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「曹叡」の版間の差分

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しかし、同じ明帝紀の景初三年の項では、明帝の享年が「年三十六」となっている。
しかし、同じ明帝紀の景初三年の項では、明帝の享年が「年三十六」となっている。
明帝の没年である「景初3年正月」は、景初暦の採用によって暦が一月ずれており、それまでの12月に相当する。[[裴松之]]も「景初3年の正月までを計算すると34歳になるはずで、暦を改訂しているので35歳ともできるが、36歳にはならない」と指摘している。「35歳ともできる」というのは、数え年による年齢の数え方(=正月に一斉に一歳を加算する)による。
明帝の没年である「景初3年正月」は、景初暦の採用によって暦が一月ずれており、それまでの12月に相当する。[[裴松之]]も「景初3年の正月までを計算すると34歳になるはずで、暦を改訂しているので35歳ともできるが、36歳にはならない」と指摘している。「35歳ともできる」というのは、数え年による年齢の数え方(=正月に一斉に一歳を加算する)による{{要出典}}


こうした疑問点から、明帝が甄氏と袁熙の息子ではないか、とする説まで唱えられている。しかし、甄皇后伝によると、203年以降、袁熙は幽州刺史に転出し、甄氏は并州に残って姑の面倒を見ていたとある。
こうした疑問点から、明帝が甄氏と袁熙の息子ではないか、とする説まで唱えられている。しかし、甄皇后伝によると、203年以降、袁熙は幽州刺史に転出し、甄氏は并州に残って姑の面倒を見ていたとある。
また、『魏志』袁紹伝によれば、袁紹の死後、曹操軍は202年9月以降、袁譚・袁尚兄弟と対戦、越年して1月にはこれを破り、203年2月から鄴を包囲した。この包囲は204年8月まで及び、そののち袁尚は胡安にいる袁熙のもとへ逃れたというので、袁熙が鄴へ向かった(あるいは戻ってきた)という可能性は、ない。
また、『魏志』袁紹伝によれば、袁紹の死後、曹操軍は202年9月以降、袁譚・袁尚兄弟と対戦、越年して1月にはこれを破り、203年2月から鄴を包囲した。この包囲は204年8月まで及び、そののち袁尚は胡安にいる袁熙のもとへ逃れたというので、袁熙が鄴へ向かった(あるいは戻ってきた)という可能性は、ない{{要出典}}


更に、史実で曹叡が太子に立てられのは、甄氏の死後かつ文帝の生前である。『魏志』明帝紀には、甄氏が誅殺されたことが原因で、文帝は長らく曹叡を疎んじていたとある。その後であらためて曹叡が太子となったことを考えれば、「曹叡は曹丕の実子」という結論にしか達し得ない{{要出典}}。
更に、史実で曹叡が太子に立てられのは、甄氏の死後かつ文帝の生前である。『魏志』明帝紀には、甄氏が誅殺されたことが原因で、文帝は長らく曹叡を疎んじていたとある。その後であらためて曹叡が太子となったことを考えれば、「曹叡は曹丕の実子」という結論にしか達し得ない{{要出典}}。

2007年5月6日 (日) 13:12時点における版

曹叡(そう えい 206年- 239年 在位226年 - 239年)は元仲三国時代の第二代皇帝文帝曹丕)の長男。生母は甄氏明帝廟号烈祖

略要

生涯

220年、15歳で武徳侯、斉公221年、平原王222年に封ぜられた。

226年、皇太子に立てられた。しかし、これは父の文帝・曹丕が病床で重体に陥ってからのことであった。同年5月に曹丕が亡くなると、皇位を受け継ぎ、即位した。あわせて曹冏を皇太子に立てた。

同年八月、孫権が自ら江夏を攻めると、江夏太守の文聘の援軍に荀禹を派遣。襄陽には、別働隊の諸葛瑾、張覇に対しては、司馬懿をこれに当たらせ、防衛に成功する。

227年春、麹英が西平で反乱を起こすと、郝昭らを派遣し、鎮圧の任に当たらせた。同年冬、新城太守の孟達諸葛亮と内通した事を知ると、司馬懿をその鎮圧の任に当たらせ、双方とも成功させた。

