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「ペニー・ハーダウェイ」の版間の差分

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2年生になると成績が向上しチームへの参加が許された。ハーダウェイはチームを代表する選手として活躍し、シーズン後にはオリンピックに出場する初代[[ドリームチーム]]の練習相手として組まれた学生選抜に選ばれた。ハーダウェイ同様長身のポイントガードだった[[マジック・ジョンソン]]は、「鏡を見ているようだ」とハーダウェイを評した。3年生の時には平均22得点、8リバウンド、6アシストを越える成績を残し、プロ入りを決意した。
2年生になると成績が向上しチームへの参加が許された。ハーダウェイはチームを代表する選手として活躍し、シーズン後にはオリンピックに出場する初代[[ドリームチーム]]の練習相手として組まれた学生選抜に選ばれた。ハーダウェイ同様長身のポイントガードだった[[マジック・ジョンソン]]は、「鏡を見ているようだ」とハーダウェイを評した。3年生の時には平均22得点、8リバウンド、6アシストを越える成績を残し、プロ入りを決意した。
== NBAでのキャリア ==
== NBAでのキャリア ==
'''オーランド・マジック時代'''
''オーランド・マジック時代''
*ハーダウェイがプロ入りする[[1993年]]には、[[オーランド・マジック]]がドラフト1位指名権を持っていた。マジックは[[クリス・ウェバー]]を指名し、[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]が3位でハーダウェイを指名、両者はドラフト当日中にトレードされ、ハーダウェイはマジックに入団した。以後ハーダウェイは、前シーズンにマジックに1位指名されていた[[シャキール・オニール]]とともにチームの中核になる。
*ハーダウェイがプロ入りする[[1993年]]には、[[オーランド・マジック]]がドラフト1位指名権を持っていた。マジックは[[クリス・ウェバー]]を指名し、[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]が3位でハーダウェイを指名、両者はドラフト当日中にトレードされ、ハーダウェイはマジックに入団した。以後ハーダウェイは、前シーズンにマジックに1位指名されていた[[シャキール・オニール]]とともにチームの中核になる。
*1994 [[スコッティ・ピッペン|pippen]] all star classicで[[マイケル・ジョーダン]]と組み、52得点を記録し、ジョーダンを再びNBAに呼び戻すきっかけとなった。<!-- 真偽不明? -->
*1994 [[スコッティ・ピッペン|pippen]] all star classicで[[マイケル・ジョーダン]]と組み、52得点を記録し、ジョーダンを再びNBAに呼び戻すきっかけとなった。<!-- 真偽不明? -->
*1993-94シーズン、シューティングガードで起用されることも多かった。オーランドのファンは、ウェバーがチームに加入することを期待していたためハーダウェイには冷たかった。ハーダウェイの活躍により徐々にファンからも実力を認められるようになる。新人王はウェバーが獲得する。オールルーキーファーストチーム(新人のうち優れた5人の選手)に選ばれた。プレイオフ1回戦で[[インディアナ・ペイサーズ]]にスウィープする
*1993-94シーズン、シューティングガードで起用されることも多かった。オーランドのファンは、ウェバーがチームに加入することを期待していたためハーダウェイには冷たかった。ハーダウェイの活躍により徐々にファンからも実力を認められるようになる。新人王はウェバーが獲得する。オールルーキーファーストチーム(新人のうち優れた5人の選手)に選ばれた。プレイオフ1回戦で[[インディアナ・ペイサーズ]]に3連敗し敗退
*1994-95シーズンは、ポイントガードとして定着する。チームは57勝25敗。オールNBAファーストチーム(リーグ中の優秀な5人の選手)の一人に選出された。2年目のシーズンから4年間連続でオールスター戦の先発選手にも選ばれ、ハーダウェイはリーグを代表する選手の一人になる。プレイオフ2回戦で現役に復帰した[[マイケル・ジョーダン]]率いる[[シカゴ・ブルズ]]に勝利。[[NBAファイナル]]に勝ち進んだ。若手が中心で創設6年目のチームとしては快挙だったが、マジックは[[ヒューストン・ロケッツ]]に敗れた。
*1994-95シーズンは、ポイントガードとして定着する。チームは57勝25敗。オールNBAファーストチーム(リーグ中の優秀な5人の選手)の一人に選出された。2年目のシーズンから4年間連続でオールスター戦の先発選手にも選ばれ、ハーダウェイはリーグを代表する選手の一人になる。プレイオフ2回戦で現役に復帰した[[マイケル・ジョーダン]]率いる[[シカゴ・ブルズ]]に勝利。[[NBAファイナル]]に勝ち進んだ。若手が中心で創設6年目のチームとしては快挙だったが、マジックは[[ヒューストン・ロケッツ]]に敗れた。
*翌1995-96シーズンは、開幕前にオニールが怪我をして欠場しチームの戦力は落ちたが、ハーダウェイの活躍でチームの勝率は良かった。オールNBAファーストチームに選出され、チームもリーグ屈指の60勝22敗という成績だったが、プレイオフでは[[シカゴ・ブルズ]]に敗退。このシーズンを最後にオニールが[[ロサンゼルス・レイカーズ]]に移籍したため、ハーダウェイがリーダーとしてチームを率いることになった。
