「一色氏久」の版間の差分
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IPアドレスだけで、闇雲にリバースされるのはいかがなものでしょうか?一色氏の記述は、広く研究している者で、喜連川一色氏の記事も当然閲覧させていただいています。『喜連川 |
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4代[[鎌倉公方]][[足利持氏]]の生母は、この[[一色氏|一色家]]の娘であり、4代喜連川藩主[[喜連川昭氏]]の生母も、この'''一色氏久'''の孫娘であるが、嫡子の一色下野守刑部と孫の一色左京は、[[慶安]]元年([[1648年]])に起きた[[喜連川騒動]]に巻き込まれ、その後の動向は不明である。 |
4代[[鎌倉公方]][[足利持氏]]の生母は、この[[一色氏|一色家]]の娘であり、4代喜連川藩主[[喜連川昭氏]]の生母も、この'''一色氏久'''の孫娘であるが、嫡子の一色下野守刑部と孫の一色左京は、[[慶安]]元年([[1648年]])に起きた[[喜連川騒動]]に巻き込まれ、その後の動向は不明である。 |
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一説には、[[喜連川藩]]における特殊事情である、[[古河公方]]家臣と[[小弓公方]]家臣の対立が事件の根底にあったといわれる。 |
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すなわち、彼らが本来の[[源氏]]の棟梁となる[[喜連川昭氏]](7歳)と祖父・伯父である一色刑部・左京親子を倒幕軍の神輿として担ぐならば、他の外様大名家さえも追従し、徳川幕府倒壊の危機となり得たといえる。 |
すなわち、彼らが本来の[[源氏]]の棟梁となる[[喜連川昭氏]](7歳)と祖父・伯父である一色刑部・左京親子を倒幕軍の神輿として担ぐならば、他の外様大名家さえも追従し、徳川幕府倒壊の危機となり得たといえる。 |
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よって、幕府は[[足利家]]嫡流となる[[喜連川藩|喜連川家]]の安泰と、さらに徳川幕府安泰の策として、4代[[喜連川昭氏]](7歳)の祖父で叔父であり、[[足利将軍家]]の流れでもある一色刑部・左京親子を[[吉良家]]・[[今川家]]・[[品川家]]・他の[[一色氏|一色家]]などと同様に[[足利家]]庶家として徳川幕府の旗本として、幕府体制内に取り込んだともいわれる。 |
よって、幕府は[[足利家]]嫡流となる[[喜連川藩|喜連川家]]の安泰と、さらに徳川幕府安泰の策として、4代[[喜連川昭氏]](7歳)の祖父で叔父であり、[[足利将軍家]]の流れでもある一色刑部・左京親子を[[吉良家]]・[[今川家]]・[[品川家]]・他の[[一色氏|一色家]]などと同様に[[足利家]]庶家として徳川幕府の旗本として、幕府体制内に取り込んだともいわれる。 |
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『及聞秘録』によると「喜連川左兵衛督乱心の事 家老三人遠流の事」と題して記録が残されている。その内容は、以下の通りである。 |
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喜連川左兵衛督尊信とは関東管領[[足利基氏|足利左馬頭基氏]]の末孫である。足利家は代々衰え将軍[[足利義輝]]卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰え、この尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで喜連川殿といわれていた。 |
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承慶年間、喜連川左兵衛督尊信は「狂乱の病」にかかったので一色刑部・二階堂主殿・柴田某の三家老は互いに合心して尊信を座敷牢に「押し籠め」とした。幕府には、尊信は「病床中」につき長く参勤できないが、三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っていると報告していた。 |
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ところがその後、尊信の近習として仕えていた高四郎左衛門と梶原孫次郎と云う者がおり、この両人に不届きがあったので三家老は合議の上、この両人を追放した。 |
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その後、この両人は、今度(このたび)われらを追放したのは、三人の家老の所為であるとして内密に江戸に来て一通目安を公儀に提出(差出)した。目安の大意は「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に、君主尊信を「狂乱の病」と偽り座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置きを専横しており、いわれのない私ども両人を追放したので公儀において詮議してほしい。」というものであった。 |
