヶ浜地区内の相川において、一部の住民らが1933年の昭和三陸地震被災時に高台へと移転し、被害を受けなかったためである[87]

相川地区では、55戸流出、8人死亡、6人行方不明の被害を出し、また、内陸へと通じる橋が落ち道路が遮断されてたため、外部から孤立するという事態が起きた家を失った被災者らは2011年4月に開所予定であった相川保育所に身を寄せた。ライフラインについて、水は山からひいたものを、電気は当地で被災した水道業者の持っていた発電機を使用し、また、壊れた漁船から抜き取った燃料を使い、電灯をともした[88]

十三浜地区内の8漁港すべてが損壊、地盤沈下し、宮城県漁協北上町十三浜支所所属の漁船387艘のほとんどが失われた[56]

避難

石巻市北上総合支所

北上川の河口に面した北上総合支所は、津波に備えて2006年に新築されたもので、想定されていた津波の最高水位5.5メートルより1メートル高い土地に建て、避難場所にも指定されていた[38]。しかし、2011年3月11日、総合支所の2階の屋根を超える大波が押し寄せ、施設は全壊し[38][89]、総合支所に身を寄せた49人のうち、市職員2人と児童1人の3人のみが生き残った[38]。北上総合支所全壊後は、石巻市立北上中学校体育館にて総合支所の事務を執り、3月18日に北上中学校のとなりのサンパーククラブハウスに役所の事務所を移し、5月末には仮庁舎が完成した[90]

参考文献

書籍

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302 
  • 北上町史編さん委員会 編『北上町史通史編』北上町、2005年3月30日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302 
  • 北上町史編さん委員会 編『北上町史自然生活編』北上町、2004年9月1日。 
  • 北上町史編纂委員会 編『北上町史北上町百年の概要』宮城県桃生郡北上町、1975年3月。 
  • 菊地勝之助 編『宮城県地名考』宝文堂出版販売、1972年6月15日。 
  • 西城戸誠、平川全機 編『生業と地域社会の復興を考える 宮城県石巻市北上町の事例から』 1巻、公人の友社、2015年7月30日。ISBN 978-4-87555-670-1 

論文


外部リンク

作成

日本 > 宮城県 > 刈田郡 > 蔵王町 > 石巻敎祖/sandbox
大字
日本の旗 日本
都道府県 宮城県の旗 宮城県
刈田郡
市町村 蔵王町
設置日 1889年(明治22年)
4月1日
郵便番号 必須項目
ナンバープレート 宮城
町字ID
運輸局住所コード[92]
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宮城県の旗 ウィキポータル 宮城県
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(みや)は、宮城県刈田郡蔵王町大字郵便番号は。人口は人、世帯数は世帯。旧刈田郡宮村の一部。

東日本大震災

地震発生後、東北大学本部事務機構施設部による応急危険度判定が行われた研究科の建物では、風洞水槽実験室、衛星受信解析室、車庫の3棟が立ち入り危険、物理A棟、化学棟、合同棟、総合棟の4棟が立ち入り要注意と判定された[93]

物理A棟の被害は,西側非常階段の出入り口付近の破損、中階段低層階でのモルタルの剥離、屋上に設置された天文ドームの破損などが主なものである[93]。化学棟では、エレベーター棟と本棟をつなぐエクスパンション・ジョイント部がほぼすべての階で壊れ、周辺の梁のモルタルの剥離や落下が目立った[93]。また、屋上に設置されていたガスヒートポンプ(GHP)の屋外機のいくつかが倒れた。総合棟と合同棟も両棟を結ぶジョイント部分の破損があり、また、新営3期棟との接続が予定されている部分の外壁が損傷した[93]

後日、コンクリート建造物の耐震工学を専門とする工学研究科のグループ、および、耐震改修を施工した業者により、より詳しい建物調査が行われた[93]。その結果、二つのグループとも、どの建物も主な柱等には損傷がほとんどなく、今後の継続的な使用に耐えるとの判断が出された[93]

4月25日現在、余震で落下する危険のあるところのモルタルの除去など、日常的な使用に支障がないよう応急手当てが終わり、化学棟の上層階を除き、各棟とも立ち入りが自由となった[93]

附属地震・噴火予知研究観測センター(青葉城址に近い工学研究科に隣接した区域)で、セミナー室付近に地割れが発生し、セミナー室は立ち入り禁止の措置が取られた[93]

理学研究科は実験設備の被害について、2011年4月初め、概算で約40億円の被害と見積もって本部に報告している[93]

