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「ダグラス・マッカーサー」の版間の差分

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アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は[[南北戦争]]の退役軍人であり名誉勲章を受章している。母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれで、マッカーサーは基地内で育った。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、[[大尉]]として1923年に死んだ。彼の弟マルコムは1883年に死んだ。
アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は[[南北戦争]]の退役軍人であり名誉勲章を受章している。母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれで、マッカーサーは基地内で育った。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、[[大尉]]として1923年に死んだ。彼の弟マルコムは1883年に死んだ。


[[1898年]]、アメリカ陸軍士官学校に入学し、[[1903年]]に[[少尉]]になり[[卒業]]した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。しかし、軍人としては臆病者であり、拳銃の音つでおびえていたなどといわれている。<br>
[[1898年]]、アメリカ陸軍士官学校に入学し、[[1903年]]に[[少尉]]になり[[卒業]]した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。しかし、軍人としては臆病者であり、拳銃の音つでおびえていたなどといわれている。<br>
第一次世界大戦においては欧州戦線で第42歩兵師団を指揮。二回負傷。<br>
第一次世界大戦においては欧州戦線で第42歩兵師団を指揮。二回負傷。<br>
アメリカ陸軍最年少で[[参謀]]総長に就任。<br>
アメリカ陸軍最年少で[[参謀]]総長に就任。<br>
その後退役したが、[[1935年]]、フィリピン軍の軍事顧問に就任し「フィリピン軍元帥」の称号を与えられた。この称号はマッカーサーのために特に設けられたもので、マッカーサーの虚栄心を満足させるものであった。後年、米陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けたのはよく知られている。<br>
その後退役したが、[[1935年]]、フィリピン軍の軍事顧問に就任し「フィリピン軍元帥」の称号を与えられた。この称号はマッカーサーのために特に設けられたもので、マッカーサーの虚栄心を満足させるものであった。後年、米陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けたのはよく知られている。<br>

2005年2月14日 (月) 13:34時点における版

ダグラス・マッカーサーDouglas B. MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)はアメリカ軍将軍元帥)で、名誉勲章の受賞者である。

ファイル:マッカーサー.jpg
朝鮮戦争でのマッカーサー

アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり名誉勲章を受章している。母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれで、マッカーサーは基地内で育った。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、大尉として1923年に死んだ。彼の弟マルコムは1883年に死んだ。

1898年、アメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年少尉になり卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。しかし、軍人としては臆病者であり、拳銃の音一つでおびえていたなどといわれている。
第一次世界大戦においては欧州戦線で第42歩兵師団を指揮。二回負傷。
アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任。
その後退役したが、1935年、フィリピン軍の軍事顧問に就任し「フィリピン軍元帥」の称号を与えられた。この称号はマッカーサーのために特に設けられたもので、マッカーサーの虚栄心を満足させるものであった。後年、米陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けたのはよく知られている。
1941年にルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰。二度も大将になったのはマッカーサーが初めてである。
フィリピン時代の副官はアイゼンハワーであった。マッカーサーとアイゼンハワーの仲は良くなかったと言われている。

太平洋戦争大東亜戦争)中、南西太平洋連合国軍総司令官として東南アジア日本と戦った。日本軍のマニラ攻撃に伴い、コレヒドール島から家族と共に魚雷艇で豪州に脱出。1944年にフィリピンのレイテ湾に上陸。見事フィリピンの奪還に成功した。1945年9月に日本の降伏を受領し、1950年6月まで連合国軍総司令部 (GHQ) の総司令官として日本占領に当たった。
フィリピン攻略については米陸軍参謀本部では戦略上必要無しとの判断であったが、マッカーサーはフィリピン国民との約束も有る為フィリピン攻略を主張した。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたのでマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、連合軍総司令として戦争を指揮し、仁川上陸作戦を成功させて、京城を回復した。しかし核使用を主張してトルーマン大統領と対立し、翌年4月11日更迭を発令される。19日の退任に際して語った「老兵は死なず、ただ立ち去るのみ」は有名。
また、戦後日本ではGHQの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。
マッカーサーの更迭については日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有った為とも言われている。
オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長はマッカーサー解任は当然であると主張した。
更迭後の1951年5月3日アメリカ上院軍事外交共同委員会において、マッカーサーは朝鮮戦争における中国海上封鎖戦略についての答弁の際、日本が『戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった』と発言。太平洋戦争が日本の自衛戦争であったと認めた。GHQのトップとして戦前の日本を断罪した彼は、朝鮮戦争によってその考えを180度転換したのだが、この事実は日本ではほとんど知られていない。また、民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べたが、“12歳”だけが都合よく取り出され、現在に至るまで“日本の未熟さ”について述べたように言われ続けている。


関連項目