コンテンツにスキップ

「古川ロッパ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目: 3行目:
本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。[[男爵]]加藤照麿の六男として生まれ、[[南満州鉄道|満鉄]]役員の古川武太郎の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は小学3年の頃に自らつけた[[筆名]]である。16歳の頃から[[キネマ旬報]]などの映画雑誌に投稿を始め、[[早稲田第一高等学院]]時代にキネマ旬報編集同人となる。[[早稲田大学]]英文科在学中に[[菊池寛]]に招かれ、[[株式会社文藝春秋|文藝春秋]]社に雑誌『映画時代』の編集者として入社。
本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。[[男爵]]加藤照麿の六男として生まれ、[[南満州鉄道|満鉄]]役員の古川武太郎の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は小学3年の頃に自らつけた[[筆名]]である。16歳の頃から[[キネマ旬報]]などの映画雑誌に投稿を始め、[[早稲田第一高等学院]]時代にキネマ旬報編集同人となる。[[早稲田大学]]英文科在学中に[[菊池寛]]に招かれ、[[株式会社文藝春秋|文藝春秋]]社に雑誌『映画時代』の編集者として入社。


雑誌編集の傍ら、元来から定評のあった宴会での[[余興]]芸の延長上で、[[1926年]]に親交のあった[[活動弁士]][[徳川夢声]]らと「ナヤマシ会」を結成し[[演芸]]活動を開始。[[声帯模写]]が好評を博した。『映画時代』の独力での経営に乗り出すが失敗に終わり雑誌休刊後は[[東京日日新聞]]の嘱託として映画・レビュー評を書く。その後、菊池寛、[[小林一三]]の勧めで[[喜劇]]役者に転向、デビューは1932年1月兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』であった。このときは小林の好意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出と千両役者にちなんで千円祝儀にもらうなど破格の待遇をしてもらいながら散々な出来であった。そのような失敗を乗り越え[[1933年]][[浅草]]で夢声らと劇団「笑(わらひ)の王国」を旗揚げ(ちなみに座付作家は後に『[[君の名は]]』の作者として知られる[[菊田一夫]])。ここでも苦戦を強いられるが、喜劇俳優としての力を着実につけていく。
雑誌編集の傍ら、元来から定評のあった宴会での[[余興]]芸の延長上で、[[1926年]]に親交のあった[[活動弁士]][[徳川夢声]]らと「ナヤマシ会」を結成し[[演芸]]活動を開始。[[声帯模写]]が好評を博した。『映画時代』の独力での経営に乗り出すが失敗に終わり親の遺産を失う。雑誌休刊後は[[東京日日新聞]]の嘱託として映画・レビュー評を書く。その後、菊池寛、[[小林一三]]の勧めで[[喜劇]]役者に転向、デビューは1932年1月兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』であった。このときは小林の好意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出と千両役者にちなんで千円祝儀にもらうなど破格の待遇をしてもらいながら散々な出来であった。そのような失敗を乗り越え[[1933年]][[浅草]]で夢声らと劇団「笑(わらひ)の王国」を旗揚げ(ちなみに座付作家は後に『[[君の名は]]』の作者として知られる[[菊田一夫]])。ここでも苦戦を強いられるが、喜劇俳優としての力を着実につけていく。