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早速、幕府目付衆が調査のため両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ、喜連川尊信は何を思ってか座敷牢から抜け出し行方不明になってしまったので、三家老は驚き行方を聞きまわり、尊信をやっと探し出し再度押し籠め、厳しく番人に守らせた。 |
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幕府の目付衆は着くなり、尊信を屋形に移し面談しようとしたが、その日、尊信は不出来であり座敷牢から出すことが出来ないので目付衆は別れて面談した。そして、「尊信の狂乱が紛れないこと」を確認し江戸に立ち帰り公儀に報告された。 |
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後日、三人の家老は評定所に呼ばれ、高四郎左衛門と梶原孫次郎の訴えについて御目付が両名(高、梶原)を吟味したところ「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない」ことを認めた。 |
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お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し、尊信の狂乱を幕府に隠し置いていたことは不届きである。」と思い召くゆえ、三人共(一色、二階堂、柴田)は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供は、それぞれ諸大名預かりとした。 |
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*一色刑部の長男相木与右衛門(妾腹)は[[摂津国|摂津]][[尼崎城]]主[[青山幸利|青山大膳亮]](幸利、譜代)御預かり |
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* 同じく次男一色左京(嫡子)と三男一色八郎は[[泉州]][[岸和田城]]主[[岡部宣勝|岡部美濃守]](宣勝、譜代)御預かり |
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*二階堂主殿の嫡子二階堂某は[[陸奥国|陸奥]][[白川城]]主[[本多忠義|本多能登守]](忠義、譜代)御預かり(注)実は、[[松平忠次|榊原式部大輔忠次]] |
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*柴田某の嫡子柴田某は [[越後国|越後]][[新発田城]]主[[溝口宣直|溝口出雲守]](宣直、外様)御預かり |
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三人の家老達は、伊豆大島に舟着し、暫く居住していたが何れも老人であり、程なく共に病死した。年を経て、大猷院様([[徳川家光]])の十三回忌の時、大嶋の流人の多くが赦免になった。三人共(三家老)は、すでに病死であったので、その儀は出来なかったが、三人の子供を赦免し、それぞれ主取とした。 |
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中でも、一色左京については、名高き者の子であるので[[水野忠善|水野監物忠善]]より百人扶持を賜り、客分扱いで仰呼された。この一色氏というのは、[[清和天皇]]の後胤で高家の一人といえる。相州[[後北条家|北条家]]の幕下に属していたので、天正十八年の[[豊臣秀吉]]公が北条父子を攻め滅ぼした時、一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていたところ、関八州は家康公の所領となったので、多くの関東在住の名士は皆、家康公に仕えた。 |
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この時、一色(氏久)を累代の高家として、家康公から召誘いがあったが「すでに年老いており、馬の乗り降りもやっとの身であるので」と丁重に辞退した。しかし、その後、秀吉公に見目しようとした時には、すでに秀吉公は体調が悪く仕官は叶わず、彼の子孫は喜連川の家臣として微小の身であった。 |
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その後、一色左京には男子がなく断絶したといわれる。或説には、兄の妾腹であった相木与右衛門は、後御富家へ仕官したといわれる。(以上要約) |
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また、一色左京・八郎兄弟を事件より約十四~十五年間預った岡部家、その後一色左京を「客分扱い」で仰呼した水野家の二大名家は、いずれも[[徳川家康]]の生母[[於大の方]]を通じた、徳川将軍家の親族となる特殊な譜代大名であり、特に岡部家は[[桶狭間の戦い]]まで足利家・一色家親族である[[今川義元]]の家臣であったが、この敗戦を期に[[松平元康]](後の徳川家康)の幕下となった家でもあり徳川将軍家と幕府の配慮も伺える。 |
