コンテンツにスキップ

「曹叡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新項目の作成。記述の移動。リンク先で言及のある記述、記事内で重複する記述の削除。記事中の呼称を統一
m 項目作り忘れ
72行目: 72行目:
=====史書家による曹叡評=====
=====史書家による曹叡評=====
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の編者である[[陳寿]]の評。
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の編者である[[陳寿]]の評。
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」<ref>原文沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎<br>
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」<ref>原文沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎<br>
※原文における■にあたる字は、律の行人偏のない「聿」であり、発音はイチ・イツ</ref>
※原文における■にあたる字は、律の行人偏のない「聿」であり、発音はイチ・イツ</ref>


同時代の歴史書を書いた[[孫盛]]の評。
同時代の歴史書を書いた[[孫盛]]の評。
「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、家を継ぐべき嫡男を作ろうとせず<ref>皇族を冷遇して藩屏の役割を削いだことを指す、との解釈もある</ref>、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」<ref>原文優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫</ref>
「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、家を継ぐべき嫡男を作ろうとせず<ref>皇族を冷遇して藩屏の役割を削いだことを指す、との解釈もある</ref>、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」<ref>原文優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫</ref>


== 血縁 ==
== 血縁 ==
101行目: 101行目:
(従弟の[[曹楷]]の子という)
(従弟の[[曹楷]]の子という)


== 脚注 ==
<references />
<references />



2007年10月13日 (土) 01:44時点における版

{{{名}}}

曹叡(そう えい 205年?- 239年1月1日 在位226年 - 239年[1])は元仲三国時代の第二代皇帝文帝曹丕)の長男。生母は甄氏明帝廟号烈祖

概要

生涯

220年、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、222年には平原王に封ぜられた。

226年、父の文帝・曹丕が病床で重体に陥ってから皇太子に立てられた[2]。同年5月に曹丕が亡くなると、皇位を受け継ぎ、即位した。あわせて曹冏を皇太子に立てた。

同年八月、孫権が自ら江夏を攻めると、江夏太守の文聘の援軍に荀禹を派遣し、別働隊の諸葛瑾と張覇に対しては司馬懿を襄陽に向かわせて、それぞれ防衛に成功する。

227年春、麹英が西平で反乱を起こすと、郝昭らを派遣し、鎮圧の任に当たらせた。同年冬、新城太守の孟達諸葛亮と内通した事を知ると、司馬懿をその鎮圧の任に当たらせ、双方とも成功させた。

228、諸葛亮によって、以後五度にわたる侵攻(北伐)が開始されると、皇族の曹真、司馬懿や張郃など曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。蜀に呼応するようにして行われたの侵攻に対しても、自ら出陣してこれを防ぎ、親征においても曹丕以上の戦果を上げた。

238年遼東公孫淵王を自称し、魏に対する謀反を起こすと、曹叡は群臣の反対を押し切って征討を決行した。司馬懿の判断を全面的に信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた結果、反乱の早期鎮圧に成功した。魏国が蜀漢・呉と当たる際、後顧の憂いとなっていた遼東公孫氏を取り除いた。

遼東制圧が完了した前後、首都洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、曹芳[3]の後見人を誰にするかを模索。はじめ、曹宇曹肇夏侯献秦朗[4]ら宗室で固めようとするが、彼らと不仲であった劉放孫資ら側近の反対にあって心変わりする。司馬懿・曹爽らを後見人に改めて立てると、程なく亡くなり、高平陵に葬られた。

36歳の若さであった。

その後、魏は幼帝が続き、王朝は衰え始める。

人物・事績

容貌

曹叡は、生まれつき美貌の持ち主で、髪が長く床に届くほどであったという。

軍事

『魏書』明帝紀などを紐解くと、曹叡は軍事に対して幾度も言及している。その内容は戦況と先の展開を的確に把握しており、以下のような場面において発揮されている。

226年、孫権による江夏親征の際、「孫権の狙いは奇襲である。文聘が江夏を固守しているため、戦線は既にこう着状態に陥っている」と推測し、これを前提に「援軍が有ると見せかけさえすれば、援軍は少数でも孫権は退くだろう」と読む。その読み通りに、孫権は撤退した。

227年、司馬懿を派遣し、孟達の内乱を阻止した。このことは、蜀側にとっては新城からの侵攻ルート消滅を意味し、魏国側にとっては蜀漢による挟撃を防いだ事を意味する。これは、蜀漢の第一次北伐における、魏国の街亭での大勝利に間接的ながらも貢献した。

呉の侵攻に対して親征をもって対抗し、孫権の濡須攻撃をしばしば防いだ。北伐については曹真を充て、遼東遠征については群臣の反対を押し切って司馬懿を充て、不測の事態が起きた際には使者を送り、求められれば速やかに勅を出すなどしている。