*翌1995-96シーズンは、開幕前にオニールが怪我をして欠場しチームの戦力は落ちたが、ハーダウェイの活躍でチームの勝率は良かった。オールNBAファーストチームに選出され、チームもリーグ屈指の60勝22敗という成績だったが、プレイオフでは[[シカゴ・ブルズ]]に敗退。このシーズンを最後にオニールが[[ロサンゼルス・レイカーズ]]に移籍したため、ハーダウェイがリーダーとしてチームを率いることになった。
*翌1996-97シーズンの開幕戦で、ハーダウェイらオーランド・マジックは日本を訪れた。オニールが移籍し、またハーダウェイ自身も膝の怪我のため23試合欠場したためマジックは苦戦するがプレイオフに出場し1回戦の[[マイアミ・ヒート]]相手に平均31.0得点と活躍するも敗退。
*翌1996-97シーズンの開幕戦で、ハーダウェイらオーランド・マジックは日本を訪れた。オニールが移籍し、またハーダウェイ自身も膝の怪我のため23試合欠場したためマジックは苦戦するがプレイオフに出場し1回戦の[[マイアミ・ヒート]]相手に平均31.0得点と活躍するも敗退。
*翌1997-98シーズンも同じく膝の怪我で出場した試合は19試合に留まった。チームもプレイオフに出場できなかった。
*翌1997-98シーズンも同じく膝の怪我で出場した試合は19試合に留まった。チームもプレイオフに出場できなかった。
*以降ハーダウェイの個人成績は怪我をする前の水準に戻ることはなく、ハーダウェイはオーランド・マジックの観客にブーイングされることもあった。1998-99シーズンは33勝17敗と勝ち越したもののプレイオフでは1回戦で敗退し、ハーダウェイはトレードを志願し[[フェニックス・サンズ]]に移籍した。ジェイソン・キッドはハーダウェイとのコンビの期待感から'''バックコート2000'''と呼んだ。
*以降ハーダウェイの個人成績は怪我をする前の水準に戻ることはなく、ハーダウェイはオーランド・マジックの観客にブーイングされることもあった。1998-99シーズンは33勝17敗と勝ち越したもののプレイオフでは1回戦で敗退し、ハーダウェイはトレードを志願し[[フェニックス・サンズ]]に移籍した。ジェイソン・キッドはハーダウェイとのコンビの期待感から'''バックコート2000'''と呼んだ。
'''フェニックス・サンズ時代'''
''フェニックス・サンズ時代''
*1999-2000シーズンは、移籍先のフェニックスで[[ジェイソン・キッド]]が先発のポイントガードだったため、ハーダウェイは[[シューティングガード]]としてプレイ。平均得点16.9、リバウンドとアシストは5以上とまずまずの成績だった。プレイオフではチーム最多となる平均20,3得点と活躍する。1回戦で前年優勝の[[サンアントニオ・スパーズ]]に勝利、2回戦の[[ロサンゼルス・レイカーズ]]に敗退する。
*1999-2000シーズンは、移籍先のフェニックスで[[ジェイソン・キッド]]が先発のポイントガードだったため、ハーダウェイは[[シューティングガード]]としてプレイ。平均得点16.9、リバウンドとアシストは5以上とまずまずの成績だった。プレイオフではチーム最多となる平均20,3得点と活躍する。1回戦で前年優勝の[[サンアントニオ・スパーズ]]に勝利、2回戦の[[ロサンゼルス・レイカーズ]]に敗退する。
*翌2000-01シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合の出場のみ。キッドの活躍でチームの成績はよかった。
*翌2000-01シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合の出場のみ。キッドの活躍でチームの成績はよかった。
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*翌2002-03シーズンの出場試合は58試合、チームも若い[[ジョー・ジョンソン]]を重視しハーダウェイはチームの構想から外れていく。
*翌2002-03シーズンの出場試合は58試合、チームも若い[[ジョー・ジョンソン]]を重視しハーダウェイはチームの構想から外れていく。
*翌2003-04シーズン途中に[[ニューヨーク・ニックス]]へトレードされた。ハーダウェイが先発する試合は少なかった。
*翌2003-04シーズン途中に[[ニューヨーク・ニックス]]へトレードされた。ハーダウェイが先発する試合は少なかった。
'''ニューヨーク・ニックス時代'''
''ニューヨーク・ニックス時代''
*2003-04シーズン途中から加入、ベンチから起用されることが多かった。プレイオフ1回戦でキッド所属の[[ニュージャージー・ネッツ]]に[[スウィープ]]するも平均16,5点と活躍する。
*2003-04シーズン途中から加入、ベンチから起用されることが多かった。プレイオフ1回戦でキッド所属の[[ニュージャージー・ネッツ]]に敗退するも平均16,5点と活躍する。
*翌2004-05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。
*翌2004-05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。
*翌2005-06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、その後はどのチームにも所属していない。
*翌2005-06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、その後はどのチームにも所属していない。