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根岸丹右衛門の墓は、栃木県さくら市喜連川の浄土宗欣浄院専念寺内にあり、兄一色刑部の娘で3代喜連川尊信の側室、そして4代[[喜連川昭氏]]の生母、俗名「欣浄院殿深誉妙心大姉」の墓のすぐ近くに喜連川騒動事件後の3人の家老の一人、黒駒七左衛門の墓と並んである。 |
根岸丹右衛門の墓は、栃木県さくら市喜連川の浄土宗欣浄院専念寺内にあり、兄一色刑部の娘で3代喜連川尊信の側室、そして4代[[喜連川昭氏]]の生母、俗名「欣浄院殿深誉妙心大姉」の墓のすぐ近くに喜連川騒動事件後の3人の家老の一人、黒駒七左衛門の墓と並んである。 |
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同じく、一色刑部の実弟、 |
同じく、一色刑部の実弟、山野金右衛門は[[埼玉県]]幸手に移住し、幕府大身旗本となっていた親族の[[一色直朝|幸手一色家]]に仕えた。 |
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== 参考文献 == |
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* 『及聞秘録』筑波大学中央図書館所蔵 |
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* 『喜連川文書』栃木県立博物館調査研究報告書 平成5年3月 |
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* 『古河公方足利氏の研究』佐藤博信1989年 |
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* 『喜連川町史』近世史料編の収録文書『小林家代々日記』 |
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2007年10月3日 (水) 16:00時点における版
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一色 氏久(いっしき うじひさ、生没年未詳)は戦国時代・安土桃山時代の人物。官位は右衛門佐。
鎌倉公方からの譜代の家臣。通称源三郎。古河公方家御一家として足利義氏のころから古河公方家の実質的政務を担当しており、「古河御所様各御奉行」・「古河御奉公人」などとよばれ、足利氏姫の時は、「御連判衆」筆頭として後北条氏などとの対外的な折衝に当たったとされる。
豊臣秀吉により小弓御所の足利頼純の嫡子足利国朝と古河公方家当主、足利氏姫の婚姻をもって喜連川家4800石が起きた時の初代筆頭家老。
足利尊氏の4代前、足利泰氏の子である足利公深を家祖とする一色氏の初代九州探題を務めた一色範氏・一色直氏親子の嫡流で早くから鎌倉公方家に仕え、関東一色氏といわれる一色長兼の養子となったといわれる、足利義嗣の次男である足利直明(一色直明)の嫡流であり、墓所は主家と同じ栃木県さくら市龍光寺内の足利家墓所の正門前に在する。
4代鎌倉公方足利持氏の生母は、この一色家の娘であり、4代喜連川藩主喜連川昭氏の生母も、この一色氏久の孫娘であるが、嫡子の一色下野守刑部と孫の一色左京は、慶安元年(1648年)に起きた喜連川騒動に巻き込まれ、その後の動向は不明である。
また、この時期は徳川家康から徳川家光の時代まで行われた徳川幕府確立の施策として、多くの外様大名家の改易・取り潰しを行い、幕府権力の増強に成功したが、日本国内には40万~60万人ともいわれる徳川幕府への不平浪人が存在することとなり、大きな社会問題となっていた。
すなわち、彼らが本来の源氏の棟梁となる喜連川昭氏(7歳)と祖父・伯父である一色刑部・左京親子を倒幕軍の神輿として担ぐならば、他の外様大名家さえも追従し、徳川幕府倒壊の危機となり得たといえる。
よって、幕府は足利家嫡流となる喜連川家の安泰と、さらに徳川幕府安泰の策として、4代喜連川昭氏(7歳)の祖父で叔父であり、足利将軍家の流れでもある一色刑部・左京親子を吉良家・今川家・品川家・他の一色家などと同様に足利家庶家として徳川幕府の旗本として、幕府体制内に取り込んだともいわれる。
『及聞秘録』によると「喜連川左兵衛督乱心の事 家老三人遠流の事」と題して記録が残されている。その内容は、以下の通りである。
喜連川左兵衛督尊信とは関東管領足利左馬頭基氏の末孫である。足利家は代々衰え将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰え、この尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで喜連川殿といわれていた。
承慶年間、喜連川左兵衛督尊信は「狂乱の病」にかかったので一色刑部・二階堂主殿・柴田某の三家老は互いに合心して尊信を座敷牢に「押し籠め」とした。幕府には、尊信は「病床中」につき長く参勤できないが、三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っていると報告していた。
ところがその後、尊信の近習として仕えていた高四郎左衛門と梶原孫次郎と云う者がおり、この両人に不届きがあったので三家老は合議の上、この両人を追放した。
