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「石原和三郎」の版間の差分

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[[1877年]]([[明治]]10年)に13歳で助手教員となり、[[1891年]](明治24年)には群馬師範を卒業、郷里の花輪小校長に任命された。
[[1877年]]([[明治]]10年)に13歳で助手教員となり、[[1891年]](明治24年)には群馬師範を卒業、郷里の花輪小校長に任命された。


[[1894年]](明治27年)に「小学校歌集註解」を出版。同年[[11月]]東京高師(東京教育大、現[[筑波大学]])付属小訓導に転出。[[1900年]](明治33年)に東京高師付属小をやめ、冨山房に入社。[[坪内逍遥]]のもとで「小学国語読本」編纂にたずさわった。
[[1894年]](明治27年)に「小学校歌集註解」を出版。同年11月東京高師(東京教育大、現[[筑波大学]])付属小訓導に転出。[[1900年]](明治33年)に東京高師付属小をやめ、冨山房に入社。[[坪内逍遥]]のもとで「小学国語読本」編纂にたずさわった。


この年から石原作品を多くのせた「幼年唱歌」(全10冊)が順次出版され、「兎と亀」・「花咲爺」・「金太郎」が世に登場する。
この年から石原作品を多くのせた「幼年唱歌」(全10冊)が順次出版され、「兎と亀」・「花咲爺」・「金太郎」が世に登場する。
[[1905年]]には彼の長編ものの代表作といわれる「[[電車唱歌|東京地理教育電車唱歌]]」が発行される。また、冨山房発行の「少年世界文学」には童話「六勇士」を書くなど著書も多い。
[[1905年]](明治38年)には彼の長編ものの代表作といわれる「[[電車唱歌|東京地理教育電車唱歌]]」が発行される。また、冨山房発行の「少年世界文学」には童話「六勇士」を書くなど著書も多い。


[[1922年]]([[大正]]11年)1月4日没。57歳。
1922年([[大正]]11年)1月4日没。57歳。


郷里の東村には[[1989年]]、石原の業績を記念した[http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/museum03.htm 村立「童謡ふるさと館」]が開館した。また、[[1991年]]には、同郷の詩人・画家である[[星野富弘]]による絵柄で「うさぎとかめ」の[[切手]]が群馬県内限定で発売された。
郷里の東村には[[1989年]]([[平成]]元年)、石原の業績を記念した[http://www.city.midori.gunma.jp/sisetsu/museum03.htm 村立「童謡ふるさと館」]が開館した。また、[[1991年]](平成3年)には、同郷の詩人・画家である[[星野富弘]]による絵柄で「うさぎとかめ」の[[切手]]が群馬県内限定で発売された。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2007年5月15日 (火) 05:53時点における版

石原 和三郎(いしはら かずさぶろう、1865年10月12日 - 1922年1月4日)は作詞家

経歴

群馬県勢多郡東村花輪(現・みどり市東町花輪)に、伝六の長男として生まれる。

1877年明治10年)に13歳で助手教員となり、1891年(明治24年)には群馬師範を卒業、郷里の花輪小校長に任命された。

1894年(明治27年)に「小学校歌集註解」を出版。同年11月、東京高師(東京教育大、現・筑波大学)付属小訓導に転出。1900年(明治33年)に東京高師付属小をやめ、冨山房に入社。坪内逍遥のもとで「小学国語読本」編纂にたずさわった。

この年から石原作品を多くのせた「幼年唱歌」(全10冊)が順次出版され、「兎と亀」・「花咲爺」・「金太郎」が世に登場する。 1905年(明治38年)には彼の長編ものの代表作といわれる「東京地理教育電車唱歌」が発行される。また、冨山房発行の「少年世界文学」には童話「六勇士」を書くなど著書も多い。

1922年(大正11年)1月4日没。57歳。

郷里の東村には1989年平成元年)、石原の業績を記念した村立「童謡ふるさと館」が開館した。また、1991年(平成3年)には、同郷の詩人・画家である星野富弘による絵柄で「うさぎとかめ」の切手が群馬県内限定で発売された。

関連項目