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「ヴャチェスラフ・モロトフ」の版間の差分

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[[1921年]]共産党中央委員会書記。[[1926年]]政治局員となる。[[1927年]]以降[[コミンテルン]]執行委員会幹部会メンバーに選出され、[[1929年]]に[[ニコライ・ブハーリン]]の失脚後は事実上、モロトフが指導者となった。<br>
[[1921年]]共産党中央委員会書記。[[1926年]]政治局員となる。[[1927年]]以降[[コミンテルン]]執行委員会幹部会メンバーに選出され、[[1929年]]に[[ニコライ・ブハーリン]]の失脚後は事実上、モロトフが指導者となった。<br>
[[1930年]]人民委員会議議長(首相)に就任。[[ヒトラー]]の歓心を買おうと企図したスターリンによって[[ユダヤ人]]であった[[マクシム・リトヴィノフ]]外務人民委員(外相)の後任として[[1939年]]5月外務人民委員を兼務し、[[独ソ不可侵条約]]を締結させて世界中を驚愕させた。<br>
[[1930年]]人民委員会議議長(首相)に就任。[[ヒトラー]]の歓心を買おうと企図したスターリンによって[[ユダヤ人]]であった[[マクシム・リトヴィノフ]]外務人民委員(外相)の後任として[[1939年]]5月外務人民委員を兼務し、[[独ソ不可侵条約]]を締結させて世界中を驚愕させた。<br>
[[1940年]]秋に[[ベルリン]]を訪問。ヒトラー、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相らと会談した際、たまたま[[イギリス]][[空軍]]による爆撃があったため防空壕に避難し会談を続けたが、ドイツ側がイギリスの敗北は必至と虚勢を張ったところ、モロトフは「いま上空を飛んでいるのはどこの飛行機か」と皮肉たっぷりに押収したため、ヒトラーを怒らせたエピソードは有名である。<br>
[[1940年]]秋に[[ベルリン]]を訪問。ヒトラー、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相らと会談した際、たまたま[[イギリス]][[空軍]]による爆撃があったため防空壕に避難し会談を続けたが、ドイツ側がイギリスの敗北は必至と虚勢を張ったところ、モロトフは「いま上空を飛んでいるのはどこの飛行機か」と皮肉たっぷりに応酬したため、ヒトラーを怒らせたエピソードは有名である。<br>
1941年スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。[[松岡洋右]]・[[日本]]外相と[[日ソ中立条約]]に調印する。[[6月22日]][[独ソ戦]]が勃発するとソ連国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。戦時中から戦後にかけて[[アメリカ]]・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、戦後の共産圏の基礎を作った。こうしてスターリンの有能な配下として、その政治を冷酷なまでに忠実に実行していったが、晩年の老耄し猜疑心に蝕まれたスターリンには冷遇され、危うく[[粛清]]の対象となりかけた。<br>
1941年スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。[[松岡洋右]]・[[日本]]外相と[[日ソ中立条約]]に調印する。[[6月22日]][[独ソ戦]]が勃発するとソ連国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。戦時中から戦後にかけて[[アメリカ]]・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、戦後の共産圏の基礎を作った。こうしてスターリンの有能な配下として、その政治を冷酷なまでに忠実に実行していったが、晩年の老耄し猜疑心に蝕まれたスターリンには冷遇され、危うく[[粛清]]の対象となりかけた。<br>
スターリンの死後、外相兼第一副首相として、集団指導体制の一翼を担ったが、非スターリン化を推進した[[ニキータ・フルシチョフ]]と対立。[[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[ラザール・カカノヴィッチ]]らとフルシチョフを追い落とそうとするが、逆にフルシチョフの逆襲に会い、[[1957年]]「反党グループ」の首謀者の烙印を受けて、[[モンゴル]]大使に左遷された。後に共産党の党籍を剥奪される。<br>
スターリンの死後、外相兼第一副首相として、集団指導体制の一翼を担ったが、非スターリン化を推進した[[ニキータ・フルシチョフ]]と対立。[[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[ラザール・カカノヴィッチ]]らとフルシチョフを追い落とそうとするが、逆にフルシチョフの逆襲に会い、[[1957年]]「反党グループ」の首謀者の烙印を受けて、[[モンゴル]]大使に左遷された。後に共産党の党籍を剥奪される。<br>

2005年2月11日 (金) 10:43時点における版

ヴャチェスラフ・ミハイロヴィッチ・モロトフВячесла́в Миха́йлович Мо́лотов,Vyacheslav Mikhaylovich Molotov1890年3月9日 - 1986年11月8日)は、ソビエト連邦政治家革命家。ソビエト連邦首相、外相。第二次世界大戦前後の時代を通じて、スターリンの片腕としてソ連外交を主導した。

1890年3月9日ロシア帝国のノリンスクで生まれる。本名はヴャチェスラフ・ミハイロヴィッチ・スクリャービン(Vyacheslav Mikhaylovich Skryabin)。1906年ロシア社会民主労働党に入党。1909年カザン工業学校在学中、革命運動に参加したかどでシベリア流刑となる。1911年刑期を終えてペテルブルク工業大学に入学した後、再びイルクーツク県に流刑された。1915年脱走し、ペトログラードに潜伏、地下活動に入る。1917年二月革命十月革命に参加した。十月革命ではペトログラード軍事委員会委員、次いで北ロシア、ヴォルガ、ドネツ各地方で革命運動を指導した。
1921年共産党中央委員会書記。1926年政治局員となる。1927年以降コミンテルン執行委員会幹部会メンバーに選出され、1929年ニコライ・ブハーリンの失脚後は事実上、モロトフが指導者となった。
1930年人民委員会議議長(首相)に就任。ヒトラーの歓心を買おうと企図したスターリンによってユダヤ人であったマクシム・リトヴィノフ外務人民委員(外相)の後任として1939年5月外務人民委員を兼務し、独ソ不可侵条約を締結させて世界中を驚愕させた。
1940年秋にベルリンを訪問。ヒトラー、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相らと会談した際、たまたまイギリス空軍による爆撃があったため防空壕に避難し会談を続けたが、ドイツ側がイギリスの敗北は必至と虚勢を張ったところ、モロトフは「いま上空を飛んでいるのはどこの飛行機か」と皮肉たっぷりに応酬したため、ヒトラーを怒らせたエピソードは有名である。
1941年スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。松岡洋右日本外相と日ソ中立条約に調印する。6月22日独ソ戦が勃発するとソ連国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、戦後の共産圏の基礎を作った。こうしてスターリンの有能な配下として、その政治を冷酷なまでに忠実に実行していったが、晩年の老耄し猜疑心に蝕まれたスターリンには冷遇され、危うく粛清の対象となりかけた。
スターリンの死後、外相兼第一副首相として、集団指導体制の一翼を担ったが、非スターリン化を推進したニキータ・フルシチョフと対立。ゲオルギー・マレンコフラザール・カカノヴィッチらとフルシチョフを追い落とそうとするが、逆にフルシチョフの逆襲に会い、1957年「反党グループ」の首謀者の烙印を受けて、モンゴル大使に左遷された。後に共産党の党籍を剥奪される。
国際原子力機関ソ連代表を最後に公的生活から引退。1962年年金生活に入る。1984年復党。

1986年11月8日モスクワで死去。96歳。

ロシア革命、スターリン体制の最後の生き証人であったが、ほとんど胸中を明かさずに、世を去った。

日本との関係では、東郷茂徳を、国益を熱心に主張した外交官として評価していた。 [[pl:Wiaczes%B3aw Mo%B3otow]]