恰幅の良い体格に[[ロイド眼鏡]]の鷹揚な丸顔がトレードマーク、[[華族]]出身のインテリらしい、品のある知的な芸風であったという。朗々とした美声で[[コミックソング]]を歌唱し、声帯模写の巧みさでも超一流であった(徳川夢声が体調不良でダウンした際、ラジオの生放送にロッパが代役として夢声の名で出演し、誰もロッパの声色と気付かなかったというエピソードがある。夢声本人が聴いて「自分が出ているのか」と思ったほどであった)。コミックソングの作品に、「ネクタイ屋の娘」という曲があるが、これは作詞が[[西条八十]]、作曲が[[古賀政男]]という、歌謡曲の大御所2人による作品である。舞台では漫談、声帯模写のほか、「ティペラリー」や「尻取り歌」などが十八番であった。また森永製菓の協賛で吹き込んだ「僕は天下の人気者」はわが国最初のコマーシャルソングである。喜劇俳優としてはチャップリンと曽我廼家五郎を崇拝していた。
恰幅の良い体格に[[ロイド眼鏡]]の鷹揚な丸顔がトレードマーク、[[華族]]出身のインテリらしい、品のある知的な芸風であったという。朗々とした美声で[[コミックソング]]を歌唱し、声帯模写の巧みさでも超一流であった(徳川夢声が体調不良でダウンした際、ラジオの生放送にロッパが代役として夢声の名で出演し、誰もロッパの声色と気付かなかったというエピソードがある。夢声本人が聴いて「自分が出ているのか」と思ったほどであった)。コミックソングの作品に、「ネクタイ屋の娘」という曲があるが、これは作詞が[[西条八十]]、作曲が[[古賀政男]]という、歌謡曲の大御所2人による作品である。舞台では漫談、声帯模写のほか、「ティペラリー」や「尻取り歌」「唄えば天国」などが十八番であった。また森永製菓の協賛で吹き込んだ「僕は天下の人気者」はわが国最初のコマーシャルソングである。喜劇俳優としては[[チャップリン]][[曽我廼家五郎]]を崇拝していた。


1935年5月[[東宝]]に引き抜かれ、劇団名も「古川緑波一座」と改め7月には有楽座に出演して[[丸の内]]に進出。[[渡辺篤]]、[[森繁久彌]]、[[山茶花究]]、三益愛子、徳山璉などが一座に加わる。『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』などの[[アチャラカ]]芝居が大当たりし、同時期の喜劇役者[[榎本健一]]と共に「'''エノケン・ロッパ'''」と並び称せられ人気を争った。『男の花道』『花咲』など映画にも多数出演。喜劇もさることながら『道修町』などの舞台や『頬白先生』『婦系図』などの映画作品におけるシリアスな演技も定評があった。戦時中は検閲に悩まされたり空襲で自宅を焼かれるなどの苦難を乗り越え、『花咲く港』『歌と兵隊』などの舞台や映画出演、慰問公演などで活躍し人気を保った。一方で天下の暴君としても知られ、あんなに怖い役者はいなかったと後年評されている。その性格が災いしたこともあって、終戦後は一転して人気凋落。1949年の一座解散後は多額の借金を抱え、ラジオ・映画の出演で糊口をしのいだ。のちに持病の[[結核]]・[[糖尿病]]も悪化するなどの憂き目にあう。それでも榎本健一と舞台や映画での共演やアメリカ映画出演が持ちかけられたりして話題を集めるなど気を吐いた。
1935年5月[[東宝]]に引き抜かれ、劇団名も「古川緑波一座」と改め7月には有楽座に出演して[[丸の内]]に進出。[[渡辺篤]]、[[森繁久彌]]、[[山茶花究]]、三益愛子、徳山璉などが一座に加わる。『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』などの[[アチャラカ]]芝居が大当たりし、同時期の喜劇役者[[榎本健一]]と共に「'''エノケン・ロッパ'''」と並び称せられ人気を争った。『男の花道』『ロッパ歌の都に行』『ロッパの大久保彦左衛門』など映画にも多数出演する。喜劇役者の演技もさることながら『道修町』などの舞台や『頬白先生』『婦系図』などの映画作品でのシリアスな演技も定評があった。戦時中は検閲に悩まされたり空襲で自宅を焼かれるなどの苦難を乗り越え、『花咲く港』『歌と兵隊』などの舞台や映画出演、慰問公演などで活躍し人気を保った。一方で天下の暴君としても知られ、あんなに怖い役者はいなかったと後年評されている。その性格が災いしたこともあって、終戦後は一転して人気凋落。1949年の一座解散後は多額の借金を抱え、ラジオ・映画の出演で糊口をしのいだ。のちに持病の[[結核]]・[[糖尿病]]も悪化するなどの憂き目にあう。それでも榎本健一と舞台や映画での共演やアメリカ映画出演が持ちかけられたりして話題を集めるなど気を吐いた。


