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[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]のスカウトの間で「マツザカは[[ジャイロボール]]を投げる」という噂が立ったことがあり、本人も初めは何のことか分からなかったが、彼の持ち味の一つである140kmを超えるカットボールの抜け球のことである。ボールの回転軸がボールの進行方向と同じ向き(ネジや弾丸を想像するとわかりやすい)であり抗力が小さいので、ジャイロボールの一種とされることもあるが、[[球種 (野球)#直球|ストレート]]と違いバックスピン量が少ないので、重力に従い数10cm垂直に鋭く落ちる球種になる。詳しくは[[ジャイロボール]]の項目を参照。 |
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== 通算成績(2006年シーズン終了時) == |
== 通算成績(2006年シーズン終了時) == |
2007年9月5日 (水) 09:18時点における版
出身地 | 東京都江東区 出生地は青森県東津軽郡蟹田町 |
身長 体重 |
182 cm 85 kg |
守備位置 | 投手 |
投球・打席 | 右投右打 |
背番号 | 18 |
年俸 | $6,000,000(2007年) |
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銅 | アテネオリンピック (2004年) | 野球 |
松坂 大輔(まつざか だいすけ、1980年9月13日 - )は、ボストン・レッドソックスに所属するプロ野球選手(投手)である。背番号は18。
概要
- 身長・体重:182cm、85kg
- 投打:右投右打
- 出身地:東京都江東区
- 出生地:青森県東津軽郡蟹田町(現:外ヶ浜町)
- 血液型:O型
- 球歴・入団経緯:横浜高 - 西武(1999年 - 2006年) - レッドソックス(2007年 - )
- FA取得:なし
- プロ入り年度・ドラフト順位:1998年(1位)
- 英語表記:MATSUZAKA
- 推定年俸:600万ドル(2007年)、800万ドル(2008~2010年)、1000万ドル(2011~2012年)
- 守備位置:投手
- 背番号:18 (少年時代から巨人の桑田真澄に憧れていたためだという)
父は北海道稚内市出身で、母は青森県出身。弟・恭平は四国アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツに所属する野球選手(内野手)。妻は元日本テレビアナウンサーの柴田倫世。夫婦の間には2005年12月に誕生した長女がいる。
「大輔」という名前は、1980年に大旋風を巻き起こした甲子園のアイドル、早稲田実業の荒木大輔のように甲子園で活躍できるようにという親の願いからつけられたものであり、その親の願い以上の結果を甲子園、プロで残している。
愛称は「マツポン」「マツ」「ダイスケ」、アメリカメディアでは「Dice-K」、「D-Mat」という愛称が使われている。ボストンでは「Dice-K」が好まれる。本人は「D-Mat」をサインに使うこともある。
代理人はスコット・ボラス。
「目標が、その日その日を支配する」という言葉を座右の銘にしているが、これは高校時代に渡辺元智監督から贈られた後藤静香の「第一歩」という詩の一節である。
来歴・人物
プロ入り以前
- 東京都江戸川区のリトルリーグ出身。高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが(江夏豊『松坂大輔へ 江夏豊からのメッセージ』中央公論新社、2000年)、2年次の夏の甲子園県予選での対横浜商業高校戦で、自身の暴投によるサヨナラ負け以来奮起し、MAX152km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダー、カーブ、チェンジアップを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」と称される。最後の夏となった1998年の第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡を擁するPL学園を相手に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。決勝戦では、59年ぶり史上2人目となる決勝戦ノーヒットノーランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。
- 1998年度ドラフト会議では、指名順位1位で西武、横浜、日本ハムの3球団が競合の末西武が交渉権を獲得(ハズレ1位として横浜は古木克明、日本ハムは實松一成を指名)。当初ドラフト直後の会見では、「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていたが、西武へ入団した。
西武ライオンズ在籍時代
