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「仁井田陞」の版間の差分

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'''仁井田 陞 ''' ('''にいだ のぼる'''、[[1904年]][[1月1日]] - [[1966年]][[6月22日]])は、[[宮城県]][[仙台市]]生まれの[[法制史]][[学者]]。[[中田薫 (学者)|中田薫]]門下。[[中国法制史]]の開拓者として知られる。
'''仁井田 陞 ''' ('''にいだ のぼる'''、[[1904年]][[1月1日]] - [[1966年]][[6月22日]])は、[[宮城県]][[仙台市]]生まれの[[法制史]][[学者]]。[[中田薫 (学者)|中田薫]]門下。[[中国法制史]]の開拓者として知られる。


== 人物 ==
旧制[[松本高等学校 (旧制)|松本高等学校]]を経て[[東京帝国大学]][[法学部]]卒業後、東方文化学院研究所研究員を経て、後身の東京大学東洋文化研究所教授。中国法制史を研究。唐令(唐代の法律)の逸文を和漢の典籍から収集・分析し、原法典の体系と条文の復元に初めて成功した。その研究をまとめた「唐令拾遺」([[1934年]][[帝国学士院恩賜賞]]受賞)は、続く「唐宋法律文書の研究」「支那身分法史」とともに、我が国の中国法制史研究の水準を世界的レベルに引き上げた名著。
旧制[[松本高等学校 (旧制)|松本高等学校]]を経て[[東京帝国大学]][[法学部]]卒業後、東方文化学院研究所研究員を経て、後身の東京大学東洋文化研究所教授。中国法制史を研究。唐令(唐代の法律)の逸文を和漢の典籍から収集・分析し、原法典の体系と条文の復元に初めて成功した。その研究をまとめた「唐令拾遺」([[1934年]][[帝国学士院恩賜賞]]受賞)は、続く「唐宋法律文書の研究」「支那身分法史」とともに、我が国の中国法制史研究の水準を世界的レベルに引き上げた名著。


[[第二次世界大戦]]中は[[華北]]農村、[[北京]]商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、[[法社会学]]的な観点も取り入れた「中国の社会とギルド」「中国の農村家族」を著した。本業の中国法制史の分野でも、「中国法制史」「中国法制史研究」などの大著を世に送り、学会をリードした。[[ロンドン]]訪問中に脳腫瘍を発病。日本に帰国するも、程なく没した。
[[第二次世界大戦]]中は[[華北]]農村、[[北京]]商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、[[法社会学]]的な観点も取り入れた「中国の社会とギルド」「中国の農村家族」を著した。本業の中国法制史の分野でも、「中国法制史」「中国法制史研究」などの大著を世に送り、学会をリードした。[[ロンドン]]訪問中に脳腫瘍を発病。日本に帰国するも、程なく没した。


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2007年6月6日 (水) 16:25時点における版

仁井田 陞 にいだ のぼる1904年1月1日 - 1966年6月22日)は、宮城県仙台市生まれの法制史学者中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。

人物

旧制松本高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業後、東方文化学院研究所研究員を経て、後身の東京大学東洋文化研究所教授。中国法制史を研究。唐令(唐代の法律)の逸文を和漢の典籍から収集・分析し、原法典の体系と条文の復元に初めて成功した。その研究をまとめた「唐令拾遺」(1934年帝国学士院恩賜賞受賞)は、続く「唐宋法律文書の研究」「支那身分法史」とともに、我が国の中国法制史研究の水準を世界的レベルに引き上げた名著。

第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた「中国の社会とギルド」「中国の農村家族」を著した。本業の中国法制史の分野でも、「中国法制史」「中国法制史研究」などの大著を世に送り、学会をリードした。ロンドン訪問中に脳腫瘍を発病。日本に帰国するも、程なく没した。