228、諸葛亮によって、以後五度にわたる侵攻(北伐)が開始されると、皇族の曹真、司馬懿や張郃など曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。蜀に呼応するようにして行われたの侵攻に対しても、自ら出陣してこれを防ぎ、親征においても曹丕以上の戦果を上げた。

238年遼東公孫淵王を自称。魏に対する謀反を起こすと、曹叡は群臣の反対を押し切って征討を決行。司馬懿の判断を全面的に信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた結果、反乱を早期に鎮圧することに成功。魏国が蜀漢・呉と当たる際、後顧の憂いとなっていた遼東公孫氏を取り除いた。

遼東制圧が完了した前後、都・洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、曹芳(曹芳は養子。曹叡は実子に先立たれていた)の後見人を誰にするかを模索。はじめ、叔父の曹宇曹肇曹休の子)と夏侯献夏侯覇の子とされる)・秦朗(曹操の妾の子)ら宗室で固めようとするが、彼らと不仲であった劉放孫資ら側近の反対にあって心変わりする。改めて、司馬懿・曹爽(曹真の子)らを後見人に立てると、程なく亡くなり、高平陵に葬られた。

36歳の若さであった。

その後、魏は幼帝が続き、王朝は衰え始める。

人物・事績

容貌

曹叡は、生まれつき美貌の持ち主で、髪が長く床に届くほどであったという。

軍事

即位以前、曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという。これらのことは、生母と曹丕の夫婦関係のことで複雑な事情があった事が原因だとされている。

『魏志』明帝紀などを紐解くと、曹叡は軍事に関する事柄に対して言及し、その内容がかなり的確に戦況とその結果を把握している事が注目される。

 226年、孫権の江夏への親征の際、「孫権の狙いは奇襲。文聘が江夏を固守しているため、戦線は既にこう着状態に陥っている」と推測。これを前提に「援軍が有ると見せかけさえすれば、援軍は少数でも孫権は引くだろう」と読む。その読み通りに、孫権は撤退した。

 227年、司馬懿を派遣し、孟達の内乱を阻止。このことは、蜀側にとっては新城からの侵攻ルート消滅を意味し、魏国側にとっては蜀漢による挟撃を防いだ事を意味する。これは、蜀漢の第一次北伐における、魏国の街亭での大勝利に間接的に貢献した。

呉の侵攻に対して自らの親征をもって対抗し、孫権の濡須攻撃をしばしば防いだ。北伐については曹真を充て、遼東遠征については群臣の反対を押し切って司馬懿を充て、不測の事態が起きた際には使者を送り、求められれば速やかに勅を出すなどしている。

内政

234年、諸葛亮が病没すると、連年のように行われていた蜀漢の北伐は沈静化。呉も同盟国である蜀漢の内情を考慮し、外征を一時中断した。こうして周囲の外圧が減少に転じると、曹叡は内政の手腕を問われるようになる。

まずは、農閑期の農民を潤すための公共事業として、数度に渡って宮殿の造営などを行った。この政策は、農閑期をまたいで農繁期にも実行されたため、農民は潤ったものの、農地は荒れ、生産力を低下させる結果となった。

次に、兵力の恒常的確保のため、兵士の家同士の結婚を奨励。官民(兵士以外の家)に嫁いだ既婚者は、召し上げて未婚の兵士と再婚させるなどした。この政策は、「召上げる際には奴隷を身代わりに出しても良い」「召上げた既婚者のうち容姿の良い者については後宮に入れる」などの附則が仇となり、国内での人身売買を横行させてしまう。金持ちは妻の身代わりとなる奴隷を買い求め、貧乏人は自らの妻女を金銭で金持ちに差し出したのである。

これらの政策について、楊阜高堂隆らは改めるよう懸命に諫めたが、曹叡は聞く耳を持たなかった。明帝の治世に生きた廷臣たちの伝には、必ず一度は、明帝の造作を諫める上奏が記載されている。

人事

人物登用については、司馬懿・曹真・陳羣・劉放・孫資など、軍事・政治の大臣に対して全面的な信頼を寄せた。また、父の曹丕と異なり、諫言した人物、気に入らない人物だからといって、それを処刑することはしなかった。楊阜や高堂隆は、しばしば直言を以て明帝を諫め、ために勑勘を被ったこともしばしばであったが、処罰されることがなかった。

