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「オーストラリア・ニュージーランド軍団」の版間の差分

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'''オーストラリア&ニュージーランド軍団''' ('''Australian and New Zealand Army Corps''') は[[第一次世界大戦]]において、[[オーストラリア]]および[[ニュージーランド]]出身の[[義勇兵]]により組織された軍団。一般的には'''アンザック''' ('''ANZAC''') との略称で言及される。[[ガリポリの戦い]]、[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]において英軍の指揮下に入り戦った。
'''オーストラリア&ニュージーランド軍団''' ('''Australian and New Zealand Army Corps''') は[[第一次世界大戦]]において、[[オーストラリア]]および[[ニュージーランド]]出身の[[義勇兵]]により組織された軍団。一般的には'''アンザック''' ('''ANZAC''') との略称で言及される。[[ガリポリの戦い]]、[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]において英軍の指揮下に入り戦った。


オーストラリアにおいては、第一次世界大戦にとどまらず両国の合同軍が組織された軍についてアンザックと称することもある。現在ではガリポリへ最初の舞台が上陸を開始した4月25日を[[アンザック記念日]]としており、これらの戦争において死亡した兵士をたたえる様々な式典が行われている。
オーストラリアにおいては、第一次世界大戦にとどまらず両国の合同軍が組織された軍についてアンザックと称することもある。現在ではガリポリへ最初の部隊が上陸を開始した4月25日を[[アンザック記念日]]としており、これらの戦争において死亡した兵士をたたえる様々な式典が行われている。


== ANZACの設立 ==
== ANZACの設立 ==

2007年6月3日 (日) 19:05時点における版

オーストラリア&ニュージーランド軍団 (Australian and New Zealand Army Corps) は第一次世界大戦において、オーストラリアおよびニュージーランド出身の義勇兵により組織された軍団。一般的にはアンザック (ANZAC) との略称で言及される。ガリポリの戦い中東戦線西部戦線において英軍の指揮下に入り戦った。

オーストラリアにおいては、第一次世界大戦にとどまらず両国の合同軍が組織された軍についてアンザックと称することもある。現在ではガリポリへ最初の部隊が上陸を開始した4月25日をアンザック記念日としており、これらの戦争において死亡した兵士をたたえる様々な式典が行われている。

ANZACの設立

ANZACの上陸Parliament Houseにある絵
負傷したトルコ人兵に水を与えるANZACの兵士

ガリポリに投入された、オーストラリアとニュージーランドの陸軍は、最初はウィルヘルム・バードウッド将軍により指揮され、オーストラリア第1師団ニュージーランド・オーストラリア師団で構成されていた。3つのオーストラリアと1つのニュージーランドの騎乗兵兵旅団は、ガリポリの戦いでは、ANZACの歩兵として参加していた。オーストラリア第2師団は、1915年8月にオーストラリアから到着し、いくつかの大隊は、戦争の最後の数ヶ月、ガリポリで戦闘に参加した。

1915年11月ガリポリの撤退の後、オーストラリアとニュージーランドの部隊は、エジプトに再集結した。ニュージーランドの派遣部隊は、自分たちのみの師団である、ニュージーランド師団を編成することを望んでいた。しかし、オーストラリア王国軍は、2つの新しい師団を編成すると言う大きな再編成を行なった。この2つの師団は、第4師団第5師団である。(オーストラリア第3師団はオーストラリアで編成されたが、イギリスやフランスへは送られなかった。)

これらの師団は、第1ANZAC軍団第2ANZAC軍団の2つの軍団に再編成された。この時、頭文字を並べた略号としての「"ANZAC"」の使用が中止され、オーストラリアもしくはニュージーランドの部隊を含む編成を記述する際の単語として使用され始めた。バードウッド将軍配下の第1ANZAC軍団は1915年の初めにフランスに送られ、アレキサンダー・ゴッドレイ将軍配下の第2軍団はその後に続いた。

ANZAC騎乗兵師団(元々は、オーストラリア・ニュージーランド騎乗兵師団)は、この時編成され、3つのオーストラリア軽騎兵旅団とニュージーランド騎乗狙撃旅団から構成されていた。師団は、エジプト、シナイ半島(ロマニマグドハバ、マファ)、パレスチナ(ガザにおける第1次第2次ガザの戦い、ベエルシバの戦いエルサレムエリコ、エル・ソルト、メギドアンマン)、シリアを含む中東において、騎乗歩兵として戦った

西部戦線では、ANZACの部隊はいくつもの戦いに参加した。オーストラリアとニュージーランド師団は、ソンムの戦いではイギリスの軍団の一部として戦いに参加した。しかし、1916年7月23日ポジエールの戦いでは、ANZACの部隊のみで戦いに参加していた。この時の編成は、第1ANZAC軍団(オーストラリア第1、第2、第4師団)であった。

1918年のソンムにおける最初の戦闘が行われた、ヴィレス・ブルトヌー(Villers-Bretonneux)では、オーストラリアとニュージーランドの師団を含む陸軍の軍団であることを表すため、ANZACの名称の使用をやめていた。第1ANZAC軍団は、オーストラリア軍団(この時、第4師団と第5師団より構成)と呼ばれていた。オーストラリア軍団は、5つのオーストラリア師団を含み、西部戦線の連合国軍で最も強いと言われていた。

ベトナム戦争では、ニュージーランド王国歩兵連隊の2個中隊がオーストラリア王国連隊の第4大隊(4RAR)の一部として任務を行い、4RAR/NZ(ANZAC)大隊と呼ばれた。

海軍艦艇

ANZACは、MEKO200の設計を基にしたフリゲート艦の新しいクラスの名前に採用された。これは、オーストラリア海軍ニュージーランド海軍の両者に採用されているHMAS ANZAC(FFH150 アンザック)から始まるアンザック級フリゲートは、1996年から就役を開始している。

"ANZAC"の他の用途

ANZACの用語は、オーストラリアとニュージーランド間のラグビーリーグのテスト試合を表す場合にも使用される。これは、ANZAC Testを参照のこと。

ANZACのチームは、オーストラリアとニュージーランドの双方からのプレイヤーでの代表としてのラグビーリーグで戦う。前回の試合は、カンブリア州の代表チームとイギリスのワーキントンで行なわれた。

外部リンク