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「お市の方」の版間の差分

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小谷寺には、お市の方の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、袋の両端を縛った「小豆袋」で信長に危機(挟み撃ち)を伝えたエピソードなどが知られる。また、非常に背が高かったともいわれており、そのためか、着物の「おはしょり」を作らない独特の着付け方をした肖像画が伝えられている(但し、この時代の着物は女性でも「対丈」に作られるため「おはしょり」がないのが普通ではある)。
小谷寺には、お市の方の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、袋の両端を縛った「小豆袋」で信長に危機(挟み撃ち)を伝えたエピソードなどが知られる。また、非常に背が高かったともいわれており、そのためか、着物の「おはしょり」を作らない独特の着付け方をした肖像画が伝えられている(但し、この時代の着物は女性でも「対丈」に作られるため「おはしょり」がないのが普通ではある)。


信長は「市が男だったなら、良き武将となったであろう」とまで述べたと言われている。なお、市は秀吉を毛嫌いしており、勝家が自害するときに城から脱出するように勧めたが、市は受け入れずに勝家と運命を共にしたと言われている。死を賭してまで秀吉を避けた理由としては、秀吉が猿顔で長政に比べるべくもない醜男であったこと、または秀吉が信長、長政や勝家と異なり成り上がり者であったこと、が考えられている。ただし秀吉は彼女に熱烈な好意を抱いていたとされ、小谷落城の際も賤ヶ岳落城の際にも母子の生命を何とか救おうとしていた。また後年茶々([[淀殿]])を側室に迎えたのも、三姉妹の中で彼女が一番市に似ていたから、と言われている。
信長は「市が男だったなら、良き武将となったであろう」とまで述べたと言われている。なお、市は秀吉を毛嫌いしており、勝家が自害するときに城から脱出するように勧めたが、市は受け入れずに勝家と運命を共にしたと言われている。死を賭してまで秀吉を避けた理由としては、秀吉が猿顔で長政に比べるべくもない醜男であったこと、または秀吉が信長、長政や勝家と異なり成り上がり者であったこと、さらに、夫長政の死後、戦国の習いとはいえ、市の生んだ長男[[浅井万福丸]]が秀吉によって串刺しにされ磔にされたことなどが考えられている。ただし秀吉は彼女に熱烈な好意を抱いていたとされ、小谷落城の際も賤ヶ岳落城の際にも母子の生命を何とか救おうとしていた。また後年茶々([[淀殿]])を側室に迎えたのも、三姉妹の中で彼女が一番市に似ていたから、と言われている。


辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな」。
辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな」。

2007年7月29日 (日) 10:58時点における版

お市の方

お市の方おいちのかた天文16年(1547年)? - 天正11年4月24日1583年6月14日))は戦国時代の女性。近江国浅井長政、のちに織田氏家臣の柴田勝家の妻。父は尾張国の武将織田信秀、母は側室、又は正室の土田御前織田信長の妹、ほか兄弟多数。子に淀殿豊臣秀吉側室)・常高院京極高次正室)・お江与/崇源院徳川秀忠正室)がいる。小谷の方とも称される。

生涯

1567年に兄・信長により近江(現在の滋賀県)の浅井長政と政略結婚し、織田家と浅井家は同盟を結ぶ。1570年、信長が浅井氏と関係の深い越前福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、夫長政とお市の方の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったという。

長政、長政の父・久政、義景は姉川の戦いで敗北し、1573年に小谷城が陥落し夫・長政が自害した。3人の娘(茶々)ともに織田家に引き取られるが、長男の万福丸は捕われ殺害、次男の万寿丸は出家させられる。その後は清洲城にて兄信長、信包の庇護を受け、三姉妹とともに九年余りを平穏に過ごしたという。このときの兄信長のお市親子に対する待遇はたいへん厚く、お市の方や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。また、姪たちには優しかった。信包は、「浅井家の血が絶えるのはしのびない。」と言い、お市の方や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。

信長没後の1582年織田信孝の仲介で柴田勝家と再婚する。しかし翌1583年、夫勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に越前北ノ庄城内で自害した。享年37。

墓所:福井県福井市の西光寺。菩提寺:滋賀県高島市幡岳寺。戒名:東禅院殿直伝貞正大姉。(自性院照月宗貞とも伝わる。)

小谷城跡:滋賀県長浜市(旧浅井町)と湖北町にまたがる小谷山山頂に旧跡あり。

人物

小谷寺には、お市の方の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、袋の両端を縛った「小豆袋」で信長に危機(挟み撃ち)を伝えたエピソードなどが知られる。また、非常に背が高かったともいわれており、そのためか、着物の「おはしょり」を作らない独特の着付け方をした肖像画が伝えられている(但し、この時代の着物は女性でも「対丈」に作られるため「おはしょり」がないのが普通ではある)。

信長は「市が男だったなら、良き武将となったであろう」とまで述べたと言われている。なお、市は秀吉を毛嫌いしており、勝家が自害するときに城から脱出するように勧めたが、市は受け入れずに勝家と運命を共にしたと言われている。死を賭してまで秀吉を避けた理由としては、秀吉が猿顔で長政に比べるべくもない醜男であったこと、または秀吉が信長、長政や勝家と異なり成り上がり者であったこと、さらに、夫長政の死後、戦国の習いとはいえ、市の生んだ長男浅井万福丸が秀吉によって串刺しにされ磔にされたことなどが考えられている。ただし秀吉は彼女に熱烈な好意を抱いていたとされ、小谷落城の際も賤ヶ岳落城の際にも母子の生命を何とか救おうとしていた。また後年茶々(淀殿)を側室に迎えたのも、三姉妹の中で彼女が一番市に似ていたから、と言われている。

辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな」。

織田家は美男美女の家系で知られるが中でもお市の方やその妹、お犬の方の美しさは有名である。兄弟では兄信長も美丈夫であったと伝わるが、信長やお市の方の同腹の兄妹であるとされる織田秀孝の美丈夫さは「信長公記」よりたいへんな美男子であったという。

三人の娘たちの行く末を心配していたお市の方は、庇護を受ける羽柴秀吉に書状を送るなど母としての娘たちに対する深い愛情が伺える。

また、兄信長や信包のお市の方に対する待遇が姉妹の中ではたいへん厚かったことから、最近では信長、信包の同腹の妹であるとされ母は土田御前であるという見方もある。このためお市の方の同腹の兄弟とされるのは信長、信行、信包、秀孝であるとされる。

なお、一部の史料には信長の従妹と表記してあるものも存在する。

因みに、信長は大名間の政略婚にはほとんど養女を用いていた(育てた訳ではなく、形式上養女にして送り出す形)。実の妹や娘で他国に嫁いだのは、この市を除けば松平信康に嫁いだ五徳のみであり、それ以外は全て家臣か公家かとの縁組だった。

長女淀殿は父長政の七回忌、母お市の方の十七回忌に菩提を弔うために、肖像画を描かせた。お市の方の肖像画は「戦国一の美人画」として名高い。

現在

滋賀県長浜市(旧浅井町)において、お市の方が町のマスコットキャラクターとして親しまれている。かわいい、イラストとなっている。

関連項目