2007年10月15日 (月) 18:49時点における版

オリンピック
男子 バスケットボール
1996 バスケットボール

アンファニー・ハーダウェイAnfernee Deon Hardaway, 1971年7月18日 - )はアメリカ合衆国バスケットボール選手で、NBAオーランド・マジックフェニックス・サンズニューヨーク・ニックスでプレーし、現在はマイアミ・ヒートに所属している。

未来を嘱望された期待の新人として入団し、身長2メートルの大型ポイントガードとして活躍。1996年にはドリームチームのメンバーとしてアトランタオリンピックで金メダルを獲得するなどリーグを代表するスター選手の一人だったが、2000年以降は負傷によりプレイを制限され、以前のような活躍ができない状態が続いている。テネシー州メンフィス生まれ。愛称は「ペニー (Penny)」。

生い立ちと学生時代

幼少時に父が家族のもとを去り、母は歌手になるため実家を離れたため、ハーダウェイは祖母に育てられた。祖母はハーダウェイを「可愛い」という意味の "puitty" ("pretty" の訛り)で呼んだ。この呼び名が「ペニー」と聞こえたため、のちにあだ名として残ることになった。

高校時代のハーダウェイはジョージア州を代表するバスケットボール選手で、大学は地元のメンフィス州大学(現在のメンフィス大学)を選んだ。大学1年の時には学業の不振により大学のチームでプレイできなかった。また同じ1年生の時にハーダウェイは強盗に銃で足を撃たれたことがあった。

2年生になると成績が向上しチームへの参加が許された。ハーダウェイはチームを代表する選手として活躍し、シーズン後にはオリンピックに出場する初代ドリームチームの練習相手として組まれた学生選抜に選ばれた。ハーダウェイ同様長身のポイントガードだったマジック・ジョンソンは、「鏡を見ているようだ」とハーダウェイを評した。3年生の時には平均22得点、8リバウンド、6アシストを越える成績を残し、プロ入りを決意した。