- 初先発となった4月7日の対日本ハム戦では155km/hの直球を披露、8回2失点の好投で初勝利を記録し、まさに鮮烈なデビューを飾った。その試合での片岡篤史の豪快な空振りはプロでも変わらぬ“怪物”ぶりを示す映像資料として現在でもよく放送される。同じ試合で、フランクリンへの投球が胸元の際どいコースに行き、フランクリンが怒りをあらわに詰め寄ったが、それに動じた様子を見せないなど、強心臓ぶりも見せた。
- 4月21日の対ロッテ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で惜敗。この試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日の対ロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録し、見事にリベンジを果たした。このことから、松坂の「リベンジ」は、プロ同期で同じく鮮烈なデビューを果たした上原浩治(巨人)の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれている。
- 5月16日の対オリックス戦では、すでにプロ野球界において孤高の存在であったイチローとの初対決が話題となったが、イチローを3打席連続三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた。試合後のヒーローインタビューでは「自信から確信に変わった」という名言も残している。
- 7月24日に行われたオールスター第1戦に先発して3イニングを投げ、高卒新人としては史上最多となる5奪三振を記録。3回表に味方の失策によって2点を失い、自責点はゼロながら敗戦投手となったものの、この試合の優秀選手賞に輝いた。また、オールスター新人賞も受賞した。
- シドニー五輪の野球アジア予選に参加し、9月15日の台湾戦に先発。古田敦也(ヤクルト)とバッテリーを組み、1失点完投勝利を挙げて日本の五輪出場に大きく貢献した。
- 1年目は結局16勝を挙げて最多勝。高卒新人としては史上初となるベストナイン、ゴールデングラブ賞の受賞を果たし、また、高卒新人の投手としては堀内恒夫(巨人)以来、33年ぶりとなる新人王に輝くなど、その実力を見せ付けた。
- 10代では津野浩(日本ハム)以来、15年ぶりの開幕投手を務める。
- プロアマ混成のシドニー五輪の野球日本代表に選ばれ、まず9月17日のアメリカ戦に先発。10回2失点の好投を披露するも、チームは延長13回サヨナラ負け。中5日で先発した9月23日の韓国戦では、初回から4点を失うものの、その後は立ち直り、161球の熱投で9回5失点にまとめるも、またしてもチームは延長の末に敗れた。中3日で再び韓国と対戦した9月27日の3位決定戦では、具臺晟と投げ合い、0-0の投手戦が続いたが、8回裏に李承燁(現巨人)に痛恨のタイムリー二塁打を打たれるなどし、3失点完投負け。好投も報われず、日本は五輪野球で初めてメダルを逃す結果となった。
- シドニーから帰国後、2勝を上積みして14勝とし、小野晋吾(ロッテ)との最多勝争いを制して2年連続の最多勝に輝いたが、不祥事が発覚し、オフに世間からバッシングを浴びることになる(エピソード参照)。
- 15勝を挙げ、新人年から3年連続となる最多勝を獲得したが、これは高卒新人では初の記録である。また、同年の沢村賞も受賞したが、15敗と負け数も多かったため、選考委員からは反対意見も出ていた。結局、両リーグで唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数などが高く評価されての選出となったが、2年連続での「該当者なし」という事態は避けたいという思いも選考委員にはあったと思われる。当時の藤田元司委員長は、「松坂の150キロを越える豪速球は沢村さんをほうふつさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選んだ」とコメントしている。
- 開幕6連勝という順調なスタートを切ったが、5月13日の近鉄戦で右ひじを痛め、何度か復帰するものの、本来の投球は戻らずに長期離脱。日本シリーズでも巨人打線に打ち込まれて2敗するという悔しいシーズンとなった。
- 前年の怪我から奮起し、自己最多タイ(当時)の16勝を挙げた。
- アテネ五輪の野球アジア予選では、11月6日の台湾戦に先発し、7回無失点の好投で勝利を収め、五輪出場の条件である2位以内をほぼ決定づけた。大会の最優秀投手にも選ばれた。
- 7月10日のオールスター第1戦で2番手として登板し、2イニングを無安打無失点で4奪三振という好投を披露し、自己最速タイとなる156km/hも記録した。本塁打を2本以上打った選手がいなかったこともあり、松坂がこの試合のMVPに輝いた。
- アテネ五輪の野球日本代表に選ばれ、8月17日(現地時間)のキューバ戦に先発。4回にユリエスキー・グリエルの打球を右腕に受けるアクシデントに見舞われるも、8回まで無失点に抑える力投を披露し、完封も期待された。結局、9回に3点を失ったものの、石井弘寿(ヤクルト)のリリーフで逃げ切り、松坂は五輪での初勝利を手にした。中5日で先発した8月24日の準決勝・オーストラリア戦では、8回途中まで1失点の好投も報われず、0-1で惜敗して金メダルの夢はついえた。チームは翌日、カナダとの3位決定戦に勝利したため、松坂は銅メダリストとなった。
