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「ゲオルギー・ジューコフ」の版間の差分

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'''ゲオルギー・コンスタンティノビチ・ジューコフ'''([[ロシア語|露語]]:<font lang=ru>Гео́ргий Константи́нович Жу́ков<font>、[[1896年]][[12月1日]] - [[1974年]][[6月18日]])は、[[ソビエト連邦]]の軍人、政治家。[[第二次世界大戦]]期を通じてソ連で最も活躍した軍人の一人で、[[元帥]]まで昇進した。
'''ゲオルギー・コンスタンティノビチ・ジューコフ'''([[ロシア語|露語]]:<font lang=ru>Гео́ргий Константи́нович Жу́ков</font>、[[1896年]][[12月1日]] - [[1974年]][[6月18日]])は、[[ソビエト連邦]]の軍人、政治家。[[第二次世界大戦]]期を通じてソ連で最も活躍した軍人の一人で、[[元帥]]まで昇進した。


==生い立ち ~ ノモンハン事件==
==生い立ち - ノモンハン事件==
[[モスクワ]]に程近いカルーガ県(当時のモスクワ州内)のストレルコフカで農民の家に生まれた。少年の頃より職人の徒弟としてモスクワに年季奉公に出たが、19歳になる[[1915年]]、当時[[第一次世界大戦]]を戦っていた[[ロシア帝国]]に徴兵され、一兵卒として竜騎兵連隊に配属された。ジューコフは大戦中の勇敢な戦いにより、聖ゲオルギー十字勲章を2回授与され、上等兵(下士官)に昇進した。
[[モスクワ]]に程近いカルーガ県(当時のモスクワ州内)のストレルコフカで農民の家に生まれた。少年の頃より職人の徒弟としてモスクワに年季奉公に出たが、19歳になる[[1915年]]、当時[[第一次世界大戦]]を戦っていた[[ロシア帝国]]に徴兵され、一兵卒として竜騎兵連隊に配属された。ジューコフは大戦中の勇敢な戦いにより、聖ゲオルギー十字勲章を2回授与され、上等兵(下士官)に昇進した。



2005年2月11日 (金) 09:10時点における版

ゲオルギー・ジューコフ

ゲオルギー・コンスタンティノビチ・ジューコフ露語Гео́ргий Константи́нович Жу́ков1896年12月1日 - 1974年6月18日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家。第二次世界大戦期を通じてソ連で最も活躍した軍人の一人で、元帥まで昇進した。

生い立ち - ノモンハン事件

モスクワに程近いカルーガ県(当時のモスクワ州内)のストレルコフカで農民の家に生まれた。少年の頃より職人の徒弟としてモスクワに年季奉公に出たが、19歳になる1915年、当時第一次世界大戦を戦っていたロシア帝国に徴兵され、一兵卒として竜騎兵連隊に配属された。ジューコフは大戦中の勇敢な戦いにより、聖ゲオルギー十字勲章を2回授与され、上等兵(下士官)に昇進した。

ロシア10月革命が勃発すると、ソ連共産党に加入した。彼の生まれ育った貧困な環境がその原動力になっていたと考えられている。チフスを一時期患った後、1918年から1920年にかけて赤軍の一員としてロシア内戦を戦い、農民の反乱を鎮圧した功績により赤旗勲章を授与された。1923年に連隊長、1930年には旅団長と昇進を重ねた。ジューコフは、軍隊の機械化および戦争における機械化部隊の運用という新しい理論の強力な提唱者の一人であり、また彼の立てる計画の緻密さ、厳しい訓練や厳格な規律の実施は有名であった。

1937年から1939年におよぶヨシフ・スターリンによる赤軍の大粛清を生き残ったが、依然として政治的に不穏な情勢にあったモスクワを避けて、1938年第一ソビエト・モンゴル軍集団の司令官に就任した。そこでは、日本の樹立した満州国モンゴルの国境地帯において、日本の関東軍との間に何度も小競り合いが起きていた。関東軍にとって最初は、ソ連の国境防衛能力を試す意図があったが、急速に大規模な戦闘に発展したことを受け、最終的に戦車180台、航空機450機、兵員60,000名が投入されることとなった。(ノモンハン事件