明帝の人物観を示す逸話が、『魏志』廬毓伝に見える。当時、夏侯玄、彼の友人である諸葛誕、劉牧の子劉煕、孫資の子孫密など、当時において才人とされた人々が人物評価を行い、四聡八達(人の明な人物と人の人)と互いに格付けをしあっていた。明帝はこれを軽薄だとして嫌い、彼らを即座に全員免職にし、官吏となる資格を剥奪、終生登用しなかった。この時、明帝が廬毓に対して言った言葉が「画餅」であるが、明帝の用い方には「世間で評される名声は上辺の評価に過ぎず、実を伴わないことが多すぎる」というニュアンスがあり、徒に名士才子を褒めそやす風潮を嫌悪する心情が見える。これに対して、廬毓は「名声は、特別な人材を招くには不適でも、普通の人を集めるには適当でしょう。普通の人間とは、勉学して性を磨き、そこから名を成すものです。臣が人を推薦するとき、最初はやはり人物の評判に注目し、普通の人を招くのです」と答えた。

同時代人の曹叡評

劉曄の評では、初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣に皇帝の人となりを尋ねられて「秦始皇漢武の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と答えている。

史書家による曹叡評

三国志』の編者である陳寿の評。 「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように、宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」(沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖(※1)、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎)

同時代の歴史書を書いた孫盛の評。 「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、家を継ぐべき嫡男を作ろうとせず(注:皇族を冷遇して藩屏の役割を削いだことを指す、との解釈もある)、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」(優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫)

※1原文における「聿」は、律の行人偏のないものであり、発音はイチ・イツ

ただし、息子や娘たちには全て先立たれてしまっている。娘を葬る際に祭礼が限度を超えていると臣下から諫言されても強行したという逸話があるほどで、身内に相次いだ不幸が、後半の暴政につながったという指摘もある。

生年に関する考察

『魏志』明帝紀には明帝の生年は記されておらず、「年十五にして武徳侯に封ぜらる」と見える。文帝紀・黄初元年(ただし、この頃は延康元年)五月三日に「王子叡を封じて武徳侯と為す」とあり、206年生まれであると判る。

しかし、同じ明帝紀の景初三年の項では、明帝の享年が「年三十六」となっている。 明帝の没年である「景初3年正月」は、景初暦の採用によって暦が一月ずれており、それまでの12月に相当する。裴松之も「景初3年の正月までを計算すると34歳になるはずで、暦を改訂しているので35歳ともできるが、36歳にはならない」と指摘している。「35歳ともできる」というのは、数え年による年齢の数え方(=正月に一斉に一歳を加算する)による[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

こうした疑問点から、明帝が甄氏と袁熙の息子ではないか、とする説まで唱えられている。しかし、甄皇后伝によると、203年以降、袁熙は幽州刺史に転出し、甄氏は并州に残って姑の面倒を見ていたとある。 また、『魏志』袁紹伝によれば、袁紹の死後、曹操軍は202年9月以降、袁譚・袁尚兄弟と対戦、越年して1月にはこれを破り、203年2月から鄴を包囲した。この包囲は204年8月まで及び、そののち袁尚は胡安にいる袁熙のもとへ逃れたというので、袁熙が鄴へ向かった(あるいは戻ってきた)という可能性は、ない[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

更に、史実で曹叡が太子に立てられのは、甄氏の死後かつ文帝の生前である。『魏志』明帝紀には、甄氏が誅殺されたことが原因で、文帝は長らく曹叡を疎んじていたとある。その後であらためて曹叡が太子となったことを考えれば、「曹叡は曹丕の実子」という結論にしか達し得ない[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

血縁

兄弟

  • 東郷公主(同母妹だが早世した)

妃后

実子
  • 曹冏(清河王)
  • 曹穆(繁陽王)
  • 曹殷(安平哀王)
  • 曹淑(平原懿公主)

(いずれも早世)

養子

(従弟の曹楷の子という)

参考書籍

「正史 三国志 1 魏書I」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08041-4

「正史 三国志 2 魏書II」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08042-2

「正史 三国志 3 魏書III」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08043-0

「正史 三国志 4 魏書IV」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08044-9

「正史 三国志 8 呉書III」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08089-9

「三国志・人物鑑定事典(渡辺精一 著、学研)ISBN 4-05-400868-2

先代
文帝
皇帝
第2代:226年 - 239年
次代
斉王