その後、この両人は、今度(このたび)われらを追放したのは、三人の家老の所為であるとして内密に江戸に来て一通目安を公儀に提出(差出)した。目安の大意は「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に、君主尊信を「狂乱の病」と偽り座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置きを専横しており、いわれのない私ども両人を追放したので公儀において詮議してほしい。」というものであった。
早速、幕府目付衆が調査のため両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ、喜連川尊信は何を思ってか座敷牢から抜け出し行方不明になってしまったので、三家老は驚き行方を聞きまわり、尊信をやっと探し出し再度押し籠め、厳しく番人に守らせた。
幕府の目付衆は着くなり、尊信を屋形に移し面談しようとしたが、その日、尊信は不出来であり座敷牢から出すことが出来ないので目付衆は別れて面談した。そして、「尊信の狂乱が紛れないこと」を確認し江戸に立ち帰り公儀に報告された。
後日、三人の家老は評定所に呼ばれ、高四郎左衛門と梶原孫次郎の訴えについて御目付が両名(高、梶原)を吟味したところ「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない」ことを認めた。
お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し、尊信の狂乱を幕府に隠し置いていたことは不届きである。」と思い召くゆえ、三人共(一色、二階堂、柴田)は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供は、それぞれ諸大名預かりとした。
- 一色刑部の長男相木与右衛門(妾腹)は摂津尼崎城主青山大膳亮(幸利、譜代)御預かり
- 同じく次男一色左京(嫡子)と三男一色八郎は泉州岸和田城主岡部美濃守(宣勝、譜代)御預かり
- 二階堂主殿の嫡子二階堂某は陸奥白川城主本多能登守(忠義、譜代)御預かり(注)実は、榊原式部大輔忠次
- 柴田某の嫡子柴田某は 越後新発田城主溝口出雲守(宣直、外様)御預かり
三人の家老達は、伊豆大島に舟着し、暫く居住していたが何れも老人であり、程なく共に病死した。年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌の時、大嶋の流人の多くが赦免になった。三人共(三家老)は、すでに病死であったので、その儀は出来なかったが、三人の子供を赦免し、それぞれ主取とした。
中でも、一色左京については、名高き者の子であるので水野監物忠善より百人扶持を賜り、客分扱いで仰呼された。この一色氏というのは、清和天皇の後胤で高家の一人といえる。相州北条家の幕下に属していたので、天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時、一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていたところ、関八州は家康公の所領となったので、多くの関東在住の名士は皆、家康公に仕えた。
この時、一色(氏久)を累代の高家として、家康公から召誘いがあったが「すでに年老いており、馬の乗り降りもやっとの身であるので」と丁重に辞退した。しかし、その後、秀吉公に見目しようとした時には、すでに秀吉公は体調が悪く仕官は叶わず、彼の子孫は喜連川の家臣として微小の身であった。
その後、一色左京には男子がなく断絶したといわれる。或説には、兄の妾腹であった相木与右衛門は、後御富家へ仕官したといわれる。(以上要約)
また、一色左京・八郎兄弟を事件より約十四~十五年間預った岡部家、その後一色左京を「客分扱い」で仰呼した水野家の二大名家は、いずれも徳川家康の生母於大の方を通じた、徳川将軍家の親族となる特殊な譜代大名であり、特に岡部家は桶狭間の戦いまで足利家・一色家親族である今川義元の家臣であったが、この敗戦を期に松平元康(後の徳川家康)の幕下となった家でもあり徳川将軍家と幕府の配慮も伺える。
また、一色刑部の実弟、山本五郎左衛門官作は事件により浪人し氏家郷根岸に住み、根岸の姓を名乗り、その後帰参し隠居した喜連川尊信と4代喜連川昭氏に仕え根岸連談を名乗り喜連川氏信の近習となる。その後、喜連川家の安泰を望んでか、兄一色下野守刑部の家老屋敷をもって宿屋を始め商人となり、根岸丹右衛門と改名した。(小林家代々日記より)
藩主昭氏の親族でありながら、奥州街道にあり東北の大名行列の宿場となる喜連川の地で喜連川藩お抱えの宿屋を営むことは、喜連川藩士であることより実質裕福であった。
根岸丹右衛門の墓は、栃木県さくら市喜連川の浄土宗欣浄院専念寺内にあり、兄一色刑部の娘で3代喜連川尊信の側室、そして4代喜連川昭氏の生母、俗名「欣浄院殿深誉妙心大姉」の墓のすぐ近くに喜連川騒動事件後の3人の家老の一人、黒駒七左衛門の墓と並んである。
同じく、一色刑部の実弟、山野金右衛門は埼玉県幸手に移住し、幕府大身旗本となっていた親族の幸手一色家に仕えた。
参考文献
- 『及聞秘録』筑波大学中央図書館所蔵
- 『喜連川文書』栃木県立博物館調査研究報告書 平成5年3月
- 『古河公方足利氏の研究』佐藤博信1989年
- 『喜連川町史』近世史料編の収録文書『小林家代々日記』