1954年社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)。病気と闘いながらも舞台活動を続けるが1960年11月大阪梅田コマ劇場の『お笑い忠臣蔵』出演中に倒れ、翌1961年1月死去。ロッパ死亡記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい最期であった。
1954年社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)。病気と闘いながらも舞台活動を続けるが1960年11月大阪梅田コマ劇場の『お笑い忠臣蔵』出演中に倒れ、翌1961年1月死去。ロッパ死亡記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい最期であった。


大の[[美食家]]・[[健啖家]]、[[読書家]]、そして[[日記]]魔としても知られる。死の直前まで綴られた日記は『古川ロッパ昭和日記』として近年出版され、日本喜劇史・日本昭和風俗史においての資料としても、また読み物としても大変興味深い。『昭和日記』中のロッパの食への飽くなき追求に関するエピソードは『ロッパの悲食記』としてまとめられている。華族に生まれたが金銭面では苦労し'''、「・・・貧乏貴族で、そのせいかケチでしたね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです。」'''(一座の俳優の証言)といわれるほどであった。
大の[[美食家]]・[[健啖家]]、[[読書家]]、そして[[日記]]魔としても知られる。死の直前まで綴られた日記は『古川ロッパ昭和日記』として近年出版され、日本喜劇史・日本昭和風俗史においての資料としても、また読み物としても大変興味深い。『昭和日記』中のロッパの食への飽くなき追求に関するエピソードは『[[ロッパの悲食記]]』としてまとめられている。華族に生まれたが金銭面では苦労し'''、「・・・貧乏貴族で、そのせいかケチでしたね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです。」'''(一座の俳優の証言)といわれるほどであった。
余談であるが、ロッパは、「声帯模写」「張り切る(ロッパ流に表記すると「ハリキル」)」「イカす」の語を生み出した。また、[[麻雀]]の[[満貫]]を8000点としたのもロッパである。
余談であるが、ロッパは、「声帯模写」「張り切る(ロッパ流に表記すると「ハリキル」)」「イカす」の語を生み出した。また、[[麻雀]]の[[満貫]]を8000点としたのもロッパである。



2007年9月9日 (日) 08:12時点における版

古川 ロッパふるかわ ろっぱ1903年8月13日-1961年1月16日)は、編集者エッセイスト日本戦前を代表するコメディアン古川緑波とも表記される。

本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。男爵加藤照麿の六男として生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は小学3年の頃に自らつけた筆名である。16歳の頃からキネマ旬報などの映画雑誌に投稿を始め、早稲田第一高等学院時代にキネマ旬報編集同人となる。早稲田大学英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社。

雑誌編集の傍ら、元来から定評のあった宴会での余興芸の延長上で、1926年に親交のあった活動弁士徳川夢声らと「ナヤマシ会」を結成し演芸活動を開始。声帯模写が好評を博した。『映画時代』の独力での経営に乗り出すが失敗に終わり親の遺産を失う。雑誌休刊後は東京日日新聞の嘱託として映画・レビュー評を書く。その後、菊池寛、小林一三の勧めで喜劇役者に転向、デビューは1932年1月兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』であった。このときは小林の好意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出と千両役者にちなんで千円祝儀にもらうなど破格の待遇をしてもらいながら散々な出来であった。そのような失敗を乗り越え1933年浅草で夢声らと劇団「笑(わらひ)の王国」を旗揚げ(ちなみに座付作家は後に『君の名は』の作者として知られる菊田一夫)。ここでも苦戦を強いられるが、喜劇俳優としての力を着実につけていく。

