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「穢多」の版間の差分

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穢多と言う呼び名には、えたと元々呼ばれており、穢れが多い仕事をするので穢多と言う字をあてたと言う説など諸説がある。
穢多と言う呼び名には、えたと元々呼ばれており、穢れが多い仕事をするので穢多と言う字をあてたと言う説など諸説がある。


日本の穢れを忌む風潮に[[仏教]]の伝来と共に穢れ仕事ようになそれらの仕事を引き受ける職業が必要になた。穢多の原形は[[奈良時代]]にはすでに存在していたようで、中世の日本に穢多と言う言葉が既に見られる。穢多が行う仕事穢れ仕事であり、牛馬などの死体の処理、寺社清掃作業が主な仕事であった。
日本の穢れを忌む風潮に[[仏教]]の伝来が影響を与え、牛馬などの死体の処理、寺社の清掃作業などいった穢れ仕事が人々からわれるようになった。それらの仕事を引き受ける職業が必要になりこの身分が形成された。穢多の原形は[[奈良時代]]にはすでに存在していたようで、中世の日本に穢多と言う言葉が既に見られる。この身分の元になったの牛馬の死体の処理や皮革上納をしていた職能集団である。この集団は[[室町時代]]あたりから[[差別]]の対象にっていたのだ、その差別は緩やかであり、しかも[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[皮革]]上納が軍需産業(皮革は[[鎧]]や馬具の材料)であったことから保護もされた。


[[豊臣秀吉]]の天下統一以降の身分の流動性が無くなってくると、職業が固定化し江戸時代には、村はずれや川の側などに固めて居住させらるようになっていく。皮なめしなどの仕事が主であったため、始めは「かわた」とも呼ばれていたがやがて「えた」と言う卑称が定着化していく。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるためその臭いを嫌い離れた場所に住まわせられる傾向が有った。この傾向は中世ヨーロッパにおいても見られる。
[[豊臣秀吉]]の天下統一以降の身分の流動性が無くなってくると、職業が固定化し江戸時代には、村はずれや川の側などに固めて居住させらるようになっていく。皮なめしなどの仕事が主であったため、始めは「かわた」とも呼ばれていたがやがて「えた」と言う卑称が定着化していく。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるためその臭いを嫌い離れた場所に住まわせられる傾向が有った。この傾向は中世ヨーロッパにおいても見られる。

[[日本]]では[[仏教]]の影響から[[動物]]の殺害も穢れとする思想があったが、江戸幕府ではこの思想を利用して動物の皮をはいだり殺害したりする人間を下等な身分と位置づけ、えたとして固定し厳しい差別にさらしたのである。この差別は農民[[一揆]]対策が第一、第二が皮革の供給源を固定するのが目的であった。

町人(商人や職人)は、御家人株の売買などによって身分を変えることができたが、「えた」にはそのような行為はできなかった。住居は不衛生で集落に井戸がなかったり、河川敷の氾濫原に住まわされたりして疫病や水害の被害はまず彼らに来た。[[明治時代]]になって身分解放令が出たには出たが、「平民同様たるべき事」の文言に農民が怒って一揆を起こし、解放令が百万日の日延べになったなどといわれた。


[[明治]]時代になり、身分制度が廃止されたあとも偏見や差別は残り、[[被差別部落問題]]として今日にいたっても解決されていない問題である。
[[明治]]時代になり、身分制度が廃止されたあとも偏見や差別は残り、[[被差別部落問題]]として今日にいたっても解決されていない問題である。

「穢多」と同じように皮革や死体の処理をさせられる身分として、[[インド]]のアウト・[[カースト]]があげられる。こちらは業種がもっと多岐にわたっているうえ現在でも差別が続いており、アウト・カースト集落の襲撃なども起きている。


==関連項目==
==関連項目==
*[[部落問題]]
* [[非人]]
* [[部落問題]]
* [[被差別部落]]
* [[部落解放同盟|解同]]


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2005年2月13日 (日) 13:24時点における版

穢多えた)は、元々穢れの多い仕事をする職業の事を差し、江戸時代には士農工商に分類されない、最下層の身分の人たちのことを指していた。現在では差別用語に分類される。

穢多と言う呼び名には、えたと元々呼ばれており、穢れが多い仕事をするので穢多と言う字をあてたと言う説など諸説がある。

日本の穢れを忌む風潮に仏教の伝来が影響を与え、牛馬などの死体の処理、寺社の清掃作業などといった穢れ仕事が人々から嫌われるようになった。それらの仕事を引き受ける職業が必要になりこの身分が形成された。穢多の原形は奈良時代にはすでに存在していたようで、中世の日本に穢多と言う言葉が既に見られる。この身分の元になったのは斃牛馬の死体の処理や皮革の上納をしていた職能集団である。この集団は室町時代あたりから差別の対象になっていたのだが、その差別は緩やかであり、しかも戦国時代には皮革上納が軍需産業(皮革はや馬具の主材料)であったことから保護もされた。

豊臣秀吉の天下統一以降の身分の流動性が無くなってくると、職業が固定化し江戸時代には、村はずれや川の側などに固めて居住させらるようになっていく。皮なめしなどの仕事が主であったため、始めは「かわた」とも呼ばれていたがやがて「えた」と言う卑称が定着化していく。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるためその臭いを嫌い離れた場所に住まわせられる傾向が有った。この傾向は中世ヨーロッパにおいても見られる。

日本では仏教の影響から動物の殺害も穢れとする思想があったが、江戸幕府ではこの思想を利用して動物の皮をはいだり殺害したりする人間を下等な身分と位置づけ、えたとして固定し厳しい差別にさらしたのである。この差別は農民一揆対策が第一、第二が皮革の供給源を固定するのが目的であった。

町人(商人や職人)は、御家人株の売買などによって身分を変えることができたが、「えた」にはそのような行為はできなかった。住居は不衛生で集落に井戸がなかったり、河川敷の氾濫原に住まわされたりして疫病や水害の被害はまず彼らに来た。明治時代になって身分解放令が出たには出たが、「平民同様たるべき事」の文言に農民が怒って一揆を起こし、解放令が百万日の日延べになったなどといわれた。

明治時代になり、身分制度が廃止されたあとも偏見や差別は残り、被差別部落問題として今日にいたっても解決されていない問題である。

「穢多」と同じように皮革や死体の処理をさせられる身分として、インドのアウト・カーストがあげられる。こちらは業種がもっと多岐にわたっているうえ現在でも差別が続いており、アウト・カースト集落の襲撃なども起きている。

関連項目