NBAでのキャリア

オーランド・マジック時代

  • ハーダウェイがプロ入りする1993年には、オーランド・マジックがドラフト1位指名権を持っていた。マジックはクリス・ウェバーを指名し、ゴールデンステート・ウォリアーズが3位でハーダウェイを指名、両者はドラフト当日中にトレードされ、ハーダウェイはマジックに入団した。以後ハーダウェイは、前シーズンにマジックに1位指名されていたシャキール・オニールとともにチームの中核になる。
  • 1994 pippen all star classicでマイケル・ジョーダンと組み、52得点を記録し、ジョーダンを再びNBAに呼び戻すきっかけとなった。
  • 1993-94シーズン、シューティングガードで起用されることも多かった。オーランドのファンは、ウェバーがチームに加入することを期待していたためハーダウェイには冷たかった。ハーダウェイの活躍により徐々にファンからも実力を認められるようになる。新人王はウェバーが獲得する。オールルーキーファーストチーム(新人のうち優れた5人の選手)に選ばれた。プレイオフ1回戦でインディアナ・ペイサーズに3連敗し敗退。
  • 1994-95シーズンは、ポイントガードとして定着する。チームは57勝25敗。オールNBAファーストチーム(リーグ中の優秀な5人の選手)の一人に選出された。2年目のシーズンから4年間連続でオールスター戦の先発選手にも選ばれ、ハーダウェイはリーグを代表する選手の一人になる。プレイオフ2回戦で現役に復帰したマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズに勝利。NBAファイナルに勝ち進んだ。若手が中心で創設6年目のチームとしては快挙だったが、マジックはヒューストン・ロケッツに敗れた。
  • 翌1995-96シーズンは、開幕前にオニールが怪我をして欠場しチームの戦力は落ちたが、ハーダウェイの活躍でチームの勝率は良かった。オールNBAファーストチームに選出され、チームもリーグ屈指の60勝22敗という成績だったが、プレイオフではシカゴ・ブルズに敗退。このシーズンを最後にオニールがロサンゼルス・レイカーズに移籍したため、ハーダウェイがリーダーとしてチームを率いることになった。
  • 翌1996-97シーズンの開幕戦で、ハーダウェイらオーランド・マジックは日本を訪れた。オニールが移籍し、またハーダウェイ自身も膝の怪我のため23試合欠場したためマジックは苦戦するがプレイオフに出場し1回戦のマイアミ・ヒート相手に平均31.0得点と活躍するも敗退。
  • 翌1997-98シーズンも同じく膝の怪我で出場した試合は19試合に留まった。チームもプレイオフに出場できなかった。
  • 以降ハーダウェイの個人成績は怪我をする前の水準に戻ることはなく、ハーダウェイはオーランド・マジックの観客にブーイングされることもあった。1998-99シーズンは33勝17敗と勝ち越したもののプレイオフでは1回戦で敗退し、ハーダウェイはトレードを志願しフェニックス・サンズに移籍した。ジェイソン・キッドはハーダウェイとのコンビの期待感から「バックコート2000」と呼んだ。

フェニックス・サンズ時代

  • 1999-2000シーズンは、移籍先のフェニックスでジェイソン・キッドが先発のポイントガードだったため、ハーダウェイはシューティングガードとしてプレイ。平均得点16.9、リバウンドとアシストは5以上とまずまずの成績だった。プレイオフではチーム最多となる平均20,3得点と活躍する。1回戦で前年優勝のサンアントニオ・スパーズに勝利、2回戦のロサンゼルス・レイカーズに敗退する。
  • 翌2000-01シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合の出場のみ。キッドの活躍でチームの成績はよかった。
  • 翌2001-02シーズンは80試合に出場したものの先発は55試合に留まり、個人成績にも低下が見られた。キッドがトレードされたためチームの勝率は大きく落とした。プレイオフに出場できず。
  • 翌2002-03シーズンの出場試合は58試合、チームも若いジョー・ジョンソンを重視しハーダウェイはチームの構想から外れていく。
  • 翌2003-04シーズン途中にニューヨーク・ニックスへトレードされた。ハーダウェイが先発する試合は少なかった。

ニューヨーク・ニックス時代

  • 2003-04シーズン途中から加入、ベンチから起用されることが多かった。プレイオフ1回戦でキッド所属のニュージャージー・ネッツに敗退するも平均16,5点と活躍する。
  • 翌2004-05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。
  • 翌2005-06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、その後はどのチームにも所属していない。
  • 2007年8月10日、マイアミ・ヒートと契約したことを発表した。オニールと再びチームメイトになる。

外部リンク