- レギュラーシーズンは2位に終わったものの、この年から導入されたプレーオフの第1ステージで3位の日本ハムと対戦。第1戦では、8回途中7失点と打ち込まれたものの、打線の援護で勝利投手となった。ダイエーと争った第2ステージでは第2戦に先発し、完封ペースだったが、打線の大量援護もあり、6回無失点で余力を残して降板。これが功を奏し、最終の第5戦に中3日で先発。6回1失点でしのぎ、勝利投手にはなれなかったものの、チームは延長10回の末に4-3で勝利し、リーグ優勝を果たした。
- 中日との日本シリーズでは、まず第2戦に先発。立浪和義に同点3ラン本塁打を打たれるなどし、6回1/3を8失点で敗戦投手。2勝3敗と王手をかけられた第6戦では、苦しみながらも8回2失点でしのぎ、勝利投手となって逆王手をかけた。翌日の第7戦には中継ぎで3番手として登板し、日本一に貢献した。この直後に柴田倫世との結婚を発表した。
- 11月11日の日米野球第6戦に先発し、1失点完投勝利。アメリカ選抜チーム相手の完投勝利は、荒巻淳(毎日)以来、51年ぶり史上2人目の記録となった。
- 高校時代には甲子園球場では15連勝、被本塁打0という記録を持っていたが、5月18日のセ・パ交流戦・対阪神戦でプロ野球選手として初登板した際、桧山進次郎に先制2ランを浴び、試合も2-3で敗北。甲子園での被本塁打0という記録は途絶え、連勝記録も15で止まった。
- 年間を通じての防御率が2.30であったにもかかわらず、14勝13敗に終わった。打線の援護がなく、野手の失策も多かったため、松坂が6月27日の日本ハムとの試合後に「球際に弱い選手が多い。僕も含めてですが、一つ一つのプレーが軽すぎる。若い選手が多いんだから、もっとガムシャラにやってほしい」と野手批判ともとれる発言をした。後日、野手ミーティングに参加してお詫びしたという。評論家からは「打線の援護がないのは、投球のリズムが悪いからだ」と度々指摘されており、本人も自覚して改善を目指し、翌年にその効果が表れたようである。
- 第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場。3月4日の台湾戦では4回1失点、3月14日のメキシコ戦では5回無失点、そして3月20日のキューバとの決勝戦では、試合前に首を痛めながらも気合の投球で4回1失点に抑え、先発したすべての試合で勝利投手になった(WBCには球数制限があったため、先発投手の投球イニングが5回未満でも勝利投手になれた)。結果的に、大会最多となる3勝、防御率1.38という成績が高く評価され、大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。
- 6月9日のセ・パ交流戦・対阪神戦で1失点完投勝利を収め、高校時代に大活躍した甲子園でのプロ初勝利を記録し、自らホームランも打った(バッティングで後述)。
- 6月16日のセ・パ交流戦・対横浜戦で、江川卓(所要193試合)を抜きドラフト制度導入後最速(191試合)の100勝を達成する。(その後、同年8月25日に上原浩治(巨人)が同じ191試合での100勝を対阪神戦にて達成し、松坂の記録は最速タイとなった。)
- 10月7日、ソフトバンクとのプレーオフ第1ステージ初戦に先発。厳しい内角攻めで4死球を与えたが、斉藤和巳との熾烈な投げ合いを制し1-0で完封勝利を挙げる。チームはその後2連敗し第1ステージで敗退したため、この試合が松坂の渡米前の最後の公式戦となった。
- ポスティングシステムを利用して大リーグに移籍したいという松坂の要望を西武が受け入れ、同制度の利用を11月1日に正式に表明。11月15日にレッドソックスが5111万1111ドル11セント(約60億円)で独占交渉権を獲得したことが発表され、12月15日、レッドソックスとの契約が正式に発表された。AP通信によると、契約内容は6年総額5200万ドル(約61億円)。ちなみに1998年の夏の甲子園よりレッドソックスは松坂に注目しており、同球団のスカウトが決勝戦の試合を観戦していた。なお、レッドソックスファンであるクリストファー・ヒル国務次官補は、六カ国協議が行われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」などと松坂のことを気にかけていた。
ボストン・レッドソックス在籍時代
Template:節現在進行 (日付は全て現地時間)
- 4月5日のロイヤルズ戦で大リーグの公式戦初先発。気温2度という厳しい寒さの中で、最速95マイル(約153キロ)の速球と多彩な変化球を武器に、7回までをソロホームランによる1失点のみに抑え、10三振を奪う好投で初勝利を挙げた。初先発初勝利は日本人選手では4人目の記録となった。
- 5月14日の対タイガース戦で1失点完投、5月19日の対ブレーブス戦では8回3失点の好投で連勝し、この週のア・リーグ週間MVPを獲得した。
