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「瑞鶴 (空母)」の版間の差分

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慰霊碑は現在奈良県橿原神宮内にある。
慰霊碑は現在奈良県橿原神宮内にある。


なお、戦争中期以降は、各種[[レーダー|電探]]を装備するとともに、25mm機銃(3連装機銃、単装機銃)が逐次増備されていった他、最終状態であるレイテ沖海戦時には、瑞鶴を空母以外の艦船にみせかけるための迷彩塗装が施されたり、[[ロケット砲|対空噴進砲]](現代で言うところの対空ロケットランチャーのようなもの)6基が装備されていた。
なお、戦争中期以降は、各種[[レーダー|電探]]を装備するとともに、25mm機銃(3連装機銃、単装機銃)が逐次増備されていった他、最終状態であるレイテ沖海戦時には、瑞鶴を空母以外の艦船にみせかけるための迷彩塗装が施されたり、[[十二糎二八連装噴進砲|対空噴進砲]](現代で言うところの対空ロケットランチャーのようなもの)8基が装備されていた。


==歴代艦長==
==歴代艦長==

2007年8月12日 (日) 07:39時点における版

瑞鶴(1941年9月25日)
艦歴
計画 1937年 (マル3計画)
起工 1938年5月25日
進水 1939年11月27日
竣工 1941年9月25日
その後 1944年10月25日戦没
除籍 1945年8月26日
性能諸元
排水量 基準:25,675トン
公試:29,800t 満載:32,105t
全長 257.5m
水線幅 26.0m
平均吃水 8.87m (公試状態)
飛行甲板 長さ:242.2m x 幅:29.0m
主缶 ロ号艦本式専焼缶8基
主機 艦本式タービン4基4軸 160,000hp
速力 34.2kt (34.0ktの資料もある)
航続距離 18ノットで9,700海里
乗員 竣工時:1,660名 最終時:1,712名
兵装
(新造時)
40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃12基
兵装
(最終時)
40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃20基
25mm単装機銃36挺(推定)
12cm28連装噴進砲8基
搭載機
(常用+補用)
零戦18+2機 九九艦爆27+5機
九七艦攻27+5機 合計72+12機
搭載機
(最終時)
零戦28機 零戦爆戦型16機
彗星11機 天山14機

瑞鶴ずいかく)は日本海軍航空母艦翔鶴型航空母艦の2番艦。太平洋戦争中、真珠湾攻撃珊瑚海海戦第二次ソロモン海戦南太平洋海戦などで活躍したが1944年10月25日エンガノ岬沖海戦で沈没した。瑞鶴はマリアナ沖海戦まで一発も被弾しなかった幸運艦であった。

艦名の「瑞」はめでたいという意味。「鶴」はめでたい鳥という意味がある。

艦歴

瑞鶴は1938年5月25日川崎重工業神戸造船所にて起工され、1939年11月27日進水し、1941年9月25日に就役した。姉妹艦の翔鶴とともに第5航空戦隊を編成した。

瑞鶴は南雲忠一中将指揮下の機動部隊に属し、真珠湾攻撃のため1941年11月16日に択捉島単冠湾を出撃した。12月8日、他の5隻の空母と共に真珠湾に対し2波にわたる攻撃を行った。瑞鶴からは58機が出撃し未帰還機ゼロという幸運なスタートを切った。このとき岩本徹三など名だたる優秀パイロットが乗艦している。

1942年1月20日、ラバウルを攻撃、続く21日にはニューギニア島ラエを攻撃した。4月、セイロン沖海戦に参加。

5月、翔鶴、祥鳳ポートモレスビー攻略作戦の支援に当たり、8日米第17任務部隊(空母ヨークタウンレキシントン基幹)と交戦した(珊瑚海海戦)。瑞鶴は米軍機の攻撃時スコールに身を隠したため損害は受けなかったが、米軍以上の多くの艦載機と搭乗員を失いその再編のため日本本土へ戻った。そのためミッドウェー海戦には参加できなかった。ミッドウェー海戦で赤城など正規空母4隻を失ってからは、翔鶴とともに航空艦隊の主力空母となった。

8月、アメリカ軍のガダルカナル島上陸に対して翔鶴、龍驤とソロモン諸島方面へ進出。24日米第61任務部隊(空母エンタープライズサラトガワスプ基幹)と交戦した(第二次ソロモン海戦)。10月26日には再度米機動部隊(空母エンタープライズ、ホーネット基幹)と交戦(南太平洋海戦)。他の空母と共同でホーネットを撃沈した。1943年2月、ガダルカナル島からの撤退を支援した。

1943年後半は瑞鶴はトラックに碇泊。9月17日に瑞鶴は翔鶴他の艦艇と共に訓練のためトラックを出港した。翌18日、米機動部隊がギルバート諸島タラワマキンを空襲したため瑞鶴以下の日本艦隊はこの米艦隊攻撃に向かったが会敵できず23日にトラックに帰投した。10月5日、6日今度はウェーク島を米機動部隊が空襲。17日日本艦隊はトラックを出撃したがこの時も会敵できずに終わった。

また、4月のい号作戦、11月のろ号作戦で艦載機をラバウルへ進出させた。

沈没しつつある瑞鶴(1944年10月25日)

1944年5月、あ号作戦発動によりマリアナ沖に進出。19日、20日マリアナ沖海戦に参加。米機動部隊を攻撃するも搭載していた艦上機を多数失い、20日空襲により艦橋を小破した。なお、この海戦で同型艦翔鶴が沈没している。

10月、小沢治三郎中将が指揮する囮部隊の旗艦としてフィリピン北東へ進出。25日、米第38任務部隊からの空襲により沈没した(エンガノ岬沖海戦)。沈没の直接の原因は魚雷攻撃であり、特に初期に受けた1本の魚雷で4つの機械室のうち2つに浸水をきたして速力低下を来たしたことは不幸であった。その後5-6本の魚雷を受けて左に傾斜して沈没した。

慰霊碑は現在奈良県橿原神宮内にある。

なお、戦争中期以降は、各種電探を装備するとともに、25mm機銃(3連装機銃、単装機銃)が逐次増備されていった他、最終状態であるレイテ沖海戦時には、瑞鶴を空母以外の艦船にみせかけるための迷彩塗装が施されたり、対空噴進砲(現代で言うところの対空ロケットランチャーのようなもの)8基が装備されていた。

歴代艦長

同型艦

瑞鶴が登場する映画

  • 雷撃隊出動」(1944年東宝作品。レイテ沖海戦の約1ヶ月前に、瀬戸内海西部で訓練中の実物の瑞鶴艦上などで撮影が行なわれた)
  • 連合艦隊」(1981年東宝作品。艦橋や飛行甲板、対空機銃などが、神奈川県茅ヶ崎市の柳島海岸に実物大セットで再現された他、自走操船航行可能なミニチュア模型が特撮シーンの撮影に使用された)
  • 日本ニュース第232号「比島沖海戦」(1944年日本映画社。やや不鮮明ながら、迷彩を施した最終時の姿が確認できるほか、対空戦闘シーンや発艦シーンもある。なお、発艦シーンは右舷側から撮影されているが、この海戦を撮影し帰還した山根重視(大淀に乗艦)、竹内広一(瑞鳳に乗艦。沈没後救助)両カメラマンの乗艦した艦船は、いずれも瑞鶴の左舷側に位置していたことから、右舷側から撮影した映像はおそらく演習時に撮影されたものではないかと考えられる。上記の「雷撃隊出動」とほぼ同時期に撮影された可能性が高い)

関連項目