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「戸田宗光」の版間の差分

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==武勲戦功==
==武勲戦功==
*文安年間(1444年~1449年)に代官を務める碧海郡上野(愛知県豊田市)に上野の古城を築城するという

*寛正6年([[1465年]])5月、室町幕府の追討令を受けていた三河国処士・丸山一族を同国額田郡大平に討つ。
*寛正6年([[1465年]])5月、室町幕府の追討令を受けていた三河国処士・丸山一族を同国額田郡大平に討つ。
*文明7年([[1475年]])、[[渥美郡]]に進出。大津村の[[老津城]]を居城とする。同年、宗光はかねてより尾張国知多にも進出し佐治氏と対峙。
*文明7年([[1475年]])、[[渥美郡]]に進出。大津村の[[老津城]]を居城とする。同年、宗光はかねてより尾張国知多にも進出し佐治氏と対峙。

2007年4月6日 (金) 17:30時点における版

戸田 宗光とだ むねみつ永享11年(1439年)? - 永正5年6月19日1508年7月16日))は、室町中期の武将応仁の乱では西軍として活躍した。家系八幡太郎義家の子、義隆を祖とする森氏の支流で、森頼定の十男 戸田信義を祖とするという。宗光の父は伝承によると、正親町三条家からの養子といわれる戸田綱光(通称は三郎、諱は実光とも伝わる。)妻は松平和泉入道信光徳川家康の曽祖父)の女。通称は弾正左衛門尉。資料によっては、戸田弾正左衛門、戸田弾正左衛門尉と載せる場合も多い。三河国の国人で、室町幕府政所執事 伊勢貞親の被官。京都から、正親町家の領地であった三河国(愛知県)碧海郡上野に移り住んだという。上野には、古城を築城するという。三河国渥美郡田原(愛知県田原市)に田原城を、朝倉川南岸で同じく渥美郡仁連木(愛知県豊橋市)に二連木城を築城し、両城の初代城主となる。戸田氏中興の祖。

略系図

より詳しい系図は、戸田氏の項を参照。

戸田伊豆守従五位下左衛門尉十郎信義(戸田氏の祖)―戸田彦太郎義成=戸田孫二郎頼重(弟)=戸田十郎義房(弟)―戸田十郎頼方―戸田十郎頼房―戸田弾正忠宗忠―戸田三郎綱光-戸田弾正左衛門宗光―戸田弾正忠憲光

生涯

文安年間(1444年1449年)に代官を務める碧海郡上野(愛知県豊田市)に上野の古城を築城するという。寛正6年(1465年)5月、浪士丸山中務親子兄弟はじめ、大庭次郎左衛門が三河国額田郡井口に拠って、国内狼藉に及び人心を不安に陥れていた。これに対してその影に、松平信光とその娘婿 戸田宗光がいるのではないかと感じた三河守護細川成之は松平信光、戸田宗光が室町幕府政所執事 伊勢貞親のの被官にあたることから、細川氏より伊勢貞親に対して被官二人に対し謀叛の鎮定を図るよう命ずることを要請された。この依頼を受けた伊勢貞親は幕府に届出、八代将軍足利義政の命として松平信光、松平信光両将に対して狼藉の鎮定が命ぜられることとなった。幕命を受けた松平信光は深溝で大庭兄弟を討ち、戸田宗光は額田郡大平で丸山父子兄弟らを討ち首級を京に送った。賊軍与党には高力氏らの手勢も加わっており、松平・戸田両将はこれら一党を平定し、東三河に勢力版図を拡大していった。この一揆の鎮定は思いの他早く、やはり松平・戸田両氏が裏で糸を引いていのではないかとする説もあるが確証はない。その後の宗光は碧海郡の代官を務める一方で尾張国知多郡河和富貴をも領有し、文明7年(1475年)、渥美郡に入り大津村の老津城に居城を移した。宗光はかねてより尾張国知多半島にも進出していたが、知多郡師先(南知多町)から同郡河和にかけての知多半島東海岸に勢力を拡大し、同半島西岸を支配する佐治氏と対峙した。文明8年(1476年)、知多郡内における羽豆ヶ崎城において宗光は佐治氏と互いに陣を置くことになり、世に「羽豆ヶ崎の両陣」といわれた。一方、宗光は本拠である三河国において文明年間(1469年1487年)に弟 戸田家光に碧海郡の上野の古城を譲っている。その後、文明11年(1479年)、宗光は交通の要衝である田原に進出し、同地を治める足利一門の名族 三河国渥美郡の一色義直の郡代 一色政照(七郎、兵部少輔)を田原大草に隠居させ、その養子分となることで支配権を獲得した。一色政照の死後、宗光は文明12年(1480年)に田原城を築城して田原城主となる。明応2年(1493年)、渥美郡の北境の朝倉川南岸(朝倉川北岸は八名郡)の仁連木(豊橋市)に移り、二連木城(現在、大口公園)を築城し、田原城は嫡男の憲光に委ねた。やがて宗光は渥美半島統一の大業をなした。永正5年(1508年)6月19日没。子孫からは松平氏、織田氏今川氏、松平氏の後身である徳川氏と従属先を転じ、譜代大名をはじめとし多くの武将・人物が輩出した。

武勲戦功

  • 文安年間(1444年~1449年)に代官を務める碧海郡上野(愛知県豊田市)に上野の古城を築城するという
  • 寛正6年(1465年)5月、室町幕府の追討令を受けていた三河国処士・丸山一族を同国額田郡大平に討つ。
  • 文明7年(1475年)、渥美郡に進出。大津村の老津城を居城とする。同年、宗光はかねてより尾張国知多にも進出し佐治氏と対峙。
  • 文明11年(1479年)、三河国渥美郡田原の一色政照(七郎、兵部少輔)を隠居に追い込む。
  • 文明12年(1480年)、田原城を築城。
  • 明応2年(1493年)、朝倉川南岸の仁連木(豊橋市)に進出、二連木城を築城した。
  • 晩年、渥美半島統一を成し遂げる。

関連項目