- 8月4日の対マリナーズ戦において、7回2失点の好投で13勝目(8敗)を挙げ、日本人選手の1年目の勝ち星としては、1995年の野茂英雄(ドジャース)に並び、2002年の石井一久(ドジャース)の14勝に次ぐ2位タイとなった。負け数も多いため、前評判の高さに比べれば松坂への評価は必ずしも芳しいものばかりではないが、本人も「チームやファンからはもっと高いレベルを求められている。さらに上を目指したい」とコメントしている。
バッティング
- バッティングも上手い事で有名である。高校時代は4番を務めていた時期もあり、高校通算14本塁打を記録。打撃に悩む野手に打撃のアドバイスを送ることもあるらしい。パ・リーグに所属する投手は打撃練習をほとんどしないが、松坂はトレーニングに取り入れているという。高校時代の恩師である横浜高校の渡辺元智監督は、松坂が打者として活躍していたら巨人の高橋由伸を右にしたようなバッターになると語った。
- 2000年8月7日のオリックス戦では、9回2死満塁の場面で代打として登場。栗山聡からファールで粘った後の7球目をセンター前ヒットし、2打点を挙げた。DH制施行以降では投手のヒットは4人目である。
- 2002年の日本シリーズでは、当時の伊原春樹監督は投手を8番に置き、9番打者をシーズン同様に高木浩之とすることを示唆していたが、松坂には7番を打たせた。
- 2006年6月9日のセ・パ交流戦・対阪神戦(甲子園)ではダーウィン・クビアンの高めのボール球を叩いて本塁打。DH制施行後、パ・リーグの投手としては4人目の記録となった。
- 大リーグでの松坂は、DH制を採用しているア・リーグのレッドソックス所属のため、2007年6月10日の交流戦・対ダイヤモンドバックス戦が初打席となったが、ランディ・ジョンソンから2打席2三振を喫し、6月22日のパドレス戦でも、グレッグ・マダックスを相手に2打席とも内野ゴロに倒れ、1年目での初安打は達成できないまま交流戦を終えた。
ジャイロボール論争
大リーグのスカウトの間で「マツザカはジャイロボールを投げる」という噂が立ったことがあり、本人も初めは何のことか分からなかったが、彼の持ち味の一つである140kmを超えるカットボールの抜け球のことである。ボールの回転軸がボールの進行方向と同じ向き(ネジや弾丸を想像するとわかりやすい)であり抗力が小さいので、ジャイロボールの一種とされることもあるが、ストレートと違いバックスピン量が少ないので、重力に従い数10cm垂直に鋭く落ちる球種になる。詳しくはジャイロボールの項目を参照。
通算成績(2006年シーズン終了時)
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝 | 負 | S | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 四球 | 死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | 西武 | 25 | 6 | 2 | 0 | 16 | 5 | 0 | .762 | 743 | 180 | 124 | 14 | 87 | 8 | 151 | 5 | 2 | 55 | 52 | 2.60 |
2000年 | 27 | 6 | 2 | 0 | 14 | 7 | 1 | .667 | 727 | 167 2/3 | 132 | 12 | 95 | 4 | 144 | 2 | 0 | 85 | 74 | 3.97 | |
2001年 | 33 | 12 | 2 | 1 | 15 | 15 | 0 | .500 | 1004 | 240 1/3 | 184 | 27 | 117 | 8 | 214 | 9 | 1 | 104 | 96 | 3.60 | |
2002年 | 14 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | .750 | 302 | 73 1/3 | 60 | 13 | 15 | 7 | 78 | 2 | 1 | 30 | 30 | 3.68 | |
2003年 | 29 | 8 | 2 | 1 | 16 | 7 | 0 | .696 | 801 | 194 | 165 | 13 | 63 | 9 | 215 | 4 | 0 | 71 | 61 | 2.83 | |
2004年 | 23 | 10 | 5 | 0 | 10 | 6 | 0 | .625 | 601 | 146 | 127 | 7 | 42 | 6 | 127 | 5 | 0 | 50 | 47 | 2.90 | |
2005年 | 28 | 15 | 3 | 4 | 14 | 13 | 0 | .519 | 868 | 215 | 172 | 13 | 49 | 10 | 226 | 9 | 0 | 63 | 55 | 2.30 | |
2006年 | 25 | 13 | 2 | 2 | 17 | 5 | 0 | .773 | 722 | 186 1/3 | 138 | 13 | 34 | 3 | 200 | 5 | 0 | 50 | 44 | 2.13 | |
通算成績 | 204 | 72 | 18 | 8 | 108 | 60 | 1 | .642 | 5768 | 1402 2/3 | 1102 | 112 | 502 | 55 | 1355 | 41 | 4 | 508 | 459 | 2.95 |
- 各年度の太字はリーグ最高。
