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「ノート:玉砕」の版間の差分

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>「捕虜になるよりも死ぬまで戦う」という事態は、ミクロ的には独ソ戦のミンスクの戦いなどでありましたし、守られはしませんでしたがヒトラーが部隊に対し「死守命令」を出したことは何度もありました。歴史上広く見渡せば「日本以外の国での「玉砕」」の節であがっているような例も見られます(今ぱっと出てこないのですが近代以前の日本でもいくつか例はあるでしょう)。このため、「玉砕が瓦全より高いとする価値判断」を「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」と断言(できない)
>「捕虜になるよりも死ぬまで戦う」という事態は、ミクロ的には独ソ戦のミンスクの戦いなどでありましたし、守られはしませんでしたがヒトラーが部隊に対し「死守命令」を出したことは何度もありました。歴史上広く見渡せば「日本以外の国での「玉砕」」の節であがっているような例も見られます(今ぱっと出てこないのですが近代以前の日本でもいくつか例はあるでしょう)。このため、「玉砕が瓦全より高いとする価値判断」を「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」と断言(できない)


この段についてはその通りでしょう。ですから、「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」とする記述について変更することは良いと思われます。但し、先の大戦において軍部上層部の官僚的責任回避姿勢などから現地将兵が玉砕という手段を最終的に採らざるを得ず、無駄に命を落とさざるを得なかった事例も多くあり、(インパール作戦における佐藤幸徳中将などは例外中の例外ですね)何らかの形で昭和の官僚軍人の欠点をエッセンスとして残せないかとは思います。例えば、「先の大戦では官僚化した軍部上層部が責任を現地将兵に押し付ける形で玉砕を最終的に選択せざるを得ない状況に陥らせた例も多い」などです。
この段についてはその通りでしょう。ですから、「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」とする記述について変更することは良いと思われます。但し、先の大戦において軍部上層部の官僚的責任回避姿勢などから現地将兵が玉砕という手段を最終的に採らざるを得ず、無駄に命を落とさざるを得なかった事例も多くあり、(インパール作戦における佐藤幸徳中将などは例外中の例外ですね)何らかの形で昭和の官僚軍人の欠点をエッセンスとして残せないかとは思います。例えば、「先の大戦では官僚化した軍部上層部が責任を現地将兵に押し付ける形で玉砕を最終的に選択せざるを得ない状況に陥らせた例も多い」などです。但し、おっしゃるとおり独自研究とされる可能性もあるかも知れません。(個人的には既に公知の事実とされており資料的にも十分証明可能と考えてはいますが)





2007年7月7日 (土) 09:50時点における版

 玉砕は「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」で行われたものか

「捕虜になるよりも死ぬまで戦う」という事態は、ミクロ的には独ソ戦のミンスクの戦いなどでありましたし、守られはしませんでしたがヒトラーが部隊に対し「死守命令」を出したことは何度もありました。歴史上広く見渡せば「日本以外の国での「玉砕」」の節であがっているような例も見られます(今ぱっと出てこないのですが近代以前の日本でもいくつか例はあるでしょう)。このため、「玉砕が瓦全より高いとする価値判断」を「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」と断言してしまいますと、POVないしはJPOVとなってしまうと考えたこと、また、ちょっとそこからはずれるのですが、降伏の本義というのは敵に負担をかけることではないと考えたため[1]のように大幅に削除した次第です。

また、太平洋戦争の日本軍の場合でも、ガダルカナル島やキスカ島、コロンバンガラ島では劣勢となった守備部隊を撤退させていますので、単にファナティックなイデオロギーから玉砕を命じたと言いきるのも片面的かなと思います。もちろん合理性のない攻撃精神は大いに批判されるべきではあると思いますが。ただ、玉砕の悲惨さというのは、連合国軍の戦略に対応しきれず制海権・制空権を喪失して特に島嶼部への増援も撤退も不可能にしてしまい、ある戦域で敗北した場合の次の防衛線にを策定しきれず守備隊にどの程度の時間を稼げばいいのか示せない(=降伏のタイミングが一切示されない)という、日本軍上層部の無策と迷走が、現場の将兵に「とにかく戦って死ね」というかたちで押しつけられ、しかもそれが多発した点にあるのではないかと思います。が、こう書くと独自の研究なので本項目には書けないですね・・・。

後段はともかく、上段については合意形成の必要があると思いますので219.161.168.134氏他の皆さん(ないしは可変IPで編集されている方)の意見をお聞きしたいです。--Akitsumaru 2007年7月5日 (木) 13:50 (UTC)(一度追加編集しました)[返信]


>「捕虜になるよりも死ぬまで戦う」という事態は、ミクロ的には独ソ戦のミンスクの戦いなどでありましたし、守られはしませんでしたがヒトラーが部隊に対し「死守命令」を出したことは何度もありました。歴史上広く見渡せば「日本以外の国での「玉砕」」の節であがっているような例も見られます(今ぱっと出てこないのですが近代以前の日本でもいくつか例はあるでしょう)。このため、「玉砕が瓦全より高いとする価値判断」を「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」と断言(できない)

この段についてはその通りでしょう。ですから、「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」とする記述について変更することは良いと思われます。但し、先の大戦において軍部上層部の官僚的責任回避姿勢などから現地将兵が玉砕という手段を最終的に採らざるを得ず、無駄に命を落とさざるを得なかった事例も多くあり、(インパール作戦における佐藤幸徳中将などは例外中の例外ですね)何らかの形で昭和の官僚軍人の欠点をエッセンスとして残せないかとは思います。例えば、「先の大戦では官僚化した軍部上層部が責任を現地将兵に押し付ける形で玉砕を最終的に選択せざるを得ない状況に陥らせた例も多い」などです。但し、おっしゃるとおり独自研究とされる可能性もあるかも知れません。(個人的には既に公知の事実とされており資料的にも十分証明可能と考えてはいますが)


>降伏の本義というのは敵に負担をかけることではないと考えたため

これについては確かに降伏ないし投降の意義は第一義的には敵に負担をかけることではないでしょう。しかし、玉砕という行為が行われる状況とは玉砕か投降かという二者択一の状況であり、降伏というオプションを選んでいた場合の軍事的な「効果」を、玉砕と比較対照することは軍事が詩的、文学的コンテキストとは無縁の戦闘主体間の総力の衝突である以上、意義のあることだと考えます。でありますから、降伏ないし投降と比較対照するため記述を残すべきと考えます