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「ペニー・ハーダウェイ」の版間の差分

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*移籍先のフェニックスでは[[ジェイソン・キッド]]が先発のポイントガードだったため、ハーダウェイは[[シューティングガード]]としてプレイ。平均得点16.9、リバウンドとアシストは5以上という立派な成績だったが、翌シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合出場に留まった。
*移籍先のフェニックスでは[[ジェイソン・キッド]]が先発のポイントガードだったため、ハーダウェイは[[シューティングガード]]としてプレイ。平均得点16.9、リバウンドとアシストは5以上という立派な成績だったが、翌シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合出場に留まった。
*翌2001-02シーズンは80試合に出場したものの先発は55試合に留まり、個人成績にも低下が見られた。翌シーズンの出場試合は60に満たず、次の2003-04シーズン途中に[[ニューヨーク・ニックス]]へトレードされた。フェニックスとニューヨークのどちらのチームでもハーダウェイが先発する試合は少なく、翌2004-05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。2005-06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、その後はどのチームにも所属していない。
*翌2001-02シーズンは80試合に出場したものの先発は55試合に留まり、個人成績にも低下が見られた。翌シーズンの出場試合は60に満たず、次の2003-04シーズン途中に[[ニューヨーク・ニックス]]へトレードされた。フェニックスとニューヨークのどちらのチームでもハーダウェイが先発する試合は少なく、翌2004-05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。2005-06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、その後はどのチームにも所属していない。
*2007年8月10日、マイアミ・ヒートと契約したことを発表した。


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2007年8月10日 (金) 11:39時点における版

オリンピック
男子 バスケットボール
1996 バスケットボール

アンファニー・ハーダウェイAnfernee Deon Hardaway, 1971年7月18日 - )はアメリカ合衆国バスケットボール選手で、NBAオーランド・マジックフェニックス・サンズニューヨーク・ニックスでプレーした。未来を嘱望された期待の新人として入団し、身長2メートルの大型ポイントガードとして活躍。1996年にはドリームチームのメンバーとしてアトランタオリンピックで金メダルを獲得するなどリーグを代表するスター選手の一人だったが、2000年以降は負傷によりプレイを制限され、以前のような活躍ができない状態が続いている。テネシー州メンフィス生まれ。愛称は「ペニー (Penny)」。

生い立ちと学生時代

幼少時に父が家族のもとを去り、母は歌手になるため実家を離れたため、ハーダウェイは祖母に育てられた。祖母はハーダウェイを「可愛い」という意味の "puitty" ("pretty" の訛り)で呼んだ。この呼び名が「ペニー」と聞こえたため、のちにあだ名として残ることになった。

高校時代のハーダウェイはジョージア州を代表するバスケットボール選手で、大学は地元のメンフィス州大学(現在のメンフィス大学)を選んだ。大学1年の時には学業の不振により大学のチームでプレイできなかった。また同じ1年生の時にハーダウェイは強盗に銃で足を撃たれたことがあった。

2年生になると成績が向上しチームへの参加が許された。ハーダウェイはチームを代表する選手として活躍し、シーズン後にはオリンピックに出場する初代ドリームチームの練習相手として組まれた学生選抜に選ばれた。ハーダウェイ同様長身のポイントガードだったマジック・ジョンソンは、「鏡を見ているようだ」とハーダウェイを評した。3年生の時には平均22得点、8リバウンド、6アシストを越える成績を残し、プロ入りを決意した。

NBAでのキャリア

  • ハーダウェイがプロ入りする1993年には、オーランド・マジックがドラフト1位指名権を持っていた。マジックはクリス・ウェバーを指名し、ゴールデンステート・ウォリアーズが3位でハーダウェイを指名、両者はドラフト当日中にトレードされ、ハーダウェイはマジックに入団した。以後ハーダウェイは、前シーズンにマジックに1位指名されていたシャキール・オニールとともにチームの中核になり、チーム躍進に貢献した。
  • 1994 pippen all star classicでマイケル・ジョーダンと組み、52得点を記録し、ジョーダンを再びNBAに呼び戻すきっかけとなった。
  • 新人のシーズンにはオールルーキーファーストチーム(新人のうち優れた5人の選手)に選ばれ、翌シーズンにはオールNBAファーストチーム(リーグ中の優秀な5人の選手)の一人に選出された。2年目のシーズンから4年間連続でオールスター戦の先発選手にも選ばれ、ハーダウェイはリーグを代表する選手の一人になっていた。2シーズンめにチームはNBAファイナルに勝ち進んだ。若手が中心で創設6年目のチームとしては快挙だったが、マジックはヒューストン・ロケッツに敗れた。
  • 翌1995-96シーズンにもハーダウェイはオールNBAファーストチームに選出され、チームもリーグ屈指の60勝22敗という成績だったが、プレイオフではシカゴ・ブルズに敗退。このシーズンを最後にオニールがロサンゼルス・レイカーズに移籍したため、ハーダウェイがリーダーとしてチームを率いることになった。
  • 翌1996-97シーズンの開幕戦で、ハーダウェイらオーランド・マジックは日本を訪れた。オニールを欠き、またハーダウェイ自身も膝の怪我のため23試合欠場したためこのシーズンのマジックは苦戦。翌シーズンも同じく膝の怪我で出場した試合は19試合に留まった。
  • 以降ハーダウェイの個人成績は怪我をする前の水準に戻ることはなく、チーム成績も上向かなかった。ハーダウェイはオーランド・マジックの観客にブーイングされることもあった。1998-99シーズンは33勝17敗と勝ち越したもののプレイオフでは1回戦で敗退し、ハーダウェイはトレードを志願しフェニックス・サンズに移籍した。
  • 移籍先のフェニックスではジェイソン・キッドが先発のポイントガードだったため、ハーダウェイはシューティングガードとしてプレイ。平均得点16.9、リバウンドとアシストは5以上という立派な成績だったが、翌シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合出場に留まった。
  • 翌2001-02シーズンは80試合に出場したものの先発は55試合に留まり、個人成績にも低下が見られた。翌シーズンの出場試合は60に満たず、次の2003-04シーズン途中にニューヨーク・ニックスへトレードされた。フェニックスとニューヨークのどちらのチームでもハーダウェイが先発する試合は少なく、翌2004-05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。2005-06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、その後はどのチームにも所属していない。
  • 2007年8月10日、マイアミ・ヒートと契約したことを発表した。

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