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「野狐禅」の版間の差分

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'''野狐禅'''(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる'''邪禅'''のこと。「[[無門関]]」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な[[妖狐]]の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)ともいう。
'''野狐禅'''(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる'''邪禅'''のこと。「[[無門関]]」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な[[妖狐]]の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また'''生禅'''(なまぜん)ともいう。


「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。


「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「[[因果]]に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の[[畜生道]]に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの[[増上慢]](ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。
「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「[[因果]]に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の[[畜生道]]に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの[[増上慢]](ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。

なお、日蓮は[[四箇格言]]の一つで「禅天魔」と、禅宗を厳しく批判したが、その理由を[[教外別伝]]・[[不立文字]]で経典に依らないからとしているが、おそらく野狐禅に陥るという一面を取り上げて批判したものと考えられる。





2007年10月25日 (木) 09:24時点における版

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野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。

「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。

「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。

なお、日蓮は四箇格言の一つで「禅天魔」と、禅宗を厳しく批判したが、その理由を教外別伝不立文字で経典に依らないからとしているが、おそらく野狐禅に陥るという一面を取り上げて批判したものと考えられる。


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