生出

日本 > 宮城県 > 仙台市 > 太白区 > 石巻敎祖/sandbox
坪沼
大字
日本の旗 日本
都道府県 宮城県の旗 宮城県
市町村 仙台市
行政区 太白区
地域 生出地域
郵便番号 982-0231[2]
市外局番 022[94]
ナンバープレート 仙台
運輸局住所コード ○○○○[12]
面積は有効数字5桁で記載している。
ウィキポータル 日本の町・字
宮城県の旗 ウィキポータル 宮城県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示

坪沼(つぼぬま)は、宮城県仙台市太白区に所在する町名であり、旧名取郡生出村坪沼、旧名取郡坪沼村に概ね相当する。郵便番号は982-0231[2]。仙台市の住民基本台帳によると、2024年4月1日時点の人口は×人、世帯数は×世帯である[1]。江戸時代に存在した旧赤石宿の名残から、当地を南赤石と呼称することもある。

地理

仙台市の中央部、仙台市太白区の東部、生出地域の南部に位置し、北部で茂庭と、東部で名取市高舘熊野堂と、南部で柴田郡村田町菅生と、西部で柴田郡川崎町支倉と接する。

河川

歴史

現在も昔ながらの景観と古くからの年中行事や里山文化が残っているため、仙台の小遠野と呼ばれる。

沿岸

  • 1956年(昭和31年) - 名取郡生出村が仙台市に編入され、坪沼が仙台市の大字となる[95]

名称の由来

丘陵に囲まれた庭状の盆地で沼の残るところであったため、坪沼と名付けられたとされる[95]

交通

鉄道

東日本大震災

2012年11月30日時点の世代・男女別の犠牲者・死亡率は以下の通りである[96]

世代と性別 死者 死亡率 当時の人口
男性 8 0.10% 8,173
女性 0 0.00% 8,433
15歳未満 0 0.00% 2,718
15 - 64歳 5 0.05% 10,870
65歳以上 3 0.10% 2,963
合計 8 0.5% 16,606

学区

川内山屋敷に在住する学生は公立小中学校の場合、仙台市立立町小学校および仙台市立第二中学校へと進学する[97]

寺社仏閣

文化財・遺跡

参考文献

外部リンク

脚注

注釈

  1. ^ もしくは平群郡とも。
  2. ^ 旧本吉郡志津川町のうち、入谷地区(旧本吉郡入谷村)と戸倉地区(同郡戸倉村)を除いた地域。
  3. ^ 具体的には、出水のたびに長面浜前の寄洲が拡大する一方で三ヶ浜側の川添の土地が減少するという変化。

出典

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  4. ^ 自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2023年8月16日閲覧。
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  10. ^ 朝日町ワイン祭り”. 山形観光物産協会やまがた観光情報センター. 2023年6月3日閲覧。
  11. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2022年1月11日閲覧。
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  15. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2023年8月29日閲覧。
  16. ^ 住居表示申請について”. 石巻市 (2022年4月6日). 2024年2月26日閲覧。
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  18. ^ a b 北上町史 2005, p. 352.
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  20. ^ 太宰幸子 編『地名は知っていた上巻』河北新報出版センター、2012年12月31日。ISBN 978-4-87341-285-6 
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  22. ^ a b c d e f 菊地勝之助 1972, p. 638.
  23. ^ a b c d 北上町史 2005, p. 627.
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  25. ^ a b 角川日本地名大辞典 1979, p. 296.
  26. ^ a b 菊地勝之助 1972, p. 639.
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  29. ^ 北上町史 2005, p. 464.
  30. ^ 北上町史 2005, p. 482.
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  34. ^ a b c 北上町史 1975, p. 167.
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  37. ^ 北上町史 1975, p. 179.
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  39. ^ 石巻支所復興だより - 北上にっこり地区拠点施設」の完成式が挙行されました”. 復興庁 (2020年10月28日). 2024年7月8日閲覧。
  40. ^ 石巻市北上地区復興応援隊設置事業” (pdf). 宮城県. 2024年7月8日閲覧。
  41. ^ 石巻市北上町にっこり団地におけるまちづくり” (pdf). 都市建築設計集団. 2024年7月8日閲覧。
  42. ^ 北上総合支所” (pdf). 石巻市. 2024年7月11日閲覧。
  43. ^ a b “[https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10181000/0070/8065/07/01_01_singi1_bessi.pdf 石巻市公共施設等総合管理計画に基づく個別施設計画 【行政庁舎】]” (pdf). 石巻市. 2024年7月11日閲覧。
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