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「バートン・クレーン」の版間の差分

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 日本滞在中のクレーンは、六本木に家族と住み、暇さえあれば浅草に出てカフェーで酒を飲み、榎本健一などの芸人たちと交流をもった。記者としてはまじめで厳格な仕事ぶりであったが'''「非常に洒脱な一面があり」「なかなか立派な日本語であった。」'''(榎本健一談)ということである。
 日本滞在中のクレーンは、六本木に家族と住み、暇さえあれば浅草に出てカフェーで酒を飲み、榎本健一などの芸人たちと交流をもった。記者としてはまじめで厳格な仕事ぶりであったが'''「非常に洒脱な一面があり」「なかなか立派な日本語であった。」'''(榎本健一談)ということである。


 帰国後のクレーンは「ニューヨーク・タイムズ」紙記者として招かれ経済欄を担当、その記事は全米でもトップクラスの評価を得ていた。日米開戦後は日本通ということで重用され、1945(昭和20)年戦略局極東班に所属し、中国の昆明に渡り諜報関係の任務についた。終戦後は特派員として再来日。日本の友人たちと旧交を温める一方では「コレスポンデンツ・クラブ」(現日本外国人特派員協会)を立ち上げ初代会長に就任、在日の海外特派員のまとめ役を行った。戦後の二度目の来日は専ら本業の記者活動に力を入れ歌手活動は一切行わなかった。
 帰国後のクレーンは「ニューヨーク・タイムズ」紙記者として招かれ経済欄を担当、その記事は全米でもトップクラスの評価を得ていた。日米開戦後は日本通ということで重用され、1945(昭和20)年戦略局極東班に所属し、中国の昆明に渡り諜報関係の任務についた。終戦後は特派員として再来日。日本の友人たちと旧交を温める一方では「コレスポンデンツ・クラブ」(現日本外国人特派員協会)を立ち上げ初代会長に就任、在日の海外特派員のまとめ役を行った。戦後の二度目の来日は専ら本業の記者活動に力を入れ歌手活動は一切行わなかった。(古川ロッパ日記には、NHKでロッパと共に歌ったりロッパに脚本を提供した記述がある。)


 1951(昭和26)年に朝鮮戦争が勃発すると、取材のため独断で数名の仲間と陥落寸前のソウルに行くが戦闘に巻き込まれ頭を負傷する。これがもとで支局長と衝突し、台湾に転勤、直後帰国する。その後はコラムニストとして大学の教壇に立ったり著述活動に専念したりした。晩年は病魔に倒れ長らく闘病生活を続けていたという。
 1951(昭和26)年に朝鮮戦争が勃発すると、取材のため独断で数名の仲間と陥落寸前のソウルに行くが戦闘に巻き込まれ頭を負傷する。これがもとで支局長と衝突し、台湾に転勤、直後帰国する。その後はコラムニストとして大学の教壇に立ったり著述活動に専念したりした。晩年は病魔に倒れ長らく闘病生活を続けていたという。

2007年9月9日 (日) 07:57時点における版

バートン・クレーン(Burton.Crane)(1901年1月23日~1963年2月3日)は、昭和初期に活躍したアメリカ出身の歌手、ジャーナリスト


ニューヨーク州バッファローで牧師の家に生まれる。1922年ブリンストン大学を卒業後、経済関係のジャーナリストを志し、新聞界に入る。ニュージャージー州『エリザベスタイムス』紙、『アソシエイテッド・プレス』のフィラデルフィア支局を経て、1925(大正15)年秋、『ザ・ジャパン・アドバタイザー』紙の記者兼『ニューヨーク・タイムズ』、『ウオールストリートジャーナル』の東京特派員として来日した。

 クレーンは宴席の余興で故国の歌をカタコトの日本語で唄っていたことがコロムビアレコードのL・A・ホワイト社長にスカウトされる。コロムビア社は、1927(昭和2)年、蓄音器輸入販売会社の日本蓄音器商会を買収したアメリカの外資系会社で、ライバルのビクターともども、当時の最新式技術である電気吹き込みによる良い音質を売り物にした国産レコードの販売を進め、1928(昭和3)年、二村定一・天野喜久代による『あほ空』(My Blue Heaven)の発売で、アメリカのジャズ音楽を日本に普及させていた。そんな状況の中、販売体制の強化を目指して来日したホワイトはクレーンの才能を見出したのである。