ジューコフは、十分な戦力を準備し、1935年8月15日より関東軍に対する反撃を指揮した。自動車化された砲兵と歩兵の支援のもと、2個戦車旅団が戦線の両翼を進撃するという大胆な機動を行って日本の第6軍を包囲し、1個師団を全滅させるなどの大打撃を与えた。2週間の内に関東軍は撤退し、その後、国境線はソ連・モンゴルの主張通り確定された。この功績により、ジューコフは「ソビエト連邦の英雄」の称号を与えられた。ソ連以外では、この戦いはあまり知られておらず、ジューコフの機械化部隊の機動的な運用という革新的な戦術も西側諸国に注目されなかった。このような戦術が周知になるのは、のちのナチス・ドイツによるポーランドフランスへの電撃戦を待たねばならなかった。ただし、ソ連崩壊後に明らかになった資料によると、この戦闘におけるソ連側の損害も決して少なくなかった。

1940年、ジューコフは赤軍の参謀総長に任命されたが、同年6月スターリンとの意見の不一致により辞任した。後任にはボリス・シャポシュ二コフが就いたが、12月にはアレクサンドル・ワシレフスキーに代わった。

第二次世界大戦

1941年6月、ナチスドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始すると(バルバロッサ作戦)、ジューコフはレニングラード軍管区に司令官として派遣され、同都市防衛の任務に就いた。そこでジューコフは目覚しい軍事的手腕と非情なまでの決意を見せることで、浮き足立つ防衛軍の規律を回復し、市民の協力をも得ることができた。これにより1941年の秋にはレニングラード南の郊外でドイツ軍の進撃を停止させた。

1941年10月にはモスクワにドイツ軍が接近しつつあったため、ジューコフはモスクワ防衛の指揮官にセミョーン・ティモシェンコを任命するとともに、独ソ開戦時よりソ連軍の大部分が配置されていた極東より、続々と部隊を鉄道輸送させた。1941年12月、ソ連軍の反撃によりこの方面のドイツ軍を後退させることに成功した。この大移動を迅速に成し遂げたジューコフの兵站手腕がなければ、モスクワ防衛は成らなかったと考えられている。

1942年8月ジューコフはソ連軍の最高司令官代理に任命された後、ドイツ軍の猛攻を受けていたスターリングラード救出のため同地に派遣された。スターリングラードの戦いでは、ソ連側にも100万人の死者が出たが、1943年1月ドイツ第6軍を包囲、壊滅し、東部戦線の転換点を実現した。同じ頃、元帥に昇進した。

1943年7月のクルスクの戦いではニコライ・ヴァチューティンを司令官に任命し、ドイツ軍の攻勢を破り、1944年1月にはレニングラードの包囲を解除させた。1944年6月より開始されたソ連の大反攻作戦(バグラチオン作戦)と、続く1945年ドイツ本土への侵攻の指揮を執り、同年4月にベルリンを占領し、ドイツのカイテル元帥より降伏文書を受け取った。戦争終結後はそのままソ連のドイツ占領軍の最高司令官となった。

大祖国戦争で最も昇進し、活躍した軍人として英雄視され、1945年モスクワの赤の広場での戦勝パレードにおいてジューコフも称えられた。

戦後

このようなジューコフの存在および人気は、スターリンの独裁政治にとって少なからぬ脅威となった。そのため1947年、モスクワから遠く、傘下の部隊も少ないオデッサの軍管区司令官に左遷された。しかし、スターリンの死後、再び政界に復帰し、1953年国防大臣代理に、1955年国防大臣に就任した。1953年には国家政治保安部長官であったラヴレンチィ・ベリヤを逮捕、処刑するなどして、スターリン死後のソ連共産党の指導体制を支えた。

1957年ヴャチェスラフ・モロトフらのいわゆる「反党グループ」との権力闘争では、ニキータ・フルシチョフを支持してこの危機を乗り切った。同年6月、ソ連共産党中央委員会の常任委員となったが、軍事面での政策においてフルシチョフと重大な意見の不一致が生じた。フルシチョフは、陸海の常備軍を削減し、抑止力の第一要因として戦略核兵器部隊を増強することで、浮いた人的および物的な資源を民間経済の発展に回そうとした。一方、ジューコフは軍の利益を第一に考えていたため、この政策には反対であった。フルシチョフは、軍に対する党の優位性を盾にしながら、ジューコフを大臣の職から解任し、中央委員会からも追放した。フルシチョフ自身の回顧録の中で、ジューコフがクーデターを企てていたと信じており、中央委員会の会議でこれを理由としてジューコフを告発し、追放したことが述べられている。

1964年10月、フルシチョフが失脚すると、レオニード・ブレジネフとアレクセイ・コスイギンが後を継ぎ、彼らによってジューコフの名誉は回復された。政界に復帰することはなかったが、ソ連において最も大衆に人気のある人物の一人であった。1974年に死去し、軍人として最高の栄誉をもって葬られた。

1995年、ジューコフの生誕100周年を記念して、ロシア連邦政府はジューコフ勲章を新設した。