タイトル・表彰など
- 新人王
- 最多勝利
- 3回 1999年~2001年
- 最多奪三振
- 最優秀防御率
- 2回 2003年、2004年
- 沢村賞
- 1回 2001年
- ベストナイン
- 3回 1999年~2001年
- ゴールデングラブ賞
- 7回 1999年~2001年、2003年~2006年
- オールスター出場
- 7回 1999年~2001年、2004年~2006年
- (2002年と2003年は負傷により出場辞退)
エピソード
交通違反もみ消し事件
2000年9月13日に当時交際中で現夫人の柴田倫世の自宅マンション前にて、球団名義の車で駐車違反を犯してしまう。松坂はその年の8月に犯したスピード違反で免許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武球団の黒岩彰広報課長(元スピードスケート選手・カルガリーオリンピック銅メダリスト、現同球団代表)が出頭した。 しかしその隠ぺい行為が写真週刊誌に報道されたことにより、松坂は道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、黒岩ともども犯人隠避の疑いで東京地検に書類送検されている。その結果、略式起訴により罰金19万5000円の略式命令を受けた。球団職員が駐車違反の隠ぺいに関与していたことから、当時の小野球団社長及び黒岩は責任を取って辞表を提出するにまでに至った。このことを重く見た球団側は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は一ヶ月足らずで解除された。
ダイスケの呪い
松坂は、アマチュア時代の高校野球の連覇などの輝かしい戦績に比べ、プロ入りしてからは優勝争いや五輪のメダル争いなど大舞台でしばしば打たれ、優勝に縁がない投手だった。加えて松坂がケガで戦列を離れた2002年に西武が優勝したため、ファンの間では「ダイスケの呪い」などと言われることがあった(ホークスの松中らとともに「逆シーズン男」と呼ばれたことも)。しかし2004年は、五輪準決勝では好投しながら打線の援護がなく敗れたものの、ペナントレースでは順調に白星を重ね、特に弱いとされたポストシーズンで、ダイエーとのプレーオフ第2戦と第5戦に好投し、西武をリーグ優勝に導いた。直後の中日との日本シリーズでは、第2戦に先発し6点の援護を貰うも7回に集中打を浴びてKOされ、呪い再びかと思われたが、王手をかけられた第6戦では、序盤リードを奪われながらも結局2点に抑えて自身初のシリーズ勝ち投手となる。さらに翌日の第7戦にもリリーフ登板し、日本一に貢献。2006年のワールド・ベースボール・クラシックでも3勝を挙げ日本の世界一に大きく貢献。この大会のMVPに選ばれ、大舞台に弱いという「呪い」を完全に払拭した。
WBCでのエピソード
第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で最優秀選手(MVP)に選ばれた松坂は、MVPのトロフィーを受け取った直後にTVのインタビューで、「MVPとったんですけど、これ(=トロフィーの円盤状の飾り)もうとれちゃったんですね。この辺がアメリカっぽいですけど」と苦笑い。そして、「後で自分でアロンアルファでくっつけて直しますけど」と冗談を言ってのけた。その後、販売元の東亞合成から実際に松坂にアロンアルファが送られた。
また、優勝を祝うシャンパンファイトにおいて、同い年の上重聡アナに「今日のピッチング気合入ってましたね」と問われた松坂は、日本帰国後に開幕するパ・リーグのペナントレースをうっかり忘れたのか、「もうそりゃ、今日最後だから。今年最後だから」と口を滑らせた。「今年最後ではありません」と突っ込まれると、「それくらい気持ちを入れてたってことです。帰ってもしっかりやります」と自己フォローしていた。実際、この年オフのWBC祝勝コンベンションにおいて、「WBCが終わり、そのままシーズンオフになれば良かったとさえ思った」ほどの、プレッシャーと達成感があったと語っている。
剣道と速球
松坂は少年時代、剣道も習っていた。2006年の少年野球教室で、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問に「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えており、少年時代の剣道が現在の速球の下地となっていることがわかる。
CM出演
- トヨタ トビラを開けようキャンペーン VSC篇 (2007年1月 - )
- アサヒビール アサヒスーパードライ
- コカ・コーラ アクエリアス ドライレイク篇 (2007年3月 - )
- ナイキ (2007年4月 - )
松坂世代
松坂大輔と同学年の選手(和田毅、新垣渚、杉内俊哉、村田修一、藤川球児、森本稀哲など)には、投手を中心にプロで活躍する逸材が揃っており、彼らは総称して『松坂世代』と呼ばれている。松坂自身、和田や新垣など同学年の選手たちとの親交が深い。詳しくは「松坂世代」のページを参照。
外部リンク
関連項目
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