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「松平定重」の版間の差分

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'''松平 定重'''('''まつだいら さだしげ'''、[[正保]]元年([[1644年]]) [[享保]]2年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1717年]][[11月29日]]))は、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]の第3代藩主。[[越後国|越後]][[高田藩]]の初代藩主。父は[[松平定頼]]、母は[[京極高広]]の娘。正室は[[前田利常]]の娘、継室は駒井氏。子に[[松平定逵|定逵]](五男)、[[松平定儀|定儀]](六男)、[[水野忠定]](十男)、[[柳生俊平]](十一男)、娘([[島津吉貴]]室)、娘([[松平忠雅]]室)、娘([[本多助芳]]室)、娘([[本庄宗弥]]室→[[京極高栄]]室)、娘([[五島盛暢]]室)ら。官位は従五位下、[[越中国|越中]]守。
'''松平 定重'''('''まつだいら さだしげ'''、[[正保]]元年([[1644年]]) - [[享保]]2年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1717年]][[11月29日]]))は、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]の第3代藩主。[[越後国|越後]][[高田藩]]の初代藩主。父は[[松平定頼]]、母は[[京極高広]]の娘。正室は[[前田利常]]の娘、継室は駒井氏。子に[[松平定逵|定逵]](五男)、[[松平定儀|定儀]](六男)、[[水野忠定]](十男)、[[柳生俊平]](十一男)、娘([[島津吉貴]]室)、娘([[松平忠雅]]室)、娘([[本多助芳]]室)、娘([[本庄宗弥]]室→[[京極高栄]]室)、娘([[五島盛暢]]室)ら。官位は従五位下、[[越中国|越中]]守。


幼名は万吉。伊勢桑名藩の先代藩主である[[松平定良]]の養嗣子となり、[[明暦]]3年([[1657年]])に桑名藩主となる。[[宝永]]7年([[1710年]])5月、[[郡代]]・野村増右衛門を経理上のミスにより打ち首にし、野村の親族44人と関係者の役人370人を死刑、追放、罷免などの処分にした事件が発生。その重すぎる処分が幕府の不興を買い、閏8月15日に高田藩11万3000石へ移封された。[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])9月7日、五男の[[松平定逵]]に家督を譲って隠居し、享保2年(1717年)10月27日に74歳で死去した。法号:円鏡院殿照誉定信智法大居士。
幼名は万吉。伊勢桑名藩の先代藩主である[[松平定良]]の養嗣子となり、[[明暦]]3年([[1657年]])に桑名藩主となる。[[宝永]]7年([[1710年]])5月、[[郡代]]・野村増右衛門を経理上のミスにより打ち首にし、野村の親族44人と関係者の役人370人を死刑、追放、罷免などの処分にした事件が発生。その重すぎる処分が幕府の不興を買い、閏8月15日に高田藩11万3,000石へ移封された。[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])9月7日、五男の[[松平定逵]]に家督を譲って隠居し、享保2年(1717年)10月27日に74歳で死去した。法号:円鏡院殿照誉定信智法大居士。


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2007年2月22日 (木) 11:34時点における版

松平 定重まつだいら さだしげ正保元年(1644年) - 享保2年10月27日1717年11月29日))は、伊勢桑名藩の第3代藩主。越後高田藩の初代藩主。父は松平定頼、母は京極高広の娘。正室は前田利常の娘、継室は駒井氏。子に定逵(五男)、定儀(六男)、水野忠定(十男)、柳生俊平(十一男)、娘(島津吉貴室)、娘(松平忠雅室)、娘(本多助芳室)、娘(本庄宗弥室→京極高栄室)、娘(五島盛暢室)ら。官位は従五位下、越中守。

幼名は万吉。伊勢桑名藩の先代藩主である松平定良の養嗣子となり、明暦3年(1657年)に桑名藩主となる。宝永7年(1710年)5月、郡代・野村増右衛門を経理上のミスにより打ち首にし、野村の親族44人と関係者の役人370人を死刑、追放、罷免などの処分にした事件が発生。その重すぎる処分が幕府の不興を買い、閏8月15日に高田藩11万3,000石へ移封された。正徳2年(1712年)9月7日、五男の松平定逵に家督を譲って隠居し、享保2年(1717年)10月27日に74歳で死去した。法号:円鏡院殿照誉定信智法大居士。

先代
松平定良
久松松平氏(桑名藩3代)藩主
1657~1710
次代
松平忠雅
先代
戸田忠真
久松松平氏(高田藩初代)藩主
1710~1712
次代
松平定逵