恰幅の良い体格にロイド眼鏡の鷹揚な丸顔がトレードマーク、華族出身のインテリらしい、品のある知的な芸風であったという。朗々とした美声でコミックソングを歌唱し、声帯模写の巧みさでも超一流であった(徳川夢声が体調不良でダウンした際、ラジオの生放送にロッパが代役として夢声の名で出演し、誰もロッパの声色と気付かなかったというエピソードがある。夢声本人が聴いて「自分が出ているのか」と思ったほどであった)。コミックソングの作品に、「ネクタイ屋の娘」という曲があるが、これは作詞が西条八十、作曲が古賀政男という、歌謡曲の大御所2人による作品である。舞台では漫談、声帯模写のほか、「ティペラリー」や「尻取り歌」「唄えば天国」などが十八番であった。また森永製菓の協賛で吹き込んだ「僕は天下の人気者」はわが国最初のコマーシャルソングである。喜劇俳優としてはチャップリン曽我廼家五郎を崇拝していた。

1935年5月東宝に引き抜かれ、劇団名も「古川緑波一座」と改め7月には有楽座に出演して丸の内に進出。渡辺篤森繁久彌山茶花究、三益愛子、徳山璉などが一座に加わる。『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』などのアチャラカ芝居が大当たりし、同時期の喜劇役者榎本健一と共に「エノケン・ロッパ」と並び称せられ人気を争った。『男の花道』『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの大久保彦左衛門』など映画にも多数出演する。喜劇役者の演技もさることながら『道修町』などの舞台や『頬白先生』『婦系図』などの映画作品でのシリアスな演技も定評があった。戦時中は検閲に悩まされたり空襲で自宅を焼かれるなどの苦難を乗り越え、『花咲く港』『歌と兵隊』などの舞台や映画出演、慰問公演などで活躍し人気を保った。一方で天下の暴君としても知られ、あんなに怖い役者はいなかったと後年評されている。その性格が災いしたこともあって、終戦後は一転して人気凋落。1949年の一座解散後は多額の借金を抱え、ラジオ・映画の出演で糊口をしのいだ。のちに持病の結核糖尿病も悪化するなどの憂き目にあう。それでも榎本健一と舞台や映画での共演やアメリカ映画出演が持ちかけられたりして話題を集めるなど気を吐いた。

1954年社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)。病気と闘いながらも舞台活動を続けるが1960年11月大阪梅田コマ劇場の『お笑い忠臣蔵』出演中に倒れ、翌1961年1月死去。ロッパ死亡記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい最期であった。

大の美食家健啖家読書家、そして日記魔としても知られる。死の直前まで綴られた日記は『古川ロッパ昭和日記』として近年出版され、日本喜劇史・日本昭和風俗史においての資料としても、また読み物としても大変興味深い。『昭和日記』中のロッパの食への飽くなき追求に関するエピソードは『ロッパの悲食記』としてまとめられている。華族に生まれたが金銭面では苦労し、「・・・貧乏貴族で、そのせいかケチでしたね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです。」(一座の俳優の証言)といわれるほどであった。 余談であるが、ロッパは、「声帯模写」「張り切る(ロッパ流に表記すると「ハリキル」)」「イカす」の語を生み出した。また、麻雀満貫を8000点としたのもロッパである。

実兄の一人に弁護士推理作家貴族院議員の浜尾四郎がいる。長男は演劇プロデューサー古川清(東宝所属、のちフリー。主な製作舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』・『レ・ミゼラブル』・『ミス・サイゴン』など)、次男は俳優であった古川ロック(時代劇の脇を固める俳優としてTV・舞台などで活躍。1997年死去)。

著書

参考資料

矢野誠一 『エノケン・ロッパの時代』岩波新書 571 2001年 岩波書店  ISBN 4-00-430751-1

関連項目