 森岩雄の協力で1931(昭和6)年1月、吹き込んだ第1作『酒が飲みたい』は同年4月にリリースされ大ヒットした。『酒が飲みたい』は、作曲がクレーン本人の名義だが、バートン・クレーン研究を行っている東京経済大助教授山田晴通は、当時アメリカの大学生の間で唄われていた多くの『Drink Song』の一つ、『California Drink Song』と歌詞が一致するのでそのあたりが原曲ではないか、作詞は森岩雄名義だが森自身バートン・クレーン作をほのめかす証言を残しており、本人が作った日本語の歌詞を森が整理補足したと推測している。(山田晴通「バートン・クレーン覚書」「コミュニケーション科学17」東京経済大学 2002年 より)

 『酒が飲みたい』の歌詞のユニークさは詩人のサトーハチローが「この歌は歌そのものが泥酔している」「俺もこんな酔拂った歌がつくりたい」と激賞している。(山田晴通によるCDの解説文より)伴奏もコロムビア専属のジャズ演奏家からなるコロムビアジャズバンドが担当し、当時の社会を反映したモダンな音楽を作り上げていた。セミプロながらも日本歌謡史上初の外人歌手であり、明治期の落語家快楽亭ブラックとならぶ今日の外人タレントのはしりでもあった。

 一躍人気歌手となったクレーンは、『家にかえりたい』『おいおいのぶ子さん』『雪ちゃんは魔物だ』『ニッポン娘さん』などの30曲近くのコミックソングを中心とするレコードを出す。そのほとんどがアメリカの俗謡に訳詩を付けたものであった。また『月光価千金』などの本格的なジャズソングも吹きこんでいる。クレーンのレコードは、はじめ物珍しさもあって売れたがだんだんとマンネリに陥ってしまい、1934(昭和9)年、ホワイトの帰国を機に吹き込みをしなくなる。1936(昭和11)年テイチクに移籍後、レコードを1枚出したのみで歌手活動を中止しその年の秋に帰国した。

 日本滞在中のクレーンは、六本木に家族と住み、暇さえあれば浅草に出てカフェーで酒を飲み、榎本健一などの芸人たちと交流をもった。記者としてはまじめで厳格な仕事ぶりであったが「非常に洒脱な一面があり」「なかなか立派な日本語であった。」(榎本健一談)ということである。

 帰国後のクレーンは「ニューヨーク・タイムズ」紙記者として招かれ経済欄を担当、その記事は全米でもトップクラスの評価を得ていた。日米開戦後は日本通ということで重用され、1945(昭和20)年戦略局極東班に所属し、中国の昆明に渡り諜報関係の任務についた。終戦後は特派員として再来日。日本の友人たちと旧交を温める一方では「コレスポンデンツ・クラブ」(現日本外国人特派員協会)を立ち上げ初代会長に就任、在日の海外特派員のまとめ役を行った。戦後の二度目の来日は専ら本業の記者活動に力を入れ歌手活動は一切行わなかった。(古川ロッパ日記には、NHKでロッパと共に歌ったりロッパに脚本を提供した記述がある。)

 1951(昭和26)年に朝鮮戦争が勃発すると、取材のため独断で数名の仲間と陥落寸前のソウルに行くが戦闘に巻き込まれ頭を負傷する。これがもとで支局長と衝突し、台湾に転勤、直後帰国する。その後はコラムニストとして大学の教壇に立ったり著述活動に専念したりした。晩年は病魔に倒れ長らく闘病生活を続けていたという。

2006年秋、レコードコレクターの尽力でCD『バートン・クレーン作品集』(NEACH-0123)が出され再評価の動きが出ている。


参考文献 山田晴通 『バートン・クレーン覚書』

外部リンク

Hafumiti Yamada :2002:Biographical Burton Crane 1901-1963 「バートンクレーン覚書」所載

趣味趣味中年音楽團 バートン・クレーン復刻CDを作成したレコードコレクターのHP