内政

234年、諸葛亮が病没すると、連年のように行われていた蜀漢の北伐は沈静化した。呉も同盟国である蜀漢の内情を考慮し、外征を一時中断した。こうして周囲の外圧が減少に転じると、曹叡は内政の手腕を問われるようになる。

まずは、農閑期の農民に収入を与えるための公共事業として、数度に渡って宮殿の造営などを行った。この政策は、農閑期をまたいで農繁期にも実行されたため、農民は潤ったものの、農地は荒れ、生産力を低下させる結果となった。

次に、兵力の恒常的確保のため、兵士の家同士の結婚を奨励。官民(兵士以外の家)に嫁いだ既婚者は、召し上げて未婚の兵士と再婚させるなどした。この政策は、「召し上げる際には奴隷を身代わりに出しても良い」「召し上げた既婚者のうち容姿の良い者については後宮に入れる」などの附則が仇となり、国内での人身売買を横行させてしまう。金持ちは妻の身代わりとなる奴隷を買い求め、貧乏人は自らの妻女を金銭で金持ちに差し出したのである。

これらの政策について、楊阜高堂隆らは改めるよう懸命に諫めた[5]

人事

人物登用については、司馬懿・曹真・陳羣・劉放・孫資など、軍事・政治の大臣に対して全面的な信頼を寄せた。
また、父の曹丕と異なり、諫言した人物[6]、気に入らない人物[7]だからといって、それを処刑することはしなかった。

同時代人の曹叡評

劉曄の評では、初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられて「秦始皇漢武の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と答えている。

史書家による曹叡評

三国志』の編者である陳寿の評。 「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」[8]

同時代の歴史書を書いた孫盛の評。 「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、家を継ぐべき嫡男を作ろうとせず[9]、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」[10]

血縁

兄弟

  • 東郷公主(同母妹だが早世した)

后妃

実子
  • 曹冏(清河王)
  • 曹穆(繁陽王)
  • 曹殷(安平哀王)
  • 曹淑(平原懿公主)

(いずれも早世)

  • 斉公主(明帝の長女。李韜夫人)
養子

(従弟の曹楷の子という)

脚注

  1. ^ 生年については異説がある
  2. ^ 即位以前、曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという
  3. ^ 曹芳は養子。曹叡は全ての実子に先立たれてしまっていた。娘を葬る際の祭礼の様式が限度を超えていると臣下から諫言されても強行したという逸話がある
  4. ^ 『献帝春秋』によると、秦朗は曹操の秦夫人の連れ子であり、実父は呂布の将秦宜禄。『魏略』によると、宮中で曹操の子等と兄弟同然に育てられ、曹叡と非常に親しかったという
  5. ^ 曹叡の治世に生きた廷臣たちの伝には、必ず一度はその所作を諫める上奏が記載されている。もっとも、曹叡は諌められれば、ほぼ必ずその言葉を聞き入れ、行いを改めたという
  6. ^ 楊阜や高堂隆は、人事についてもしばしば直言を以て曹叡を諫め、ために勑勘を被ったことも多かった
  7. ^ 曹叡の人物観を示す逸話が、『魏志』廬毓伝に見える。
    当時、夏侯玄、彼の友人である諸葛誕、劉放の子劉煕、孫資の子孫密らが人物評価を行い、四聡八達(人の明な人物と人の人)と互いに格付けをしあい、当時の人々から才人との声望を得ていた(つまり、人々からの称賛が先に有って格付けが行われたのではない。まず先に内輪で内々に格付けを行い、それを自分以外の面子に伝聞形で宣伝させる。前段の工作で自作自演ではないとの印象を与え、箔付けによって自らの声望を高めんとしたのである)。
    曹叡はこれを軽薄だとして嫌い、彼らを即座に全員免職にし、官吏となる資格を剥奪した。この時、曹叡が廬毓に対して言った言葉が「画餅」であるが、その用い方には「世間で評される名声は上辺の評価に過ぎず、実を伴わないことが多すぎる」というニュアンスがあり、いたずらに名士才子を褒めそやす風潮を嫌悪する心情が見える。
    これに対して、廬毓は「名声は、特別な人材を招くには不適でも、普通の人を集めるには適当でしょう。普通の人間とは、勉学して生来の人格を矯正し、そこから名を成すものです。臣が人を推薦するとき、最初はやはり人物の評判に注目し、普通の人を招くのです」と答えている。
    結局、曹叡は一度下した処分を覆す事は無く、終生彼等を登用しなかった。
  8. ^ 原文「沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎」
    ※原文における■にあたる字は、律の行人偏のない「聿」であり、発音はイチ・イツ
  9. ^ 皇族を冷遇して藩屏の役割を削いだことを指す、との解釈もある
  10. ^ 原文「優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫」
先代
文帝
皇帝
第2代:226年 - 239年
次代
斉王